『・・・「皆さん。どうしてこんなことをするのですか。私たちも皆さんと同じ人間です。そして、あなたがたがこのようなむなしいことを捨てて、天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えている者たちです。(新改訳聖書 使徒14章15節)』
ここで、『私たちも皆さんと同じ人間です。』と、パウロが言っています。誰に、何に対してそう言ったのでしょうか。ルステラの街で、彼らが、足の不自由な人を、祈りによって癒したのです。その様子を見た街の人たちが、パウロとバルナバを、神々の様に崇めようとしたので、パウロは、群衆の中に駆け込んで、その礼拝行為を拒んだのです。
古代ギリシャの神々の名であるゼウス、ヘルメスと呼ばれたら、とくに地中海沿岸諸国では、人間は舞い上がって、自分たちが偉大な神の様な存在でもあるかの様に思えて、賛辞と礼拝とを受けられたのです。ところが、パウロは、自分たちは、ただの罪ある人間で、赦された神を信じる者であって、神々が受ける栄誉など受けられないと言ったのです。
こう言うことは、教会の中にもよく起こることの様です。私の母教会の初期に、当時説教の上手な若い牧師が立てられたそうです。この人を、まるで「パウロ」の様な説教者と、教会が言い始めたのです。そう言われたこの人は、それを拒まなかったのです。後に、宣教師批判が始まり、結局、その牧師と追随者は、教会を去ることになったのです。残った教会は、深い傷を負ったのです。
人間は、どんなに能力があっても、罪を赦された者に過ぎないのに、神々でもあるかの様に、初代のエクレシアに仕えた僕に似せて、神に仕える大人物の様に崇めてしまう弱さがあるのでしょう。それとは真逆で、人に軽んじられて、いつも軽蔑や批判の対象とされた人もいます。完膚ないほどに貶められてしまう人もいるのです。
私の手元には、そういう人たちのリストがあります。その一人に、インドのコルカタ(以前はカルカッタと呼ばれていました)で、貧しい人や病者の世話をした人がいました。すでに亡くなられていますが、聖人と呼ばれ、この方の所属した団体からは特別な称号が、さらにノーベル賞も与えられ、国々からは数々の名誉賞を得たのです。
ところが、実際のところは、だいぶ違った人生を生きた人でした。この方の生き方に感動して、奉仕した方たちの中に、現実を語った人がいました。それは、単なる暴露や糾弾などではなく、真実を伝えたかったから、そうしたのです。
実際、Media campaignの広告塔とされていたのであって、実際からは程遠い、英雄像が作り上げられた背景があります。もちろん、私は、この方を批判して、貶める様なつもりはありません。ただ、真実から乖離した評価が先走りしてしまう様なことに、一言言いたいのです。私はお会いしたことがありませんし、カルカッタに行ったこともありません。
おびただしい量の活動の報告書がある一方、この方が書き残したものを、死後には破棄するように依頼されていたのですが、そうされずに残されて、それが編集されて文書化されています。その中に、真実の姿が窺えるのです。どうぞ、関心のある方は、お読みになってみてください。
多人数の教会を形作って、その成功の陰で、救い主、教会の主の名を辱めてしまった人は、けっこう必要以上の崇められるケースが多いのです。そして惨めな結末を迎えてしまいました。無名でも、主に栄光を帰して、一生を終えた人こそ、『よい忠実なしもべだ(マタイ25章21、23節)』と言われるのでしょう。
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エスキモー宣教をされた宣教師のお話を、若い頃に聞いたことがあります。何年も何年も福音宣教をしましたが、だれ一人救いに導くことがありませんでした。ある年、えエスキモーの狩で一匹の鯨も獲れなかったのです。『もし鯨が獲れる様に祈って、鯨を獲ることができたら、お前の言うキリストを信じよう!』と言ったそうです。
ところが、宣教師さんは必死に祈ったのですが、そのシーズンには一頭たりとも取れませんでした。それで怒ったエスキモーたちは、その宣教師を崖から投げ落として殺してもしまうのです。死体を確かめに崖下に確かめに行くと、何と鯨が一頭、その宣教師の死体の傍にいたのですね。
この一件で、エスキモーたちは、イエスをキリストと信じ、彼らの間に信仰のリバイバルが起こったのです。この宣教師は、そんな救いがエスキモーの間に起きたことを知らずに殉教をしたわけです。一粒の麦が地に落ちたことによって、多くの魂が救われたのです。これこそが、主の救霊の業、聖霊のなさる事業なのです。人の救いとは、この様なことなのであります。
(ウイキペディアの鯨と16世紀の捕鯨です)
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