一匹の鯨とエスキモー、そして宣教師と

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『・・・「皆さん。どうしてこんなことをするのですか。私たちも皆さんと同じ人間です。そして、あなたがたがこのようなむなしいことを捨てて、天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えている者たちです。(新改訳聖書 使徒14章15節)』

 ここで、『私たちも皆さんと同じ人間です。』と、パウロが言っています。誰に、何に対してそう言ったのでしょうか。ルステラの街で、彼らが、足の不自由な人を、祈りによって癒したのです。その様子を見た街の人たちが、パウロとバルナバを、神々の様に崇めようとしたので、パウロは、群衆の中に駆け込んで、その礼拝行為を拒んだのです。

 古代ギリシャの神々の名であるゼウス、ヘルメスと呼ばれたら、とくに地中海沿岸諸国では、人間は舞い上がって、自分たちが偉大な神の様な存在でもあるかの様に思えて、賛辞と礼拝とを受けられたのです。ところが、パウロは、自分たちは、ただの罪ある人間で、赦された神を信じる者であって、神々が受ける栄誉など受けられないと言ったのです。

 こう言うことは、教会の中にもよく起こることの様です。私の母教会の初期に、当時説教の上手な若い牧師が立てられたそうです。この人を、まるで「パウロ」の様な説教者と、教会が言い始めたのです。そう言われたこの人は、それを拒まなかったのです。後に、宣教師批判が始まり、結局、その牧師と追随者は、教会を去ることになったのです。残った教会は、深い傷を負ったのです。

 人間は、どんなに能力があっても、罪を赦された者に過ぎないのに、神々でもあるかの様に、初代のエクレシアに仕えた僕に似せて、神に仕える大人物の様に崇めてしまう弱さがあるのでしょう。それとは真逆で、人に軽んじられて、いつも軽蔑や批判の対象とされた人もいます。完膚ないほどに貶められてしまう人もいるのです。

 私の手元には、そういう人たちのリストがあります。その一人に、インドのコルカタ(以前はカルカッタと呼ばれていました)で、貧しい人や病者の世話をした人がいました。すでに亡くなられていますが、聖人と呼ばれ、この方の所属した団体からは特別な称号が、さらにノーベル賞も与えられ、国々からは数々の名誉賞を得たのです。

 ところが、実際のところは、だいぶ違った人生を生きた人でした。この方の生き方に感動して、奉仕した方たちの中に、現実を語った人がいました。それは、単なる暴露や糾弾などではなく、真実を伝えたかったから、そうしたのです。

 実際、Media campaignの広告塔とされていたのであって、実際からは程遠い、英雄像が作り上げられた背景があります。もちろん、私は、この方を批判して、貶める様なつもりはありません。ただ、真実から乖離した評価が先走りしてしまう様なことに、一言言いたいのです。私はお会いしたことがありませんし、カルカッタに行ったこともありません。

 おびただしい量の活動の報告書がある一方、この方が書き残したものを、死後には破棄するように依頼されていたのですが、そうされずに残されて、それが編集されて文書化されています。その中に、真実の姿が窺えるのです。どうぞ、関心のある方は、お読みになってみてください。

 多人数の教会を形作って、その成功の陰で、救い主、教会の主の名を辱めてしまった人は、けっこう必要以上の崇められるケースが多いのです。そして惨めな結末を迎えてしまいました。無名でも、主に栄光を帰して、一生を終えた人こそ、『よい忠実なしもべだ(マタイ25章21、23節)』と言われるのでしょう。

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 エスキモー宣教をされた宣教師のお話を、若い頃に聞いたことがあります。何年も何年も福音宣教をしましたが、だれ一人救いに導くことがありませんでした。ある年、えエスキモーの狩で一匹の鯨も獲れなかったのです。『もし鯨が獲れる様に祈って、鯨を獲ることができたら、お前の言うキリストを信じよう!』と言ったそうです。

 ところが、宣教師さんは必死に祈ったのですが、そのシーズンには一頭たりとも取れませんでした。それで怒ったエスキモーたちは、その宣教師を崖から投げ落として殺してもしまうのです。死体を確かめに崖下に確かめに行くと、何と鯨が一頭、その宣教師の死体の傍にいたのですね。

 この一件で、エスキモーたちは、イエスをキリストと信じ、彼らの間に信仰のリバイバルが起こったのです。この宣教師は、そんな救いがエスキモーの間に起きたことを知らずに殉教をしたわけです。一粒の麦が地に落ちたことによって、多くの魂が救われたのです。これこそが、主の救霊の業、聖霊のなさる事業なのです。人の救いとは、この様なことなのであります。

(ウイキペディアの鯨と16世紀の捕鯨です)

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花婿の様に喜び走る

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 この12月21日は、「冬至」でした。「二十四節気」の一つで、この日を境に、一日の日の出ている時間が長くなっていくのです。太陽の運行、地球の運行の不思議さに、驚嘆せずにいられません。

 エンジンもレールもないのに、宇宙空間を運行しているのを知って、子どものころに驚き怖れたのを覚えています。でも聖書を読み始めて、何故かが理解できたのです。

『太陽は、部屋から出て来る花婿のようだ。勇士のように、その走路を喜び走る。その上るのは、天の果てから、行き巡るのは、天の果て果てまで。その熱を、免れるものは何もない。(新改訳聖書 詩篇19篇6-7節)』

   神さまが創造され、走路を定め、運行されていらっしゃるので、安心して、この地球の上で生活していられるのです。そればかりか、この宇宙を創造された神さまが、この自分も造ってくださったのです。これこそが驚嘆の極みです。

 今日も生かされ、支えてくださるのです。今朝読んだ聖書の中に、次の様にありました。

『あなたの神、主であるわたしが、あなたの右の手を堅く握り、「恐れるな。わたしがあなたを助ける」と言っているのだから。(イザヤ41章13節)』

 これで、今日の安心が与えられたと感謝したところです。良い一日であります様に! 

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友と語らむ

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 作詞が佐伯孝夫、作曲が灰田有紀彦、歌は灰田勝彦で、灰田兄弟は父と同世代人でした。この「鈴懸の径(みち)」は、上の兄に教わった、ハワイアンのリズムでした。鈴懸は、プラタナスのことです。

🎶 友と語らん 鈴懸の径
通いなれたる 学校(まなびや)の街
やさしの小鈴 葉かげに鳴れば
夢はかえるよ 鈴懸の径

熱き想いを 心にこめて
澄んだひとみは 青空映す
窓辺の花に ほほを寄せれば
夢はかえるよ 鈴懸の径

月日は移り 想い出だけが
今も浮かぶよ 別れた友の
若き日の唄 風に乗せれば

夢はかえるよ 🎵

 多くの息子たち、多くのお父さんたちが戦場に駆り出されて行く中、戦時中、1942年(昭和17年)の9月に、発表された歌でした。軍歌一色、国威を発揚する歌が溢れる中で、このような歌が作られ、歌われたのは、驚きです。この歌は、元々Jazz調ではなかったのですが、歌詞の内容が軟弱だったので、官憲から目くじらを立てられたのです。

 それでも、太平洋戦争時、特別攻撃隊の隊員たちに大変好まれて歌われた「愛唱歌」だったそうで、突撃のために待機中の隊員たちが、「ふるさと」と共に、この「鈴懸の径」を、毎夜歌ったのだそうです。この小径は、池袋にある立教大学のキャンパスの中にあって、池袋界隈の名所の一つになっています。

 元特攻隊員で、突撃せずに終戦を迎え、平和な時代を生きた人たちが、こんなことを書き記していました。戦時下、おもに特攻機で死んだことが、「無駄死に」と言う風潮の中で、『そうではなかった!』と言って、その死に意味を加えたのです。『祖国の平和のために、全てを投げ打って、彼らは夢も理想も、命も青春も捧げたのです!』とです。

 「日本戦没学生の手記」が、昭和24年に刊行されています。学徒出陣したまま、戦場で亡くなった人、戦禍を生き延びたみなさんの手記をまとめた本でした。

 戦場に駆り出されて、お父さんを亡くした級友たちが、クラスの中に何人もいました。高校の時の級友の家に泊めてもらった時、布団を敷いてくれた部屋に、軍帽を被り、軍服姿のお父さんの写真が掲げてありました。それまでお母さんとはお会いして、話をしたことがありましたが、お父さんを語ることはなかった彼が、戦争でお父さんを亡くしていたのを、そこで初めて知ったのです。

 オリンピックの馬術の競技に、補欠として参加したほどの腕の持ち主で、大陸を転戦し、敗戦後も在留して大陸で没したお父さんがいて、家に残していた軍帽を被って、九州の温泉町で、チャンバラごっこをして遊んだと、級友が話してくれました。その他にも、同世代人は、父無し子たちが、どのクラスにもいたのです。

 生き残った方々も、戦死された方々も、平和の時代の今では考えられないような現実を過ごしたわけです。そしてその世代の次の世代、私たちの次の次の世代、孫の世代が、再び戦場に駆り立たされるような時代になりつつあるのではないでしょうか。

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『また、戦争のことや戦争のうわさを聞いても、あわててはいけません。それは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。 民族は民族に、国は国に対して立ち上がり、方々に地震があり、ききんも起こるはずだからです。これらのことは、産みの苦しみの初めです。(新改訳聖書 マルコ伝13章7-8節)』

 第二次世界大戦後、以前の「国際連盟」が、「国際連合」として、世界平和を願って再組織されたわけですが、この戦後の80年、地域紛争、国対国の戦争が起こり続け、平和だったとは言えま、せん。さらに第三次世界大戦が起こりかねない、国際情勢になっている様な感じが強くなってきています。

 友と、出会いや家族や、これからの時代を、喫茶店ではなく、ネットを介して語ることが、今ではあります。この時代を生きる「澄んだひとみ」の若者たちの前に、どんな事態が、今後展開していくことでしょうか。

(ウイキペディアのプラタナスの花、世界地図です)

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漢方薬治療を受けて

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 「ペイン・クリニック( pain clinic )」、コトバンクには、『痛みの診断と治療を専門的に行う診療科で,「疼痛外来」とも呼び,痛みを除去する治療を除痛術ということもある。」と、解説がありました。以前は、診療は、麻酔科医が担当していたのですが,今では独立して、診療科が担当されている様です。

 痛みを緩和するための医療のことで、「疼痛外来」で、家内は5年間、呼吸器・アレルギー科の治療をして、それが一段落終して、「痒み治療」をしてくださる外来にかかっております。「緩和治療」と呼ばれています。さまざまな痛みや痒みを抱えている人に、医療を担当する医師がおいでです。以前は、その様な医療はなかったのですが、内科が、専門専門の多様な立場で治療に当たっています。

 その担当医とは、以前から面識があって、長く総合病院で勤めておいでで、若い医師の教育を終えて、元の病院に戻ってからは、緩和治療を担当しながら、もう一つの漢方医の立場を兼ねていて、家内を診ていただいているのです。家内は、日本に帰って、大学病院にかかり始めたのは、初診は、「総合診療科」で診ていただいてから、「呼吸器・アレルギィー科」に移って、そこにかかり続けながら、一年ほど前から、この病院にも通院しているのです。

 こちらに来てから、医療機関の事情や様子を、よくご存知のご婦人と知り合って、この方の紹介で、今担当してくださるお医者さんが漢方医であるとの紹介をいただき、かかり始めたのです。ご自分もかゆみと戦っておいでで、ご自分の体験を、外来でお話をしてくれるほど、打ち解けていて、安心している今なのです。

 先日の受診日に、ご自分が漢方薬を試して飲まれているそうです。これまで一回一包の漢方薬を飲んでいたのを、ぜんかいのしんさつのあと、一ヶ月近く、二包に増やして飲まれたのだそうです。それが良かったのか症状が好転したのだそうです。それで、『二包の飲まれるのはどうでしょうか?』と聞いてくださったのです。

 実験的に、ご自分自ら飲まれたことをお聞きして、『そこまでするか!』で、安心と感謝で、今回からの投薬を二包にしていただいたのです。

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 在華中に、体調が優れないと、私たちのお世話をし続けてくださった姉妹が、すぐに漢方医に連れて行ってくださって、問診してから、漢方薬を処方してくださり、その処方箋を持って、漢方薬店に行って、買い求めたのです。中国のみなさんは、西药xiyaoよりも、中药zhongyaoの方を今でも好んで服用しておいでです。街中にそのお店がたくさんあります。

 時々訪ねてくださる、中国人の友人たちが、来るたびに持参してくださる薬があるのです。どうも特別なルートで入手できる様で、本当に飲むと良くなるのです。それで、今や自分の常備薬になってしまっています。けっこう高額な薬なのだそうです。

 中国生活が長かったからでしょうか、漢方治療への評価が良くなっているのです。もちろん西洋の医療は素晴らしいのですが、漢方も蔑ろにはできそうにありません。順天堂大学で学ばれて、われわれ世代の家内の主治医は、そういった形で投薬を勧めてくださるので、よろしくお願いしますと言って、診察を続けております。

 東武宇都宮線で、東武宇都宮駅で下車し、バスに乗り換えての通院です。月一度、ちょっと遠足気分でのお出掛けは、行動範囲が広がった様で、県都参りをしています。自動ドアーではなく、乗客がボタンを押すと開くドアーの電車は、ローカル色の趣がして、懐かしくなって参ります。

(ウイキペディアの東武宇都宮線の車両、在華中の漢方薬に入っていた蝉の抜け殻です)

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食の安全を求めて

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『神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与える。それがあなたがたの食物となる。(新改訳聖書 創世記1章29節)」

 「地産地消」、”スローフード”という、食生活への勧めの言葉があります。若い頃はよく食べ、懐かしくて一度、宇都宮にあるキング・バーガーで、所用の後に食べた、そのような”fast food “ではなく、また輸入食品などでないものを摂ることが、一番適切な食生活だと言う勧めなのです。

 私たちは、結婚当初の二人だけの生活が、子育てを終え、四人の子が独立していってから、再び戻ってきて、病んだり老いを迎えたりして、今は、ずいぶんと平凡で単調な生活が続いています。ことのほか、家内が病んで、急遽帰国してからの、この6年間は、アッという間に過ぎていきました。

 隣国の素晴らしいクリスチャンたちの間で過ごさせていただいた、13年間も、アッとの間に過ぎていき、ただ懐かしい思い出とともに、たまに二人の会話に、漢語が飛び出して来たり、家の教会で、みなさんと歌った賛美も、懐かしく歌うこともあります。

 ある時、私たちが集っていました教会の方が、有機野菜の栽培をしようとしている農家が、『もし30〜50世帯の方と契約できたら、経営していけそうです!』、そうおっしゃっていました。2人世帯の消費量は、そう多くありませんが、そういった願いのある農家を支えていこうと思っていた矢先、帰国となってしまったのです。

 過剰に農薬や飼料が使ての農業の生産物は、どうしても避けなければなりません。そのような思いで帰国しこちらでの私たちの生活を助けてくださったご夫妻がいて、新しい街での生活が始まったのです。布団から、家財道具、調理用具の鍋釜、茶碗までお借りし、その上、家までお借りして生活が始まったのです。

 2019年の秋の台風で、その住んでいた家が床上浸水で住めなくなり、このご夫妻の息子さんの友人が牧会している、県北の教会の二階のゲストルームに急遽、住まわせてもらったのです。その教会の台所を使わせていただき、お米や野菜や果物を、教会のみなさんが届けてくださったりして、何度か近くの名物ラーメン店で、佐野ラーメンも食べ、理容室で髪の毛も切ってもらったりもしたのです。

 驚くことに、家内が退院でき、私の作る食事を口にしてくれるようになって、47年も受けたお返しで、見様見真似で台所仕事をやってきました。今では家内が昼食作りの当番をしてくれ、夕食もおかずを一品を作ったりしてくれる様になってきているのです。そんな中で、コープ生協よりも選定基準の注意深い食品の宅配を、そのご夫妻に紹介していただいたのです。

 農薬や添加物を極力使わない食材や、化学薬品未使用をしない、有機栽培のや飼育の米や肉類、魚、卵などを注文できるのです。病んで、注意深くなった家内の基準は高くなっていて、それを守っているのです。週一の宅配ですが、醤油も味噌も、有機の物が入手できます。

 健康維持のために、健康的生活のためには、それがいいのでしょうか、食生活の改善が、良かったと思うのです。県内産の野菜や果物が多く、海なし県で、海産物は獲れませんが、養殖ではない物が多く入手できます。国産にこだわり、しかも生活圏に近いところで生産される物が、優先的に選定され、入荷し、配達されているのです.

 それとともに、自家栽培がしたくて、狭いベランダで、トマトやナス、オクラやイチゴなどを、これまで育ててみたのですが、どうもうまくいきません。私の弟は、広いベランダで、インゲンを植えたり、ナスを育てていたりしていて、けっこう収穫があるのだそうです。それで、集合住宅ではなく、庭付きの家に住みたいのですが、今住んでいます家は、四階で東側に窓があって、陽当たりと景観が抜群によくて、家内は住み続けたいのです。

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 その“ slow food “ は、イタリアで始まったのだそうで、その土地土地の伝統的な食文化や食材を見直そうとした運動なのです。あの ”fast food  “ の流行りに対抗して始まっています。まさに宅配で購入している食品は、そんな運動に追い打ちをかけているのでしょう。

 帰国したばかりの頃に、〈苺の農薬使用料〉のことが、あるサイトに載っていました。台湾が、日本産の苺の輸入禁止をしているそうで、その理由も記されてありました。何と、台湾の農家の400倍もの殺虫剤を使っているので禁止ているそうで、驚いたのです。病害虫から守らないと、商品価値を維持し、上げられないので、そのように使用をしているのです。

 以前住んでいた街で知り合った、果物栽培農家の方に招かれて、お宅に行きました時、美味しい桃を出してくれました。『これは食い料で、家で食べてる物だから美味しいですよ!』と言われたのです。農協に出すのとは別な木から獲った物でした。農協企画があるのでしょうか、初めて聞いて驚いたのです。大きさや綺麗さではなく、農薬使用を極力控えた桃なのです。生産者は、そんなに気を使っているなら、私たちも注意しないといけないなと思わせられた次第です。

 父と母に養われ、子どもたちが与えられてから、親として私たちが彼らを養いました。その私たちに食物を与えてくださったのは、種を与え、水と光を与え、肥えた地で育ててくださったのは神さまでした。

(ウイキペディアの欧州連合〈EU〉の毒の印、イタリヤのミラノです)

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あふれる感謝の記

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 2018年の暮れのちょうど今頃でしたが、住んでいた華南の街の北の方に、美しい港町があり、そこを訪ねたのです。その港を見下ろす、ちょうど横須賀を思わす様な小高い丘があって、そこに、小ぢんまりとした養老院がありました。

 そのホームに、クリスチャンのみなさんがいて、教会の何人かの姉妹たちとで、お訪ねしたのです。お会いしたみなさんの中に、九十五歳のご婦人がいて、お父さまが牧師さんで、いつも旅をしている人々を泊めては、甲斐甲斐しくお世話をしていたそうです。そんなご両親の奉仕の姿を見て育ったと言っておいででした。そんな背景があって、この姉妹は医学校に行かれて、ずっと医者として、医療に携わってこられたのです。

 貧しい旅人に食事を提供し、床を備え、無事を願って送り出していた父母への愛と敬意が、その語ることばにあふれていました。素晴らしく輝いていた老姉妹でした。そこから帰ろうとしていた時に、その部屋においでのご婦人が、200元を、そっと手渡して下さって、『帰りにお昼を召し上がってください!』と言われたのです。年金生活者なのに、訪問を喜んでくださったからでした。

 この国が激変する中で、みなさんは、主にある良心を保って、人々に仕えて来られたのです。その訪問で、どんなに励まされたことでしょうか。救い主への愛と隣人への愛に生きて来られた実りを感じさせていただいたのです。

 その訪問の後、教会でのクリスマス集会が終わって、家内が体調を崩したのです。無理を押していたのかも知れません。娘の様に、お世話くださった若い姉妹が、『病院に行きましょう!』と、車で迎えに来てくださって、省立医院の新院に出掛けたのです。MRI検査の段階で、より精密なMRIのある本院に行く様に、手続きしてくださったのです。2019年の元旦に、その本院に連れて行っていただいて、診察の後、即入院になりました。

 入院中、主治医に、私が呼ばれて本院に行きますと、病状を説明してくださって、『すぐに帰国して、日本の医院で診てもらってください!』と、緊急事態を説明してくださったのです。すぐに飛行機のチケットを予約して、翌朝、車で家内を本院を訪ね、その足で飛行場にお連れいただいたのです。早朝のことでしたが、多くの兄弟姉妹が見送りに来てくださったのです。

 普通席の予約を、ビジネス席に、その姉妹が変えてくださっていました。ところが、空港の医師が診察の結果、家内の搭乗を不許可にしたのです。それで、当日便をキャンセルし、翌日便を予約しもらって、家に帰ったのです。ハラハラドキドキの連続でした。その自分たちの家での一泊は、家内には、良かったのです。自分のベッドでゆっくり休めたからです。

 翌朝、空港に着きますと、その日の担当医師は、搭乗許可を出してくれ、無事に飛行機に乗れることになったのです。みなさんが、あちこちに連絡してくれて、許可にたどり着いたのです。みなさんに涙ながらに送られて、その涙の意味が家内には、『またすぐに帰ってくるのに?』と意外でした。愛兄姉たちには、家内の病気が厳粛なものだと分かっていたからで、知らなかったのは家内だけでしたのです。

 生涯初めてのビジネスクラスに席に座ることができて、成田に着きました。迎えに来てくれた長男の車で、前回お邪魔したことのあった、栃木の友人宅に連れて行ってもらったのです。暖かく迎えてくださって、寝具も洗濯していてくださっていました。翌日、隣町にある獨協医科大学病院に、息子に送ってもらい、総合診療科で診てもらいました。診察の結果、即入院とのことで、アレルギー呼吸器科の病棟に参りました。

 若い主治医は肺線ガン、余命半年の診断をされました。そこで治療が始められたのです。私には、省立医院の主治医が、厳粛なガンだということは告げてくれましたが、その入院で、家内には、その旨話しました。長く食べられない状況が続きましたが、あのオブジーボと同じ、免疫力に働きかける阻害剤の「キイトルーダ」の投与が始まったのです。

 『今晩が峠なので注意を!』と、主治医が当番の看護師さんに言った言葉が、家内に漏れ聞こえてしまったのですが、死の恐れよりも平安のうちに覚悟ができたのだそうです。そんな思いで朝を迎えたのです。それから、抗がん剤治療の併用も勧められましたが、家内も、子どもたちも反対していました。それで主治医と何度か、子どもたちを交えて話し合いをしたのです。結局使われずに、入院4ヶ月で、退院になったのです。

 もうターミナルケアー病院への転院だ残されていました。栃木の家から、息子の送り迎えで通院して、キイトルーダーの点滴治療が続けられていったのです。その内に、癌の部分がだんだん小さくなっていくではありませんか。最終の緩和治療の予定が反故になって、転院をしないですんだのです。

 医師との話し合いで、キイトルーダの点滴を40回でやめたのです。それ以降は、血液、尿、レントゲン、さらにはCT、MRI、ペット検査などが行われていきましたが、転移もなく、ガンの部分が活躍していない状況になって、そのままの状態が続いたのです。そして、今では、3ヶ月ごとの通院で、検査だけを継続することになって、今日に至っています。

 入院初期に、下の息子の勧めで、主治医の了解のもとで、CBDオイルを飲み続けて、先日、定期配達をやめたのです。後遺症はあって、体重がまだ以前の状態には戻っていないのです。それで体重が増加するように、また体質が改善し、体力をつく様にと、また、痒みの改善のために、漢方の専門医の診察を、県立の別の病院で、月に一度の通院で受け続けています。

 この6年、いつ召されるか分からない家内のまさかを考えて、夜中の就寝中の家内の様子を、起きては見続けてきていましたが、今はやめてしまいました。主にお任せの今です。これまで、一緒に主に仕えさせていただいて、いろいろな出来事を経験した年月でした。生死の境を通る様な病になってみなければ、また主治医に、明日の朝までとの余命宣言をされる様なことがないなら、病む人が感じていることなど理解できなかったに違いありません。病むことのなかった家内が、病者の痛さや不安を、味わったのです。

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 今や選手交代で、自分の番になった様です。心房細動という聞いたことのなかった心臓の不調を覚えている今なのです。近所にお住まいで、ほぼ同世代のご夫婦がおいでで、奧さまと家内に交わりができ、家の行き来で、互いに家に呼びあう交わりが与えられたのです。そのご主人が、同じ病状で、3ヶ月前に、カテーテル・アブレーションという治療を受けられ、その退院された数日後に、家に私たちを呼んでくださって、その様子の報告会をしてくださったのです。お茶やお菓子や果物で歓待してくれてでした。

 先日、その術後3ヶ月の診察に行かれ、結果を知らせてくれたのです。この方の篤い友情に感謝している今なのです。月末に入院して、自分も、今週、同じ治療を受けることになっています。次女の家族が来てくれて、留守の家内の世話をしてくれる様です。先週、前の教会で一緒に礼拝を守ったご夫妻から、シクラメンが送られて来ました。そんなことで、入院と手術の心の準備中の今なのです。

 さて昨日は、私の八十の誕生日でした。何度も死にかけてきた年月でした。二親の慈愛、母の祈りと介護により、結婚後は家内からの激励、祈りの年月があり、こんなに生きるとは思いませんでしたのに、命の付与者なる神さまの守りがあって、生きることができました。ただその憐れみに感謝したのです。

 家内がお昼に、市内のレストランでお祝い会を開いてくれました。夕べには、次女家族が、祝福二次会を開いてくれ、ケーキ、ギフト、次女夫妻と同行の二人の孫たちからお祝いカードをもらいました。また家内の散歩友だちからは、豪華なイチゴとみかんと、好物の鮭の切り身が届きました。孫たちは、マッサージまでしてくれ、長男、長女、次男からは、祝福のメッセージが届いています。最後に、婿殿から、『どんなことが、この年月にありましたか?』と問われたのです。

 戦時下の12月17日、早朝4時45分に生まれたこと、村長夫人が産婆をしてくれたこと。物資のない中を二親が育ててくれたこと。就学前に、肺炎で死にかけた自分を、二親の深い愛で守られたこと。二人の兄と、一人の弟が与えられ、素晴らし佳人、妻を与えられ、四人の子どもが生まれたこと。この四人に、素敵な婿と嫁が与えられ、四人の孫が与えられたこと。さら良き” mentor “ や友人が与えられたこと。これら全てのことは、創造者なる神さまからの備え、贈り物だったこと。『生かされたこと!』の感謝の一言に尽きます。

 好きなものの[ジェームス・ディーン]、[ジャズ]、[きんつば]の3点セットの答えが、孫たちに大受けした一日でした。[きんつば]は、父の好物で、これは言いませんで、そう答えたのです。滅びても当然な自分を、赦してくださって、この永遠のいのちに預からせてくださった、父なる神への感謝に併せて、『生かされたこと!』の感謝の一言に尽きます。

(朝ぼらけ、ウイキペディアの生まれた付近の山からの遠望です)

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こんなに綺麗な世界が

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 『世界ってどうしてこんなに綺麗なんだろう。』、これは、私の言葉ではありません。有名な文学者のものでもないのです。夕陽が落ちていく中での光景を見た人の強烈な感動の言葉です。

 このところ、寒さが厳しく感じられるからでしょうか、家の南側の窓から薄暮の紅というには足りない、様々な濃度の赤や橙の色が塗り込まれている様な夕空が見えて、家内を呼びました。大平山の向こうの空を中心の西の空全体が織りなす色彩は形容し難く、綺麗なのです。

 辛く、絶望的な一日が暮れて行こうとしていたアウシュビッツの収容所で、宿舎に帰って来た一人の人が、夕日の美しさを見て、同房のみんなに告げるのです。すると、空腹や病や一日の労働で疲れ切った仲間たちが、一人一人、よろよろと外に出て、その夕空を眺めるのです。感動のあまり沈黙して、みんなが燃え上がる様な夕空を見上げていました。その沈黙の中で、一人が、感動的に静かにつぶやいた言葉が、これなのです。

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 そんなことが、心理学者V・フランクルの著した「夜と霧」(みす ず晝房)の中に記されてあります。人間は、その最悪な状況下で、明日はガス室に送られるか分からない様な時でも、病んで床に伏せっていても、美への感動を、人は忘れないのです。

 中国の天津で、一年を過ごしたことがありました。その街の外国人アパートの七階のベランダから見た、沈んでいく大陸の夕陽に圧倒され、二人とも息を呑むようだったのを覚えています。真っ赤に燃える様な大きな太陽でした。

 あんなに大きく遠くにある太陽が、自転や公転、銀河系の中での移動など、さまざまな動きをしています。その周りを太陽系の星が運行しているのです。太陽が発する熱や光が、夕陽を染めるのは、誰もが感動するのですが、置かれた場所が違っても、人の感動はひとつです。

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 測り切れないほどの距離の宇宙の広がりに、驚くほどの星があって、今も発見されていて、そこから今、光が届くことがあるのです。先日、『多くの流れ星が今晩は見られます!』と天気ニュースで言っていました。昨夜は、今年最後の満月の中、お隣のご夫妻と、教会コンサートに参加し、夕食を共にした帰途、冬の夜空に煌々と輝いていました。

『神は大空を造り、大空の下の水と、大空上の水とを区別された。そのようになった。 神は大空を天と名づけられた。夕があり、朝があった。第二日。 (新改訳聖書 創世記1章6〜8節)』

 整然と散りばめられて、煌めく夜空も、それを眺める私も、神が計画通りに創造されたのです。しかも私たちは、神の愛顧の対象であることに気づいたのは、これも神のなせる業のひとつなのです。

(ウイキペディアの地球、我が家からの日の出、次男が撮った月です)

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ここまで養われてきて

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『神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与える。それがあなたがたの食物となる。(新改訳聖書 創世記1章29節)」

 「地産地消」や ”スローフード”と言う、食生活への勧めの言葉があります。若い頃によく食べ、懐かしくて一度、宇都宮にあるキング・バーガーで、所用の帰りに食べた、そのような”fast food “ではなく、また輸入食品などでないものを摂ることが、一番適切な食生活だと言う勧めなのです。

 私たちは、結婚当初の二人だけの生活が、子育てを終え、四人の子が独立していってから、再び戻ってきて、病んだり老いを迎えたりして、今は、ずいぶんと平凡で単調な生活が続いています。ことのほか、家内が病んで、急遽帰国してからの、この6年間は、アッという間に過ぎていきました。

 隣国の素晴らしいクリスチャンたちの間で過ごさせていただいた、13年間も、アッとの間に過ぎていき、ただ懐かしい思い出とともに、たまに二人の会話に、漢語が飛び出して来たり、家の教会で、みなさんと歌った賛美も、懐かしく歌うこともあります。

 ある時、私たちが集っていました教会の方が、有機野菜の栽培をしようとしている農家が、『もし30〜50世帯の方と契約できたら、経営していけそうです!』、そうおっしゃっていました。2人世帯の消費量は、そう多くありませんが、そういった願いのある農家を支えていこうと思っていた矢先、帰国となってしまったのです。

 過剰に農薬や飼料が使ての農業の生産物は、どうしても避けなければなりません。そのような思いで帰国し、こちらでの私たちの生活を助けてくださったご夫妻がいて、新しい街での生活が始まったのです。布団から、家財道具、調理用具の鍋釜、茶碗までお借りし、その上、家までお借りして生活が始まったのです。

 2019年の秋の台風で、その住んでいた家が床上浸水で住めなくなり、このご夫妻の息子さんの友人が牧会している、県北の教会の二階のゲストルームに急遽、住まわせてもらったのです。その教会の台所を使わせていただき、お米や野菜や果物を、教会のみなさんが届けてくださったりして、何度か近くの名物ラーメン店で、佐野ラーメンも食べ、理容室で髪の毛も切ってもらったりもしたのです。

 驚くことに、家内が退院でき、私の作る食事を口にしてくれるようになって、47年も受けたお返しで、見様見真似で台所仕事をやってきました。今では家内が昼食作りの当番をしてくれ、夕食もおかずを一品を作ったりしてくれる様になってきているのです。そんな中で、コープ生協よりも選定基準の注意深い食品の宅配を、そのご夫妻に紹介していただいたのです。

 農薬や添加物を極力使わない食材や、化学薬品未使用をしない、有機栽培のや飼育の米や肉類、魚、卵などを注文できるのです。病んで、注意深くなった家内の食べ物の選定基準は高くなっていて、それを守っているのです。週一の宅配ですが、醤油も味噌も、有機のものが入手できます。

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 健康維持のために、健康的生活のためには、それがいいのでしょうか、食生活の改善が、良かったと思うのです。県内産の野菜や果物が多く、海なし県で、海産物は獲れませんが、養殖ではない物がおおく入手できます。国産にこだわり、しかも生活圏に近いところで生産される物が、体に良いのだと言われています。

 それとともに、自家栽培がしたくて、狭いベランダで、トマトやナス、オクラやイチゴなどを育ててみたのですが、どうもうまくいきません。私の弟は、広いベランダで、インゲンを植えたり、ナスを育てていたりしていて、けっこう収穫があるのだそうです。それで、集合住宅ではなく、庭付きの家に住みたいのですが、今住んでいます家は、四階で東側に窓があって、日当たりと景観が抜群によくて、家内は住み続けたいのです。

 その“ slow food “ は、イタリアで始まったものだそうですが、その土地土地の伝統的な食文化や食材を見直そうとした運動なのです。あの ”fast food  “ の流行りに対抗して始まっています。まさに宅配で購入している食品は、そんな運動に後押しされているのです。

 帰国したばかりの頃に、〈苺の農薬使用料〉のことが、あるサイトに載っていました。台湾が、日本産の苺の輸入禁止をしているそうで、その理由も記されてありました。何と、台湾の農家の400倍もの殺虫剤を使っているので禁止ているそうで、驚いたのです。病害虫から守らないと、商品価値を維持し、上げられないので、そのように使用をしているのです。

 以前住んでいた街で知り合った、農家の方に招かれて、お宅に行きました時、美味しい桃を出してくれました。『これは食い料で、家で食べてる物だから美味しいですよ!』と言われたのです。農協に出すのとは別な木から獲った物でした。農協企画があるのでしょうか、初めて聞いて驚いたのです。大きさや綺麗さではなく、農薬使用を極力控えた桃なのです。生産者は、そんなに気を使っているなら、私たちも注意しないといけないなと思わせられた次第です。

 父と母に養われ、子どもたちが与えられてから、親として私たちが彼らを養いました。その私たちに食物を与えてくださったのは、種を与え、水と光を与え、肥えた地で育ててくださったのは神さまでした。

(宣教師さんに教えていただいて作った「タコライス」です)

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新聞の名コラム

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 高校3年間の担任が、KOボーイの先生で、卒業して行った3学年違いの兄たちの時の担任もしていて、「オジイ」と渾名されていました。自分ともう一人のI君が、このオジイの怒られ役でした。それで終礼に出たくなくて、グランドに出て遊んでいて、教室に戻ると、みんなが『廣田はどこ行った?』と、オジイが怒っていたと言うのです。『戻ってきたら、職員室に来る様に!』と伝言があったのです。

 これがいつものことで、仕方がなく、職員室に行くのです。すると、オジイは、『おっ、廣田来たか!』と、もう怒っていないで、『頑張れよ!』と、背中を叩くのです。この担任の先生が、朝礼の時に、新聞の記事からの話をされ、よく「天声人語(朝日新聞の名物コラムです)」から引用しておられ、『荒垣(秀雄)さんが!(1946年5月 – 1963年4月の17年間書かれた方です)』と、当時の名執筆者を贔屓(ひいき)にしていて、あんなこんなこと、こんなことを言ってたと言うのです。

 父は、東京ジャイアンツのフアンでしたから、「読売新聞」をとっていて、スポーツ欄や三面記事は読みますが、コラムなどには興味がありませんでした。でも、朝日新聞のコラム、「天声人語」は、長く新聞業界一でした。その中に、稀代の執筆者がいたのです。広島の江田島にあった海軍兵学校の七十八期、最後の入学生で、戦後、大学に進んで、朝日新聞に入社した深代淳郎氏でした。

 この方も論説委員になり、この「天声人語」を三年近く担当されて、46歳の若さで、ご病気で召されるまで、書き続けられたのです。その当時の「天声人語」は、本になって刊行されていて、今でも図書館からお借りして読むことがあります。今は、2冊借り出して手元にあります。

 父の会社に連れて行かれた時、お会いした方のお一人が、その江田島の兵学校の校長をされた方のご子息でした。また母の初恋の人も、そこの学生でした。凛々しい制服姿に憧れたのでしょう。もし海軍があり続け、この兵学校があったら、自分も行ってみたかったし、母は勧めたのでしょう。それで、深代淳郎氏のコラムに関心を向けたのです。

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 そのコラムに動機づけられたのと、次男が熱心に勧めたこともあって、「ブログ」を始めたわけです。「ガジュマルの樹の下で」とか、「恩寵」とかの題で、発行をしていたのです。ところが、お隣の国で続けていましたら、ブロックされてしまったのです。それで、記事の内容を注意深くして、再開したのが、このブログなのです。

 イラストや写真の引用の原則を知らずにしていて、次男に著作権侵害になるので、抹消する様に、十分気をつけてアップする様に言われての今なのです。数年前、以前の分の無許可使用の写真やイラストを、次男が消してくれたようです。で今は、ウイキペディアや著作権フリーからの写真やイラストを使っています。

 さて、恩師が紹介してくださった「天声人語」ですが、今は、会員限定の有料記事になってしまってネットで、自由に読めなくなってしまいました。人気の全国紙のほとんどのコラムが、そう言った傾向にあります。ちほうしの下野新聞、上毛新聞などは読めますが、一人の記者の担当ではなく、当番制になっている新聞が多くなっています。

        

 毎日、あれだけの文章を書き続けた深代淳郎氏のスゴさが偲ばれます。『新聞紙上最高の知性、コラムニストです!』と言われた方なのです。そのためには奥様の助けが、たくさんあったのだろうと、言われています。時代時代、日々の話題を拾いながらの作業だったのでしょう。

 それに引き換え、勝手なことを、気ままに書いてきている自分は、人の書かれた記事にヒントを得たりしても、ちょっと大変な時があるのに、文学作品にでもなりそうな美しい文体、内容のあふれる記事は、新聞記者の矜持(きょうじ)だったのでしょう。

 そこに美しくも、重い文章が溢れています。長く教会の週報の巻頭に、週一でコラムを書き続けました。前の週の説教、連絡事項と共に、思うこと、感じることを書かせていただいたのです。そして、もう長く、「悠然自得」と言う名をつけて、このブログを書き続けています。一般公開をしていて、時々、コメントをしてくださる方もおいでです。記事の内容の誤りを指摘してくださる友人もおいでで、下の娘は、チャットで、読後の思いを書き送ってくれ、内容訂正を進言してくれています。

 もう記事をアップして3400回になりました。残念ながら2年分ほど消失してしまってもいますが、もう少し続けようかと思っています。対象は、自分たちの4人の子どもたちで始めましたが、日記をつける代わりに、書いているつもりもあるのです。次男が管理してくれていて、辞めようとすると、『続けてね!』と言われて、思い返しての続行です。そう、コメントに、海外からのものもあったことがあって驚かされました。

 今朝は、20年も着続けているセーターを引っ張り出して着ました。家内が英語教室をしていて、そのバイト料で買ってくれた誕生祝いのギフトなのです。ありがたいことに、今冬も暖かく過ごせそうです。

(ウイキペディアの慶應大学のシンボルマーク、江田島です)

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蜜蜂がいなくなっている危機に

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 「足長蜂」に、子どもの頃に、3、4度刺されたことがありました。ものすごく痛くて、刺した針を、兄に抜いてもらった覚えがあります。時々やって来ては、二親の様子を見に、次男が来てくれます。親の好物をデパ地下で買って、それを手にしてです。2、3時間の短時間の滞在ですが、ウクレレを弾いて賛美したり、いろいろと話を聞かせてくれるのです。ある時、『世界中で、蜂がいなくなっているそう!』と言っていました。

 この蜂は、集団生活をしていて、その集団には階級や役割が分担されているそうです。子を耳育てていく大家族の中で、それぞれに役割をこなしながら、蜂社会の営みがなされていて、長く人類に貢献しながら生きてきています。

 その集団を支配するのは、「女王蜂」で、生殖の役割をはたしています。配下に、働き蜂がいて、巣を作り、餌となる蜜を収集して、巣の中に持ち帰る任務をし、育児もこなします。女王蜂も働きバチも一年で、その役割を終えて死んでいきます。ただ、その年に生まれた一匹が、女雄蜂になって生き延びて、次世代を産み出していきます。

『神は仰せられた。「地が植物、すなわち種を生じる草やその中に種がある実を結ぶ果樹を、種類にしたがって、地の上に芽ばえさせよ。」そのようになった。  地は植物、すなわち種を生じる草を、種類にしたがって、またその中に種がある実を結ぶ木を、種類にしたがって生じさせた。神はそれを見て良しとされた。(新改訳聖書 創世記1章11〜12節)』

 しかし役割は、それだけではなく、花に飛んでいって吸蜜する時に、雌しべと雄しべの交配の役割をになっています。風による自然交配もありますが、蜂も、その重要な役割を果たして、果物の結実に寄与するのです。自然界の役割分担とは、実に知恵深いものがあり、神の創造と維持は、その様に神の采配による以外に考えられません。

 私たちは、14ヶ月ほどをかけて、新会堂の建設をしたことがありました。母教会の信者さんのお父さんが、大きめのトラックを持っていて、その車に、家屋を上手に解体した材木や鉄剤を乗せて、運んでくださり、それを利用して会堂を建てたのです。

 そのトラックは、普段は学校の教師をされていたお父さまが、季節季節に、蜂の巣箱を乗せて、あちらこちらと採蜜をしながら、養蜂業もされていて、使っていたものでした。気の多い私は、いつか養蜂業もやってみたい、と思ったほどでした。

 美味しい蜂蜜は、花に応じて名が付けられていて、春先に咲く花に始まり、秋に咲き終わるまで、花を追い求めて、南に北にと出かけるのです。この方は、「移動養蜂家」だったわけです。

 アインシュタインも、こんなことを言っていました。『もしも、地球上からミツバチが消えたなら、人類は4年で滅亡するだろう!』と、警告的にです。今まさに、その危機的な時を迎えているのだと騒がれています。

 『この暑さは異常だ!』と、昨年も、今年も、大騒ぎでしたが、蜜蜂の社会もそう感じたに違いありません。異常な暑さが、どうして問題かと言いますと、ミツバチの大敵の〈ダニ〉が大繁殖していて、蜂について、それが原因で死滅させているのだと、養蜂家が嘆いておいでです。トマト、ナス、メロン、スモモ、りんご、豆類などなど、野菜も果物も、ミツバチの吸蜜時になされる交配ができなくなったら、実ができないのです。

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 自然界の中には、驚くべき大法則が定まっています。その法則は人間が編み出したものではなく、創造主のなさっておられる業なのです。自然や偶然と言い得ない、創造の世界の維持と繁栄を、この神さまが定めておいでなのです。蜂による受粉なしには、今日の農業は成り立たないのです。

 昼ごはんで、家内と一杯ずつのコーヒーを飲むのですが、そのコーヒー豆だって、ミツバチが飛んできて採蜜時の受粉によって、実が実って、ハワイでもウガンダでも沖縄でも豆🫘がつくのです。嗜好品から主要な食料に至るまで、その恩恵に浴さないものはないほどです。

 ところが近年、ダニが大発生して、ミツバチにつき、絶滅に危機にあるのです。吸蜜の量が減り、蜜不足で蜂の幼虫が育たなく、次世代が誕生しなくなる、そう言った危機の中に、はまり込んでいるのです。それは、直に食糧危機につながります。また強い種族のイナゴは、逆に大繁殖し、かろうじて身をつけた作物を、根こそぎに食い荒らしてしまうのです。

 戦争や核危機だけが大問題なのではなく、性愛問題の危機、結婚の危機以上に、いえ同様に、重大危機なのです。同じ様に多くの危機が一並びに、同時進行で現れているのが、現在なのです。自類は生き延びられるのでしょうか。創造主に目を背け、反逆する時代が到来しています。

『神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に、悔い改めを命じておられます。(新改訳聖書 使徒17章30節)』

 自然の営みの中に、深い神の計画と配慮と維持があるのは、神さまが、愛だからです。愛は、〈甘やかし〉とは違います。実に厳しいものなのを、自分も学ばされてきたのです。二十五歳で、その愛がわかり、同時に、その厳しさと厳粛さも知りました。主の憐れみによったのです。自然の再生はできるのでしょうか。

(ウイキペディアのコスモスの花で吸蜜する蜜蜂、採蜜の様子を描いた洞窟壁画です)

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