しんがりとなられる神に

.

.

『あなたがたは、あわてて出なくてもよい。逃げるようにして去らなくてもよい。主があなたがたの前に進み、イスラエルの神が、あなたがたのしんがりとなられるからだ。(新改訳聖書 イザヤ52章12節)』

 15年前の「大晦日」のブログの記事を読み返したのです。 「2010年の十大ニュース」です。

1.家内が第二医院に入院

 『出産以外に入院したことのない家内の初めての入院でした。しかも外国の地ででした。ところが、病んだ家内を、多くの友人たちが介護をしてくださったのです。6日間24時間体制で、当番表を作成してくれてでした。大感動でした。『遠くの親戚よりも、近くの他人!』、この他人の中に、しかも中国の地に、真実の友がいてくださったことは、何も勝る祝福なのであります。人の世話をしてきた家内が、人のお世話になったことは、なんという喜びでしょうか。』

 ➡︎ 中国では「病院」とは言わないで、「医院」と呼んでいました。日本の様に「完全看護」ではありません。食事も出ないので、家族とか友人が三食を届けるのです。日本の健康保険が使えます。領収書を持ち帰って、翻訳して申請ができました。市立の「第二医院」でした。日本との違いに戸惑ったのを覚えています。

2.母が93歳の誕生日を迎える

 『1917年生まれの母は、強く歩くこともでき、食欲もあり、座って人の話も聞くこともできます。至極元気でおります。山陰の地で生を受け、父と出会って結婚し、四人の男の子を産んでくれました。この夏、小さくなった母の背を見ながら、三男の私ですが、親孝行の真似事をさせていただきました。』

 ➡︎ 出雲市で生まれて育ち、町一のおてんばで、すばしっこかったのだそうです。父の事務所で事務をしていて結婚したのです。京都で新婚時代を過ごしたと言っていました。娘時代にクリスチャンになり、生涯礼拝を守っていました。晩年に、少し「出雲弁」が話し言葉に聞こえたのです。病弱な三男の私を、懸命に育ててくれたのです。この2年後に、95で亡くなりました。

3.腰痛で授業を休講する

 『髭を剃って、着替えて学校に行こうとしたら、腰がすくんで歩けなくなってしまいました。都合十日間ほど家の中で這うようにして過ごしてし、授業を休んでしまいました。毎年、秋から冬の季節の変わり目に、決まって起こっています。帰国したら、紹介された板橋の整体師に行こうと思っています。』

 ➡︎ 帰国以来、寝込む様なことがなくなりました。それでも季節の変わり目には、腰が渋い様な感じがしています。散歩をするせいでひどくならない様です。たまに行く温泉がいいのかも知れません。この暮れに訪ねてくれた次女家族、次女と孫娘が温泉好きで、滞在の間、何度も出かけていました。

5.次男が渋谷に会社を建て上げる

 『出資してくださる方があるほど、仕事を評価され、信頼を寄せてくださったのでしょうか、素晴らしい機会です。力いっぱい、培ったものを発揮して欲しいと思っています。」

 ➡︎ 今は、大手の会社で働いています。四十過ぎて、自動車免許証を取って、親のまさかの時に、駆け付けられる様にしてくれたのです。幼い日の姿が思い出されるのです。東京のど真ん中に住んでいます。時々、週末に特急電車で、親元を訪ねてくれるのです。この暮れは、夫婦で車で来てくれました。

6.コンクリート・ブロックの破片が投ぜられる

 『尖閣諸島の漁船の拿捕と船長の逮捕が報じられた晩、我が家の裏庭のポーチに、コンクリートの塊が、いくつも投げ込まれていました。落ちたり置かれたりするはずのないものでした。直情的な気持ち、それが理解できましたので、悩みませんでした。軍靴でこの国土を踏みにじった過去を考えたら・・・・。』

 ➡︎ 沖縄諸島の領有権の主張が強かった時でした。日本の車を運転する方は、車の後方に、「魚釣島是中国的(中国の物)」とのステッカーを貼って走っている車を多く見ました。北の方は、焼かれたり壊されたり、ひっくり返されていました。教え子のみなさんが、『先生と奥さまを守りますから、何かあったら言って来てください!』と言ってくれました。華南では大きな騒動はなかった様です。

7.シンガポールに旅行をする

 『査証が得られなくて3度も4度も中国大使館に行きました。おかげでマレーシアに2度も行って、滞在時間を延長しました。その滞在期間中の真夜中に、泥棒に入られて、長女の貴重品のほとんど、息子にもらったカメラが姿を消しました。命からがら助かって、「人の物は盗まない!」、そう決心しました。」

 ➡︎ 長女がシンガポールで働いていて、何度も呼ばれて訪ねました。あの日は、近くの島に行って、自転車で周遊を楽しんで、けっこう疲れて帰って来て、夜は熟睡していましたので、空き巣に入られて、枕元に来ても気づきませんでした。物取りだけで助かったのです。滅多にない経験をして、今では笑い話ですが、ちょっと危険でした。

8.永定の「土楼」に行く

 『何年も前から、「遊びに来てください!」と誘ってくださった友人の家を訪ね、彼の知人が車で、山道を走って、世界遺産である「土楼」に連れていってくれました。漢民族の驚くほどの知恵に触れることができ、甲州街道沿いに見えた、いくつもの「土蔵」を思い出していました。』

 ➡︎ 戦乱の東方地方から逃れて来て、住み着いて、堅牢な要塞の様な集合住宅を作ったのです。今も住んでいて、楼の真ん中に井戸があって、共同生活をしているのです。大陸の南に見られる特異な遺産でした。随分と山の奥深い所に点在していました。

9.「鮑の養殖」をみる

 『福建省の北のほうに、連江という街あります。自然の美しい、漁業を生業にしていていました。そこに潮騒を耳にしながら泊めていただき、翌日は、船で養殖場に案内していただきました。海水がきれいで、鮑もご馳走していただき心安まる日を過ごすことができました。』

 ➡︎ 東シナ海に点在する島々の間で、養殖が行われていました。魚介類が豊富で、海鮮鍋が美味しかったのです。鮑の養殖場には、住むことにできる小屋があって、壮観でした。ただ、台風の襲来には、壊滅的な被害がある様でした。時々、生の鮑を届けていただいて、冷凍保存をしては、よく食べました。帰国時には、乾燥したものまでいただいたのです。高価なご馳走でした。

10.〇〇義塾の校長先生と会う

 『偶然の出会いと紹介で、シャングリラ・ホテルで交わりの機会がありました。若い日の共通の知人がいて、話が弾みました。私の若い友人のお世話をしてくださると、この校長先生が約束してくれ、話が進展しています。」

 ➡︎ 私たちの家に出入りしていた若い友人がいて、彼が毎週訪ねてきました。彼が、その学校に留学して、その入学式に、親御さんの代理で参列したのです。その彼は、東京の大学に進学し、今は東京の会社で働き、家まで買って住んでいます。時々、今でもやって来るのです。

 2024年、今日は大晦日です。色々なことのあった年でした。歳を重ねて、家内と二人、救急搬送されたり、入院したり、通院したり、そんなことが増えた一年でした。ただ生かされていること、新しい出会いや友人との交わり、何よりも、いのちの付与者でいらっしゃる神さまに守られ、生かされた三百六十五日でした。多くの方々の愛や優しさに感謝でいっぱいです。ありがとうございました。

.

人はなぜ生き、どう生きるのか

.

.

 人生で一番基本的で、しかも永遠の“ Thema ”、質問は、「なぜ生きるか?」でしょうか。

  作詞が中山晋平、作曲が吉井勇、唄ったのが松井須磨子の「ゴンドラの唄」は、1915年に発表され、一世を風靡した流行歌の走りでした。

  1. いのち短し恋せよ乙女
    紅き唇褪せぬ間に
    熱き血潮の冷えぬ間に
    明日の月日はないものを
  2. いのち短し恋せよ乙女
    いざ手をとりてかの舟に
    いざ燃ゆる頬を君が頬に
    こヽには誰も来ぬものを
  3. いのち短し恋せよ乙女
    黒髪の色褪せぬ間に
    心のほのほ消えぬ間に
    今日はふたたび来ぬものを

 この歌は、『人の一生は短いので、生きている今を、恋をして精一杯悔いなく生きよ!』、そう「享楽」を勧めているのでしょうか。そう歌った松井須磨子は、二度の離婚をし、夫ある男と道ならぬ恋をして、その男の病死の後、32歳で自死して果ててしまいます。どうも恋やこう言った類の愛は、人生の目的でもゴールでもなさそうです。

 高二で、甥っ子の満男が、「ふうてんの虎」と啖呵を切る、お母さんの兄、おじさんの車寅次郎に、質問をしました。

満男 「伯父さん」
寅  「何だ?」
満男 「人間てさ」
寅  「人間? 人間どうした?」
満男 「人間は何のために生きてんのかな?」
寅  「何だお前、難しいこと聞くなあ、ええ?」
〜寅、しばらく考えるています〜
寅  「うーん、何て言うかな。ほら、ああ、生まれてきてよかったなって思うことが何べんかあるじゃない、ね。そのために人間生きてんじゃねえのか」
満男 「ふーん」
寅  「そのうちお前にもそういう時が来るよ、うん。まあ、がんばれ、なっ」

 何をしたっていい、ただ、きっと何度かある、「生まれてきてよかったなって思うこと」だと、寅さんは答えていました。そんな会話の中に、進路に悩んでいる満男の質問が出てきます。寅さんは、『生まれてきてよかったなって思うことがきっとある、そのために人間が生まれて生きてるのだ!』と人生指南をしているのです。

 そんなことで、自分が高2の時に、どんな思いでいたかを思い出してみたのです。母親が、道路の端でトラックの行くのを行き過ごさせ様として、待っていた時に、その車輪に巻き込まれて、両足に大怪我を負ってしまいました。担ぎ込まれた街の病院での初期処置がまずくて、隣街の地方公務員共済病院に転送されたのです。ひどく化膿してしまい、両足の切断の危機を何度も通りながら、10ヶ月も入院したことがあったのです。

.
.

 入院した病室は、十人もいたでしょうか。〈病室名主〉がいて、入院患者を仕切っていたのです。毎日、父に頼まれて、父特製の「野菜スープ」を持って届けたのです。病室では、水を汲んで母の体を拭く手助けをしていたりでした。

 長く入院していて、見舞いなどない古参の入院患者や名主が、やっかんで母を、集団でイジメにかかるのです。母は、一人っ子で、子どもの頃は、真っ黒になって遊びまわっていた御転婆でしたから、人の悪どい仕打ちなんかに傷つかないのです。辛い経験を通ってきていますから、そんな言動を意に介さなかったのでしょう。何よりも、『汝の敵を愛せ!』を、十代ですでに学んでいたクリスチャンでした。いつの間にか、そのいじめは止んだのです。須磨子の様には、母は生きませんでした。

 甘やかされて、特に、就学前に大病をして、母親に篤く介護をされ、自分は愛されて育ったので、母の大怪我の危機には、けっこう真剣に、起こりうる人生の危機を考えさせられたのです。それまで順調だったのですが、練習を休みがちの私は、インターハイ予選のスタメンから外れ、けっきょく父の助けをしようと、クラブは休部したのです。日本一への野心を、中途で断念せざるを得ませんでした。いろいろなことが起こるのだというのを身につまされて知らされたわけです。

 母の一生を、父のことも考えて、生きるってけっこう厳しいことを学んだのです。教師に恵まれて、助けられて過ごしたせいで、教師になろうと考えたのです。兄たちの様な、会社勤めはしたくなかったので、そう願った様に、教師になる機会がやってきたのです。でも教師の世界、教育の現場も、理想と現実にはギャップがあって、自分が生きるには、この道ではなさそうだと思い始めていました。

 そんな時に信仰上の覚醒でしょうか、アウグスチヌスの様な明確な新生体験をして、伝道者の道が開き始めたのです。この日本では、流行らない生き方でしたが、自分の力ではできない生き方を、教会の主に助けられ、励まされ、先に伝道者になられたみなさんに、また篤信の兄弟姉妹に支えられて、今日に至っております。

.
.

 先日も、隣街の教会の牧師夫人が訪ねてくださり、遠くにいらっしゃるお父さま手作りの「カラスミ」や「黒ニンニク」、ご夫人特製の「おでん」を持ってきてくださったのです。この春には、ご主人とお二人で、思川の河畔に咲く思川桜を観に連れ出してくださったのです。それ以降、時々、娘の様にして手製の差し入れのおかずを持って、訪ねてくださるのです。

 また、同じ教会の姉妹は、先日、お昼に招待してくださって、美味しい手料理で歓待してくださったのです。テーブルの周りに人懐っこいゴールデンレドレバーがいて、まつわりついてきて歓待してくれました。また日光特産の「ゆば」と「おから」、そして高価な「自然薯芋」を、先日も届けてくれました。この方たちは、娘の代役をしてくれている様で、感謝ばかりなのです。

 物だけではなく、心が届いてくる様に感じて、見知らぬ地で出会ったみなさんとの交わりがあって、『生きているっていいなあ!』と思うことしきりなのです。

『また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。(新改訳聖書 IIコリント5章15節)』

 自分の幸せを求めて生きるだけではなく、他者をも顧みる心で生き、自分を生かすために、十字架に死んでくださったイエスさまのために生きる様に、そう生きたパウロが、そう勧めるのです。

 この家を訪ねてくださった隣国の教会の伝道者は、かつて伝道して歩いた村から、病んで街の病院に入院されると、連絡が入るたびに、お弁当や洗濯物を届けたり、送り迎えや見舞いなどをされていました。家内が病んだ時にも不自由を覚えている私たち外国人のためにも、通院のためとか、お医者さんの紹介などをしてくださったのです。

 外国で、伝道者の大会が持たれた時に、この方は、参加者の代表に選ばれ、ビザを取得して上海の空港に行きますと、官憲に拘束されて、出国を許さず、その大会の開催中、この方を監禁したのです。その時に、公安に証を語ったそうです。大会が終わると、無事に街に帰って来られたのです。

 彼は背広など着ませんし、革靴も履きません。神学校を開校し、四十人近い若者を伝道者として養成されていました。ある年に開講式に、そこに参加して、お話をする機会がありました。同胞の救いのために立ち上がった、若いみなさんで、時代の伝道戦線に立たれる準備の始まりでした。

  いろいろ目標を立てたことがありましたが、ほとんど実現せずに、Time over の今です。でも溢れるような感謝で、今を過ごすことができております。どう生きるかを教えてくださったみなさんは、すでに主の御許に帰られておいでです。今度は私の番ですが、走るべき行程を走り切れると感謝して、『生きているって、生かされているっていいなあ!』と、今の時を過ごしております。

(コーヒーの注文中の自分、巴波の流れ、今夏の朝顔です)

. 

近況、友人への今朝の手紙

.

.

 おはようございます。

 2024年も、もう少しになりました。今、次女家族が訪ねて来てくれていて、そこに、孫たちの従兄弟で、長男の息子が来てくれて、泊まっていて、狭いわが家は人と荷物と寝具ばかりです。

 前便で、主語が欠けていました。ごめんなさい。

この20日に、自治医大附属病院に、僕は入院しました。23日に、カテーテル・アブレーションの手術を行いました。足の右の付け根と、首の血管から心臓にカテーテルを挿入し、左心房にある心房細動を、マイナス50℃でアブレーションを行いました。管を抜き、3時間の絶対安静をし、翌朝まで、ベッドの上で動けないまま置かれました。

 ベッド脇に、執刀医が来られて、血管を圧迫した木片を外してくれました。意識のある中の手術でスタッフの話し声が3時間近く聞こえ続けていました。この病院では、内科の処置なので、それを「検査」と言っていました。経過が良くて、25日の朝に、家内と次女とが来てくれ、無事退院できました。すごい医学の進歩に、受けた本人が驚いています。

 来春3月に、術後の診察があります。もう、自由に行動できています。次女が助けてくれ、家族や友人たちの祈りがあって感謝でした。

 家のすぐ近くの方が、三ヶ月前に、同じアブレーションを行っていて、彼が「友だち」と呼んで、いろいろな情報をくれています。術前には、隣町にあるバプテスト教会のXマス会に一緒に参加しました。彼が運転してくれて、奥さんと一緒に参加してくれたのです。帰りにお寿司屋さんで、一緒に会食をしました。

 不思議な出会いがあります。この二人には、貴君の書かれた本を感謝に差し上げました。読んでくれています。

 貴君も、治療中なのですね。お大事になさってください。

 何度も手術をしてきたわが身ですが、もうこれっきりにしたいと思いました。術前には、大台の八十になりましたので、もう体にメスは欲しくないからです。赦され、神の子にされて永生の希望がありますので、今後何があっても、このままでいようと思っています。

 今日は、長男家族、次男夫婦が来てくれて、術後の感謝会と、子どもたちが、老いた二親の今後を話し合ってくれるようです。長女は、主人の怪我後の世話で来られませんが、私たちの健康と経済のためにだそうで、もう従うばかりです。

 ただ感謝して。  弘毅

(今年一番綺麗だった花です)

.

昭和への郷愁を呼び起こされ

.

 

 暑かった2024年も、もう押し迫ってきて、「年の瀬」を迎えています。そうなりまと、必ず封切られた映画があり、有名だったのは「忠臣蔵」と、「男はつらいよ」でした。時代劇が衰退してしまった今は、もう赤穂浪士の討ち入りが観られないようになりましたが、ただリバイバル上映は、テレビの専門チャンネルでは観られます。そんな中で、いまだに人気なのが、車寅次郎を主人公にした映画、「男はつらいよ」なのだそうです。

 「虎さん」、はみ出し少年のような心を持ち続けた、昭和を代表する一人なのです。この虎さんの様な人が、身内にいたら退屈しないだろうと思いながら、この頃、Youtubeで、「男はつらいよ」の予告編を、時折り観ているのです。それでも第一作だけは、上映時からずいぶんと時が経ってから、何編かは観たことがありました。

 中華料理ばかり食べていて、時折、街の大きなホテルの昼食招待券をいただくと、和洋中の料理をいただけたのです。とても懐かしくなって、刺身やお寿司や茶碗蒸し、たまには土瓶蒸しなどもあったでしょうか。そんな機会が嬉しかった同じ気持ちが、この渥美清演じる映画で、感じたのです。

 この映画が始まった1969年(昭和44年)は、危なっかしく自分が生きていたのです。これじゃいけないと回心して、母の集っていた教会に行き始めようとしていた頃でした。品の良さそうでない「テキヤ(的屋)」とか「香具師(やし)」と呼ばれる人を、主人公にした映画は、一方では羨ましくもあったのですが、敬遠して観ませんでした。

 この香具師は、終戦後の闇市を仕切っていた露天商で、子どもの頃に、お祭りの沿道や、町内や小学校で開かれた運動会が行われていた時に、校門の外に、簡易テントを張って、焼きそば、みかん飴、ヨウヨウ釣り、綿あめなどを売っていた、この露天商の人たちのことなのです。小学校の同級生のお父さんにもいました。

 いわゆる、〈ヤクザな稼業〉なのです。刀をふるい、サイコロや花札が飛ばす様な博徒や暴力団ではなく、大道で物売りをしながら、生活をするのですが、厳しい決まりがあるのだそうです。場所の仕切りをする親分のもと、割り当てられた場所での販売権を買って営業していたのでしょう。

 道端に店を開いて、バッグや掛け時や着物などの販売は、「啖呵売(たんかばい)」と呼ばれて、独特の「口上(こうじょう)」があり、この寅さんは、それを演じていました。

『さあさあ ご用とお急ぎのない方は 寄ってらっしゃい 見てらっしゃい ここに取りいだしたる◯◯は そんじょそこいらにあるものとは ちと違う 買わなきゃ損損 今が買い時だよ!』と、流暢に決まり文句で売るのです。品の悪い言葉遣いでしたが、あの時代を反映していたでしょうか。

.
.

 日本中、皮製の角鞄を引っさげ、帽子をかぶり、ダボシャツと呼ばれる下着の上に背広を着込み、毛糸の腹巻き、雪駄を履いて、虎さんは、颯爽と売り歩くのです。街角の人通りの多そうな箇所で、店開きをします。やはり郷愁を感じさせる様な場面、昔懐かしい風景が映り込んでいる、そんな場面の設定の映画でした。

 この寅次郎は、決して図太い神経の持ち主ではなく、ナイーブな人で、いつも相手のことを思っています。それゆえ怒りを爆発してしまうのですが、長くは続きません。謝ったり、とぼけたりで、すぐ気分転換できるのでしょうか、人との関係を作り上げるのに長けているのです。地方での出会いで、すぐに恋に落ちてしまう設定の映画でした。

 それでも、それだから心の中では仕切りに泣いたり、悔やんだりしているのですけど、自分の近くで、自分と同じ様な境遇にいる人たちに、同情的に生きている人物、憎めない人、三枚目を貫いてしまう様な人、そんな設定です。

 歌舞伎の演目で登場し、NHKのアナウンサーや声優が発生訓練で暗記した「下郎(ういろう)売」の口上があります。

 『拙者親方(せっしゃおやかた)と申すは、お立会いのうちにご存知のおかたもござりましょうが、お江戸を発って二十里上方(かみがた)、相州小田原一色町をお過ぎなされて、 青物町へ登りお出でなさるれば、欄干橋(らんかんばし)虎屋藤右衛門、ただ今は剃髪いたして円斉と名乗りまする。

元朝(がんちょう)より大晦日(おみそか)まで、お手に入れまする此の薬は、むかし陳の国の唐人、外郎という人、わが朝(ちょう)へ来たり。

帝(みかそ)へ参内(さんだい)の折から、此の薬を深く籠めおき、用(もち)ゆるときは一粒ずつ、冠(かんむり)の隙間より取り出だす。よって、その名を帝より「とうちんこう」と賜る・・・』

 コレは、けっこう長い口上で、日本語学習にも取り上げられる「名文句」なのです。自分も挑戦してみましたが、出来ずじまいに終わりました。

 この「男はつらいよ」には、「日本人の心情」が描き出されているのでしょう。狭い日本どこへでも行く虎さんと女性との出会いだけではなく、土地土地に住む人々、消えて変化していく文化、伝統、風情、自然、景色、そして庶民の生活が描かれ、残されているのです。温かさや音や匂いが感じられ、郷愁を呼び起こしてくれます。父や母を思い出させ、生きて生活史は時代を彷彿とさせてくれるのです。

(ウイキペディアのテキヤの露店、映画に斑になった京成柴又駅です)

.

一匹の鯨とエスキモー、そして宣教師と

.
.

『・・・「皆さん。どうしてこんなことをするのですか。私たちも皆さんと同じ人間です。そして、あなたがたがこのようなむなしいことを捨てて、天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えている者たちです。(新改訳聖書 使徒14章15節)』

 ここで、『私たちも皆さんと同じ人間です。』と、パウロが言っています。誰に、何に対してそう言ったのでしょうか。ルステラの街で、彼らが、足の不自由な人を、祈りによって癒したのです。その様子を見た街の人たちが、パウロとバルナバを、神々の様に崇めようとしたので、パウロは、群衆の中に駆け込んで、その礼拝行為を拒んだのです。

 古代ギリシャの神々の名であるゼウス、ヘルメスと呼ばれたら、とくに地中海沿岸諸国では、人間は舞い上がって、自分たちが偉大な神の様な存在でもあるかの様に思えて、賛辞と礼拝とを受けられたのです。ところが、パウロは、自分たちは、ただの罪ある人間で、赦された神を信じる者であって、神々が受ける栄誉など受けられないと言ったのです。

 こう言うことは、教会の中にもよく起こることの様です。私の母教会の初期に、当時説教の上手な若い牧師が立てられたそうです。この人を、まるで「パウロ」の様な説教者と、教会が言い始めたのです。そう言われたこの人は、それを拒まなかったのです。後に、宣教師批判が始まり、結局、その牧師と追随者は、教会を去ることになったのです。残った教会は、深い傷を負ったのです。

 人間は、どんなに能力があっても、罪を赦された者に過ぎないのに、神々でもあるかの様に、初代のエクレシアに仕えた僕に似せて、神に仕える大人物の様に崇めてしまう弱さがあるのでしょう。それとは真逆で、人に軽んじられて、いつも軽蔑や批判の対象とされた人もいます。完膚ないほどに貶められてしまう人もいるのです。

 私の手元には、そういう人たちのリストがあります。その一人に、インドのコルカタ(以前はカルカッタと呼ばれていました)で、貧しい人や病者の世話をした人がいました。すでに亡くなられていますが、聖人と呼ばれ、この方の所属した団体からは特別な称号が、さらにノーベル賞も与えられ、国々からは数々の名誉賞を得たのです。

 ところが、実際のところは、だいぶ違った人生を生きた人でした。この方の生き方に感動して、奉仕した方たちの中に、現実を語った人がいました。それは、単なる暴露や糾弾などではなく、真実を伝えたかったから、そうしたのです。

 実際、Media campaignの広告塔とされていたのであって、実際からは程遠い、英雄像が作り上げられた背景があります。もちろん、私は、この方を批判して、貶める様なつもりはありません。ただ、真実から乖離した評価が先走りしてしまう様なことに、一言言いたいのです。私はお会いしたことがありませんし、カルカッタに行ったこともありません。

 おびただしい量の活動の報告書がある一方、この方が書き残したものを、死後には破棄するように依頼されていたのですが、そうされずに残されて、それが編集されて文書化されています。その中に、真実の姿が窺えるのです。どうぞ、関心のある方は、お読みになってみてください。

 多人数の教会を形作って、その成功の陰で、救い主、教会の主の名を辱めてしまった人は、けっこう必要以上の崇められるケースが多いのです。そして惨めな結末を迎えてしまいました。無名でも、主に栄光を帰して、一生を終えた人こそ、『よい忠実なしもべだ(マタイ25章21、23節)』と言われるのでしょう。

.

.

 エスキモー宣教をされた宣教師のお話を、若い頃に聞いたことがあります。何年も何年も福音宣教をしましたが、だれ一人救いに導くことがありませんでした。ある年、えエスキモーの狩で一匹の鯨も獲れなかったのです。『もし鯨が獲れる様に祈って、鯨を獲ることができたら、お前の言うキリストを信じよう!』と言ったそうです。

 ところが、宣教師さんは必死に祈ったのですが、そのシーズンには一頭たりとも取れませんでした。それで怒ったエスキモーたちは、その宣教師を崖から投げ落として殺してもしまうのです。死体を確かめに崖下に確かめに行くと、何と鯨が一頭、その宣教師の死体の傍にいたのですね。

 この一件で、エスキモーたちは、イエスをキリストと信じ、彼らの間に信仰のリバイバルが起こったのです。この宣教師は、そんな救いがエスキモーの間に起きたことを知らずに殉教をしたわけです。一粒の麦が地に落ちたことによって、多くの魂が救われたのです。これこそが、主の救霊の業、聖霊のなさる事業なのです。人の救いとは、この様なことなのであります。

(ウイキペディアの鯨と16世紀の捕鯨です)

. 

花婿の様に喜び走る

.

.

 この12月21日は、「冬至」でした。「二十四節気」の一つで、この日を境に、一日の日の出ている時間が長くなっていくのです。太陽の運行、地球の運行の不思議さに、驚嘆せずにいられません。

 エンジンもレールもないのに、宇宙空間を運行しているのを知って、子どものころに驚き怖れたのを覚えています。でも聖書を読み始めて、何故かが理解できたのです。

『太陽は、部屋から出て来る花婿のようだ。勇士のように、その走路を喜び走る。その上るのは、天の果てから、行き巡るのは、天の果て果てまで。その熱を、免れるものは何もない。(新改訳聖書 詩篇19篇6-7節)』

   神さまが創造され、走路を定め、運行されていらっしゃるので、安心して、この地球の上で生活していられるのです。そればかりか、この宇宙を創造された神さまが、この自分も造ってくださったのです。これこそが驚嘆の極みです。

 今日も生かされ、支えてくださるのです。今朝読んだ聖書の中に、次の様にありました。

『あなたの神、主であるわたしが、あなたの右の手を堅く握り、「恐れるな。わたしがあなたを助ける」と言っているのだから。(イザヤ41章13節)』

 これで、今日の安心が与えられたと感謝したところです。良い一日であります様に! 

.

友と語らむ

.
.

 作詞が佐伯孝夫、作曲が灰田有紀彦、歌は灰田勝彦で、灰田兄弟は父と同世代人でした。この「鈴懸の径(みち)」は、上の兄に教わった、ハワイアンのリズムでした。鈴懸は、プラタナスのことです。

🎶 友と語らん 鈴懸の径
通いなれたる 学校(まなびや)の街
やさしの小鈴 葉かげに鳴れば
夢はかえるよ 鈴懸の径

熱き想いを 心にこめて
澄んだひとみは 青空映す
窓辺の花に ほほを寄せれば
夢はかえるよ 鈴懸の径

月日は移り 想い出だけが
今も浮かぶよ 別れた友の
若き日の唄 風に乗せれば

夢はかえるよ 🎵

 多くの息子たち、多くのお父さんたちが戦場に駆り出されて行く中、戦時中、1942年(昭和17年)の9月に、発表された歌でした。軍歌一色、国威を発揚する歌が溢れる中で、このような歌が作られ、歌われたのは、驚きです。この歌は、元々Jazz調ではなかったのですが、歌詞の内容が軟弱だったので、官憲から目くじらを立てられたのです。

 それでも、太平洋戦争時、特別攻撃隊の隊員たちに大変好まれて歌われた「愛唱歌」だったそうで、突撃のために待機中の隊員たちが、「ふるさと」と共に、この「鈴懸の径」を、毎夜歌ったのだそうです。この小径は、池袋にある立教大学のキャンパスの中にあって、池袋界隈の名所の一つになっています。

 元特攻隊員で、突撃せずに終戦を迎え、平和な時代を生きた人たちが、こんなことを書き記していました。戦時下、おもに特攻機で死んだことが、「無駄死に」と言う風潮の中で、『そうではなかった!』と言って、その死に意味を加えたのです。『祖国の平和のために、全てを投げ打って、彼らは夢も理想も、命も青春も捧げたのです!』とです。

 「日本戦没学生の手記」が、昭和24年に刊行されています。学徒出陣したまま、戦場で亡くなった人、戦禍を生き延びたみなさんの手記をまとめた本でした。

 戦場に駆り出されて、お父さんを亡くした級友たちが、クラスの中に何人もいました。高校の時の級友の家に泊めてもらった時、布団を敷いてくれた部屋に、軍帽を被り、軍服姿のお父さんの写真が掲げてありました。それまでお母さんとはお会いして、話をしたことがありましたが、お父さんを語ることはなかった彼が、戦争でお父さんを亡くしていたのを、そこで初めて知ったのです。

 オリンピックの馬術の競技に、補欠として参加したほどの腕の持ち主で、大陸を転戦し、敗戦後も在留して大陸で没したお父さんがいて、家に残していた軍帽を被って、九州の温泉町で、チャンバラごっこをして遊んだと、級友が話してくれました。その他にも、同世代人は、父無し子たちが、どのクラスにもいたのです。

 生き残った方々も、戦死された方々も、平和の時代の今では考えられないような現実を過ごしたわけです。そしてその世代の次の世代、私たちの次の次の世代、孫の世代が、再び戦場に駆り立たされるような時代になりつつあるのではないでしょうか。

.
.

『また、戦争のことや戦争のうわさを聞いても、あわててはいけません。それは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。 民族は民族に、国は国に対して立ち上がり、方々に地震があり、ききんも起こるはずだからです。これらのことは、産みの苦しみの初めです。(新改訳聖書 マルコ伝13章7-8節)』

 第二次世界大戦後、以前の「国際連盟」が、「国際連合」として、世界平和を願って再組織されたわけですが、この戦後の80年、地域紛争、国対国の戦争が起こり続け、平和だったとは言えま、せん。さらに第三次世界大戦が起こりかねない、国際情勢になっている様な感じが強くなってきています。

 友と、出会いや家族や、これからの時代を、喫茶店ではなく、ネットを介して語ることが、今ではあります。この時代を生きる「澄んだひとみ」の若者たちの前に、どんな事態が、今後展開していくことでしょうか。

(ウイキペディアのプラタナスの花、世界地図です)

.

漢方薬治療を受けて

.
.

 「ペイン・クリニック( pain clinic )」、コトバンクには、『痛みの診断と治療を専門的に行う診療科で,「疼痛外来」とも呼び,痛みを除去する治療を除痛術ということもある。」と、解説がありました。以前は、診療は、麻酔科医が担当していたのですが,今では独立して、診療科が担当されている様です。

 痛みを緩和するための医療のことで、「疼痛外来」で、家内は5年間、呼吸器・アレルギー科の治療をして、それが一段落終して、「痒み治療」をしてくださる外来にかかっております。「緩和治療」と呼ばれています。さまざまな痛みや痒みを抱えている人に、医療を担当する医師がおいでです。以前は、その様な医療はなかったのですが、内科が、専門専門の多様な立場で治療に当たっています。

 その担当医とは、以前から面識があって、長く総合病院で勤めておいでで、若い医師の教育を終えて、元の病院に戻ってからは、緩和治療を担当しながら、もう一つの漢方医の立場を兼ねていて、家内を診ていただいているのです。家内は、日本に帰って、大学病院にかかり始めたのは、初診は、「総合診療科」で診ていただいてから、「呼吸器・アレルギィー科」に移って、そこにかかり続けながら、一年ほど前から、この病院にも通院しているのです。

 こちらに来てから、医療機関の事情や様子を、よくご存知のご婦人と知り合って、この方の紹介で、今担当してくださるお医者さんが漢方医であるとの紹介をいただき、かかり始めたのです。ご自分もかゆみと戦っておいでで、ご自分の体験を、外来でお話をしてくれるほど、打ち解けていて、安心している今なのです。

 先日の受診日に、ご自分が漢方薬を試して飲まれているそうです。これまで一回一包の漢方薬を飲んでいたのを、ぜんかいのしんさつのあと、一ヶ月近く、二包に増やして飲まれたのだそうです。それが良かったのか症状が好転したのだそうです。それで、『二包の飲まれるのはどうでしょうか?』と聞いてくださったのです。

 実験的に、ご自分自ら飲まれたことをお聞きして、『そこまでするか!』で、安心と感謝で、今回からの投薬を二包にしていただいたのです。

.
.

 在華中に、体調が優れないと、私たちのお世話をし続けてくださった姉妹が、すぐに漢方医に連れて行ってくださって、問診してから、漢方薬を処方してくださり、その処方箋を持って、漢方薬店に行って、買い求めたのです。中国のみなさんは、西药xiyaoよりも、中药zhongyaoの方を今でも好んで服用しておいでです。街中にそのお店がたくさんあります。

 時々訪ねてくださる、中国人の友人たちが、来るたびに持参してくださる薬があるのです。どうも特別なルートで入手できる様で、本当に飲むと良くなるのです。それで、今や自分の常備薬になってしまっています。けっこう高額な薬なのだそうです。

 中国生活が長かったからでしょうか、漢方治療への評価が良くなっているのです。もちろん西洋の医療は素晴らしいのですが、漢方も蔑ろにはできそうにありません。順天堂大学で学ばれて、われわれ世代の家内の主治医は、そういった形で投薬を勧めてくださるので、よろしくお願いしますと言って、診察を続けております。

 東武宇都宮線で、東武宇都宮駅で下車し、バスに乗り換えての通院です。月一度、ちょっと遠足気分でのお出掛けは、行動範囲が広がった様で、県都参りをしています。自動ドアーではなく、乗客がボタンを押すと開くドアーの電車は、ローカル色の趣がして、懐かしくなって参ります。

(ウイキペディアの東武宇都宮線の車両、在華中の漢方薬に入っていた蝉の抜け殻です)

.

食の安全を求めて

.
.

『神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与える。それがあなたがたの食物となる。(新改訳聖書 創世記1章29節)」

 「地産地消」、”スローフード”という、食生活への勧めの言葉があります。若い頃はよく食べ、懐かしくて一度、宇都宮にあるキング・バーガーで、所用の後に食べた、そのような”fast food “ではなく、また輸入食品などでないものを摂ることが、一番適切な食生活だと言う勧めなのです。

 私たちは、結婚当初の二人だけの生活が、子育てを終え、四人の子が独立していってから、再び戻ってきて、病んだり老いを迎えたりして、今は、ずいぶんと平凡で単調な生活が続いています。ことのほか、家内が病んで、急遽帰国してからの、この6年間は、アッという間に過ぎていきました。

 隣国の素晴らしいクリスチャンたちの間で過ごさせていただいた、13年間も、アッとの間に過ぎていき、ただ懐かしい思い出とともに、たまに二人の会話に、漢語が飛び出して来たり、家の教会で、みなさんと歌った賛美も、懐かしく歌うこともあります。

 ある時、私たちが集っていました教会の方が、有機野菜の栽培をしようとしている農家が、『もし30〜50世帯の方と契約できたら、経営していけそうです!』、そうおっしゃっていました。2人世帯の消費量は、そう多くありませんが、そういった願いのある農家を支えていこうと思っていた矢先、帰国となってしまったのです。

 過剰に農薬や飼料が使ての農業の生産物は、どうしても避けなければなりません。そのような思いで帰国しこちらでの私たちの生活を助けてくださったご夫妻がいて、新しい街での生活が始まったのです。布団から、家財道具、調理用具の鍋釜、茶碗までお借りし、その上、家までお借りして生活が始まったのです。

 2019年の秋の台風で、その住んでいた家が床上浸水で住めなくなり、このご夫妻の息子さんの友人が牧会している、県北の教会の二階のゲストルームに急遽、住まわせてもらったのです。その教会の台所を使わせていただき、お米や野菜や果物を、教会のみなさんが届けてくださったりして、何度か近くの名物ラーメン店で、佐野ラーメンも食べ、理容室で髪の毛も切ってもらったりもしたのです。

 驚くことに、家内が退院でき、私の作る食事を口にしてくれるようになって、47年も受けたお返しで、見様見真似で台所仕事をやってきました。今では家内が昼食作りの当番をしてくれ、夕食もおかずを一品を作ったりしてくれる様になってきているのです。そんな中で、コープ生協よりも選定基準の注意深い食品の宅配を、そのご夫妻に紹介していただいたのです。

 農薬や添加物を極力使わない食材や、化学薬品未使用をしない、有機栽培のや飼育の米や肉類、魚、卵などを注文できるのです。病んで、注意深くなった家内の基準は高くなっていて、それを守っているのです。週一の宅配ですが、醤油も味噌も、有機の物が入手できます。

 健康維持のために、健康的生活のためには、それがいいのでしょうか、食生活の改善が、良かったと思うのです。県内産の野菜や果物が多く、海なし県で、海産物は獲れませんが、養殖ではない物が多く入手できます。国産にこだわり、しかも生活圏に近いところで生産される物が、優先的に選定され、入荷し、配達されているのです.

 それとともに、自家栽培がしたくて、狭いベランダで、トマトやナス、オクラやイチゴなどを、これまで育ててみたのですが、どうもうまくいきません。私の弟は、広いベランダで、インゲンを植えたり、ナスを育てていたりしていて、けっこう収穫があるのだそうです。それで、集合住宅ではなく、庭付きの家に住みたいのですが、今住んでいます家は、四階で東側に窓があって、陽当たりと景観が抜群によくて、家内は住み続けたいのです。

.
.

 その“ slow food “ は、イタリアで始まったのだそうで、その土地土地の伝統的な食文化や食材を見直そうとした運動なのです。あの ”fast food  “ の流行りに対抗して始まっています。まさに宅配で購入している食品は、そんな運動に追い打ちをかけているのでしょう。

 帰国したばかりの頃に、〈苺の農薬使用料〉のことが、あるサイトに載っていました。台湾が、日本産の苺の輸入禁止をしているそうで、その理由も記されてありました。何と、台湾の農家の400倍もの殺虫剤を使っているので禁止ているそうで、驚いたのです。病害虫から守らないと、商品価値を維持し、上げられないので、そのように使用をしているのです。

 以前住んでいた街で知り合った、果物栽培農家の方に招かれて、お宅に行きました時、美味しい桃を出してくれました。『これは食い料で、家で食べてる物だから美味しいですよ!』と言われたのです。農協に出すのとは別な木から獲った物でした。農協企画があるのでしょうか、初めて聞いて驚いたのです。大きさや綺麗さではなく、農薬使用を極力控えた桃なのです。生産者は、そんなに気を使っているなら、私たちも注意しないといけないなと思わせられた次第です。

 父と母に養われ、子どもたちが与えられてから、親として私たちが彼らを養いました。その私たちに食物を与えてくださったのは、種を与え、水と光を与え、肥えた地で育ててくださったのは神さまでした。

(ウイキペディアの欧州連合〈EU〉の毒の印、イタリヤのミラノです)

.

あふれる感謝の記

.

.

 2018年の暮れのちょうど今頃でしたが、住んでいた華南の街の北の方に、美しい港町があり、そこを訪ねたのです。その港を見下ろす、ちょうど横須賀を思わす様な小高い丘があって、そこに、小ぢんまりとした養老院がありました。

 そのホームに、クリスチャンのみなさんがいて、教会の何人かの姉妹たちとで、お訪ねしたのです。お会いしたみなさんの中に、九十五歳のご婦人がいて、お父さまが牧師さんで、いつも旅をしている人々を泊めては、甲斐甲斐しくお世話をしていたそうです。そんなご両親の奉仕の姿を見て育ったと言っておいででした。そんな背景があって、この姉妹は医学校に行かれて、ずっと医者として、医療に携わってこられたのです。

 貧しい旅人に食事を提供し、床を備え、無事を願って送り出していた父母への愛と敬意が、その語ることばにあふれていました。素晴らしく輝いていた老姉妹でした。そこから帰ろうとしていた時に、その部屋においでのご婦人が、200元を、そっと手渡して下さって、『帰りにお昼を召し上がってください!』と言われたのです。年金生活者なのに、訪問を喜んでくださったからでした。

 この国が激変する中で、みなさんは、主にある良心を保って、人々に仕えて来られたのです。その訪問で、どんなに励まされたことでしょうか。救い主への愛と隣人への愛に生きて来られた実りを感じさせていただいたのです。

 その訪問の後、教会でのクリスマス集会が終わって、家内が体調を崩したのです。無理を押していたのかも知れません。娘の様に、お世話くださった若い姉妹が、『病院に行きましょう!』と、車で迎えに来てくださって、省立医院の新院に出掛けたのです。MRI検査の段階で、より精密なMRIのある本院に行く様に、手続きしてくださったのです。2019年の元旦に、その本院に連れて行っていただいて、診察の後、即入院になりました。

 入院中、主治医に、私が呼ばれて本院に行きますと、病状を説明してくださって、『すぐに帰国して、日本の医院で診てもらってください!』と、緊急事態を説明してくださったのです。すぐに飛行機のチケットを予約して、翌朝、車で家内を本院を訪ね、その足で飛行場にお連れいただいたのです。早朝のことでしたが、多くの兄弟姉妹が見送りに来てくださったのです。

 普通席の予約を、ビジネス席に、その姉妹が変えてくださっていました。ところが、空港の医師が診察の結果、家内の搭乗を不許可にしたのです。それで、当日便をキャンセルし、翌日便を予約しもらって、家に帰ったのです。ハラハラドキドキの連続でした。その自分たちの家での一泊は、家内には、良かったのです。自分のベッドでゆっくり休めたからです。

 翌朝、空港に着きますと、その日の担当医師は、搭乗許可を出してくれ、無事に飛行機に乗れることになったのです。みなさんが、あちこちに連絡してくれて、許可にたどり着いたのです。みなさんに涙ながらに送られて、その涙の意味が家内には、『またすぐに帰ってくるのに?』と意外でした。愛兄姉たちには、家内の病気が厳粛なものだと分かっていたからで、知らなかったのは家内だけでしたのです。

 生涯初めてのビジネスクラスに席に座ることができて、成田に着きました。迎えに来てくれた長男の車で、前回お邪魔したことのあった、栃木の友人宅に連れて行ってもらったのです。暖かく迎えてくださって、寝具も洗濯していてくださっていました。翌日、隣町にある獨協医科大学病院に、息子に送ってもらい、総合診療科で診てもらいました。診察の結果、即入院とのことで、アレルギー呼吸器科の病棟に参りました。

 若い主治医は肺線ガン、余命半年の診断をされました。そこで治療が始められたのです。私には、省立医院の主治医が、厳粛なガンだということは告げてくれましたが、その入院で、家内には、その旨話しました。長く食べられない状況が続きましたが、あのオブジーボと同じ、免疫力に働きかける阻害剤の「キイトルーダ」の投与が始まったのです。

 『今晩が峠なので注意を!』と、主治医が当番の看護師さんに言った言葉が、家内に漏れ聞こえてしまったのですが、死の恐れよりも平安のうちに覚悟ができたのだそうです。そんな思いで朝を迎えたのです。それから、抗がん剤治療の併用も勧められましたが、家内も、子どもたちも反対していました。それで主治医と何度か、子どもたちを交えて話し合いをしたのです。結局使われずに、入院4ヶ月で、退院になったのです。

 もうターミナルケアー病院への転院だ残されていました。栃木の家から、息子の送り迎えで通院して、キイトルーダーの点滴治療が続けられていったのです。その内に、癌の部分がだんだん小さくなっていくではありませんか。最終の緩和治療の予定が反故になって、転院をしないですんだのです。

 医師との話し合いで、キイトルーダの点滴を40回でやめたのです。それ以降は、血液、尿、レントゲン、さらにはCT、MRI、ペット検査などが行われていきましたが、転移もなく、ガンの部分が活躍していない状況になって、そのままの状態が続いたのです。そして、今では、3ヶ月ごとの通院で、検査だけを継続することになって、今日に至っています。

 入院初期に、下の息子の勧めで、主治医の了解のもとで、CBDオイルを飲み続けて、先日、定期配達をやめたのです。後遺症はあって、体重がまだ以前の状態には戻っていないのです。それで体重が増加するように、また体質が改善し、体力をつく様にと、また、痒みの改善のために、漢方の専門医の診察を、県立の別の病院で、月に一度の通院で受け続けています。

 この6年、いつ召されるか分からない家内のまさかを考えて、夜中の就寝中の家内の様子を、起きては見続けてきていましたが、今はやめてしまいました。主にお任せの今です。これまで、一緒に主に仕えさせていただいて、いろいろな出来事を経験した年月でした。生死の境を通る様な病になってみなければ、また主治医に、明日の朝までとの余命宣言をされる様なことがないなら、病む人が感じていることなど理解できなかったに違いありません。病むことのなかった家内が、病者の痛さや不安を、味わったのです。

.

.

 今や選手交代で、自分の番になった様です。心房細動という聞いたことのなかった心臓の不調を覚えている今なのです。近所にお住まいで、ほぼ同世代のご夫婦がおいでで、奧さまと家内に交わりができ、家の行き来で、互いに家に呼びあう交わりが与えられたのです。そのご主人が、同じ病状で、3ヶ月前に、カテーテル・アブレーションという治療を受けられ、その退院された数日後に、家に私たちを呼んでくださって、その様子の報告会をしてくださったのです。お茶やお菓子や果物で歓待してくれてでした。

 先日、その術後3ヶ月の診察に行かれ、結果を知らせてくれたのです。この方の篤い友情に感謝している今なのです。月末に入院して、自分も、今週、同じ治療を受けることになっています。次女の家族が来てくれて、留守の家内の世話をしてくれる様です。先週、前の教会で一緒に礼拝を守ったご夫妻から、シクラメンが送られて来ました。そんなことで、入院と手術の心の準備中の今なのです。

 さて昨日は、私の八十の誕生日でした。何度も死にかけてきた年月でした。二親の慈愛、母の祈りと介護により、結婚後は家内からの激励、祈りの年月があり、こんなに生きるとは思いませんでしたのに、命の付与者なる神さまの守りがあって、生きることができました。ただその憐れみに感謝したのです。

 家内がお昼に、市内のレストランでお祝い会を開いてくれました。夕べには、次女家族が、祝福二次会を開いてくれ、ケーキ、ギフト、次女夫妻と同行の二人の孫たちからお祝いカードをもらいました。また家内の散歩友だちからは、豪華なイチゴとみかんと、好物の鮭の切り身が届きました。孫たちは、マッサージまでしてくれ、長男、長女、次男からは、祝福のメッセージが届いています。最後に、婿殿から、『どんなことが、この年月にありましたか?』と問われたのです。

 戦時下の12月17日、早朝4時45分に生まれたこと、村長夫人が産婆をしてくれたこと。物資のない中を二親が育ててくれたこと。就学前に、肺炎で死にかけた自分を、二親の深い愛で守られたこと。二人の兄と、一人の弟が与えられ、素晴らし佳人、妻を与えられ、四人の子どもが生まれたこと。この四人に、素敵な婿と嫁が与えられ、四人の孫が与えられたこと。さら良き” mentor “ や友人が与えられたこと。これら全てのことは、創造者なる神さまからの備え、贈り物だったこと。『生かされたこと!』の感謝の一言に尽きます。

 好きなものの[ジェームス・ディーン]、[ジャズ]、[きんつば]の3点セットの答えが、孫たちに大受けした一日でした。[きんつば]は、父の好物で、これは言いませんで、そう答えたのです。滅びても当然な自分を、赦してくださって、この永遠のいのちに預からせてくださった、父なる神への感謝に併せて、『生かされたこと!』の感謝の一言に尽きます。

(朝ぼらけ、ウイキペディアの生まれた付近の山からの遠望です)

.