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『あなたがたは、あわてて出なくてもよい。逃げるようにして去らなくてもよい。主があなたがたの前に進み、イスラエルの神が、あなたがたのしんがりとなられるからだ。(新改訳聖書 イザヤ52章12節)』
15年前の「大晦日」のブログの記事を読み返したのです。 「2010年の十大ニュース」です。
1.家内が第二医院に入院
『出産以外に入院したことのない家内の初めての入院でした。しかも外国の地ででした。ところが、病んだ家内を、多くの友人たちが介護をしてくださったのです。6日間24時間体制で、当番表を作成してくれてでした。大感動でした。『遠くの親戚よりも、近くの他人!』、この他人の中に、しかも中国の地に、真実の友がいてくださったことは、何も勝る祝福なのであります。人の世話をしてきた家内が、人のお世話になったことは、なんという喜びでしょうか。』
➡︎ 中国では「病院」とは言わないで、「医院」と呼んでいました。日本の様に「完全看護」ではありません。食事も出ないので、家族とか友人が三食を届けるのです。日本の健康保険が使えます。領収書を持ち帰って、翻訳して申請ができました。市立の「第二医院」でした。日本との違いに戸惑ったのを覚えています。
2.母が93歳の誕生日を迎える
『1917年生まれの母は、強く歩くこともでき、食欲もあり、座って人の話も聞くこともできます。至極元気でおります。山陰の地で生を受け、父と出会って結婚し、四人の男の子を産んでくれました。この夏、小さくなった母の背を見ながら、三男の私ですが、親孝行の真似事をさせていただきました。』
➡︎ 出雲市で生まれて育ち、町一のおてんばで、すばしっこかったのだそうです。父の事務所で事務をしていて結婚したのです。京都で新婚時代を過ごしたと言っていました。娘時代にクリスチャンになり、生涯礼拝を守っていました。晩年に、少し「出雲弁」が話し言葉に聞こえたのです。病弱な三男の私を、懸命に育ててくれたのです。この2年後に、95で亡くなりました。
3.腰痛で授業を休講する
『髭を剃って、着替えて学校に行こうとしたら、腰がすくんで歩けなくなってしまいました。都合十日間ほど家の中で這うようにして過ごしてし、授業を休んでしまいました。毎年、秋から冬の季節の変わり目に、決まって起こっています。帰国したら、紹介された板橋の整体師に行こうと思っています。』
➡︎ 帰国以来、寝込む様なことがなくなりました。それでも季節の変わり目には、腰が渋い様な感じがしています。散歩をするせいでひどくならない様です。たまに行く温泉がいいのかも知れません。この暮れに訪ねてくれた次女家族、次女と孫娘が温泉好きで、滞在の間、何度も出かけていました。
5.次男が渋谷に会社を建て上げる
『出資してくださる方があるほど、仕事を評価され、信頼を寄せてくださったのでしょうか、素晴らしい機会です。力いっぱい、培ったものを発揮して欲しいと思っています。」
➡︎ 今は、大手の会社で働いています。四十過ぎて、自動車免許証を取って、親のまさかの時に、駆け付けられる様にしてくれたのです。幼い日の姿が思い出されるのです。東京のど真ん中に住んでいます。時々、週末に特急電車で、親元を訪ねてくれるのです。この暮れは、夫婦で車で来てくれました。
6.コンクリート・ブロックの破片が投ぜられる
『尖閣諸島の漁船の拿捕と船長の逮捕が報じられた晩、我が家の裏庭のポーチに、コンクリートの塊が、いくつも投げ込まれていました。落ちたり置かれたりするはずのないものでした。直情的な気持ち、それが理解できましたので、悩みませんでした。軍靴でこの国土を踏みにじった過去を考えたら・・・・。』
➡︎ 沖縄諸島の領有権の主張が強かった時でした。日本の車を運転する方は、車の後方に、「魚釣島是中国的(中国の物)」とのステッカーを貼って走っている車を多く見ました。北の方は、焼かれたり壊されたり、ひっくり返されていました。教え子のみなさんが、『先生と奥さまを守りますから、何かあったら言って来てください!』と言ってくれました。華南では大きな騒動はなかった様です。
7.シンガポールに旅行をする
『査証が得られなくて3度も4度も中国大使館に行きました。おかげでマレーシアに2度も行って、滞在時間を延長しました。その滞在期間中の真夜中に、泥棒に入られて、長女の貴重品のほとんど、息子にもらったカメラが姿を消しました。命からがら助かって、「人の物は盗まない!」、そう決心しました。」
➡︎ 長女がシンガポールで働いていて、何度も呼ばれて訪ねました。あの日は、近くの島に行って、自転車で周遊を楽しんで、けっこう疲れて帰って来て、夜は熟睡していましたので、空き巣に入られて、枕元に来ても気づきませんでした。物取りだけで助かったのです。滅多にない経験をして、今では笑い話ですが、ちょっと危険でした。
8.永定の「土楼」に行く
『何年も前から、「遊びに来てください!」と誘ってくださった友人の家を訪ね、彼の知人が車で、山道を走って、世界遺産である「土楼」に連れていってくれました。漢民族の驚くほどの知恵に触れることができ、甲州街道沿いに見えた、いくつもの「土蔵」を思い出していました。』
➡︎ 戦乱の東方地方から逃れて来て、住み着いて、堅牢な要塞の様な集合住宅を作ったのです。今も住んでいて、楼の真ん中に井戸があって、共同生活をしているのです。大陸の南に見られる特異な遺産でした。随分と山の奥深い所に点在していました。
9.「鮑の養殖」をみる
『福建省の北のほうに、連江という街あります。自然の美しい、漁業を生業にしていていました。そこに潮騒を耳にしながら泊めていただき、翌日は、船で養殖場に案内していただきました。海水がきれいで、鮑もご馳走していただき心安まる日を過ごすことができました。』
➡︎ 東シナ海に点在する島々の間で、養殖が行われていました。魚介類が豊富で、海鮮鍋が美味しかったのです。鮑の養殖場には、住むことにできる小屋があって、壮観でした。ただ、台風の襲来には、壊滅的な被害がある様でした。時々、生の鮑を届けていただいて、冷凍保存をしては、よく食べました。帰国時には、乾燥したものまでいただいたのです。高価なご馳走でした。
10.〇〇義塾の校長先生と会う
『偶然の出会いと紹介で、シャングリラ・ホテルで交わりの機会がありました。若い日の共通の知人がいて、話が弾みました。私の若い友人のお世話をしてくださると、この校長先生が約束してくれ、話が進展しています。」
➡︎ 私たちの家に出入りしていた若い友人がいて、彼が毎週訪ねてきました。彼が、その学校に留学して、その入学式に、親御さんの代理で参列したのです。その彼は、東京の大学に進学し、今は東京の会社で働き、家まで買って住んでいます。時々、今でもやって来るのです。
2024年、今日は大晦日です。色々なことのあった年でした。歳を重ねて、家内と二人、救急搬送されたり、入院したり、通院したり、そんなことが増えた一年でした。ただ生かされていること、新しい出会いや友人との交わり、何よりも、いのちの付与者でいらっしゃる神さまに守られ、生かされた三百六十五日でした。多くの方々の愛や優しさに感謝でいっぱいです。ありがとうございました。
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