頂いた物、買ってきた物、美味しそうな果物と野菜です。明日から、十二月、矢の様に、光陰が過ぎていきます。冬の日があふれている北関東です。
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「エレミヤ書」を読んでみますと、やがて預言者となる男の子を産んだことが、母親には悲しかったのではないか。わが子が、同胞の間に争いをもたらし、不穏な事態が起きる元凶になったからではないかと、母は思った様に感じてです。自分が生まれたことが結局は、母を悲しませたのではないか、とエレミヤは思った様です。「涙の預言者」と言われるエレミヤが、その様に、自分の誕生時の母の思いを語っているのです。
『ああ、悲しいことだ。私の母が私を産んだので、私は国中の争いの相手、けんかの相手となっている。私は貸したことも、借りたこともないのに、みな、私をのろっている。
主は仰せられた。「必ずわたしはあなたを解き放って、しあわせにする。必ずわたしは、わざわいの時、苦難の時に、敵があなたにとりなしを頼むようにする。(新改訳聖書 エレミヤ書15章9、11節)』
この旧約聖書の箇所を読んで見ますと、預言者のエレミヤはそのような自国のイスラエルの危機に、『どうして、こんな時代の苦難を、預言者として味合わなければならない私を、母は産んだのか?』と、自分の誕生を喜べない思いを語っています。その苦難は、母に原因があるかの様に言うのです。
多くの子どもが思ってしまう様に、やはり預言者も人の子なのでしょう、正直に自分の生まれを否定し、受け入れたくなかったのです。思わしくない状況下にある自国、そこに生まれた自分、そして預言者として召されたことを受け入れたくないわけです。複雑な心理の動きを見せるているのです。敏感であればあるほど、預言者の心は揺れ動いています。
この矛盾に、預言者は苦しみます。この矛盾がエレミヤの悲嘆の全体を貫いています。彼は、争いのない、喜ばしい人間関係を願う人となりでしたが、預言者は自分の思いではなく、エホバ(主)である神さまの御旨を語らなければならない務めに任じられていたのです。その人としての矛盾を覚えています。
しかし、エレミヤを世界に向かって語る預言者として召したのは、主なのです。lip serviceでなく、神の切なる思いを告げねばならばならない、預言者としてのその矛盾です。日本社会の中で、聖書の神を語る伝道者もまた、人の力や能力では不可能です。ただ聖霊なる神さまの示されることを、自分の思いを混ぜずに語らねばなりません。
そんな中でエレミヤは、エホバへの畏怖と従順を、実は母から受け継いだ人だったのでしょう、母を思い出したのです。『ああ、悲しいことだ。私の母が私を産んだので、私は国中の争いの相手、けんかの相手となっている。私は貸したことも、借りたこともないのに、みな、私をのろっている。』と、預言者の悲哀を告白するのです。
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講壇に立って、預言者の如く、神のことばを真っ直ぐに語る説教者が、お隣の国にいました。非合法の教会で、真実を語ったので、十数年の強制収容所に送られてしまったのです。四つの都市で、その様な信仰の困難を通られた四人の神の人に会いました。
みなさん、様々な困難の中にあっても、主にあって輝いていました。十字架のキリスト、復活のキリスト、再臨のキリスト、審判者のキリストを、大胆に信じつつ語ったので、収容所に送られたのですが、収容所送りを恐れずに、刑期を終えて帰って来ても、また福音を語り続けたのです。
そこでお会いしたみなさんの世代が、主の元に帰り、次の世代が、同じく語り、その次の世代も現れ、そう語る福音に、多くの若い世代の人たちが、お隣の国では応答しているのです。みなさん、人の子として矛盾を感じても、神の子として立ち続けています。信仰者の母に育てられた方もおいででした。
みなさんは、父親を知らず、幼い日に、母に捨てられた子の一生を考えられたことがあるでしょか。私はあります。みなさんは、浪曲とか講談には興味がないことでしょうし、縁もなさそうですが、その講談の演目の中で、一組の母子の物語を思い出したのです。大変にお馴染みの演題で有名です。それは「瞼の母」とか「馬場の忠太郎」と呼ばれる講談に登場する、母の面影を慕う、一人の男を主人公にしたお話です。こんな物語です。
『嘉永2年の師走のこと。渡世のやくざ、番場の忠太郎は金町から江戸へと向かっている。日もとっぷりと暮れた頃、母の噂を聞いた忠太郎は柳橋の料亭、水熊の前まで来る。汚い身なりをした老いた女が、一人の倅(せがれ)みたいな年の男に怒鳴られている。「失せろ、女将さんなんかいない」「乞食婆に用は無い」。男は老婆を突き飛ばして打とうとしている。忠太郎は男の前に立ちはだかる。「こんな年寄りをいじめなさるな」。「痛いところはないか」と忠太郎は老婆をいたわる。老婆は東両国にいつもいる夜鷹婆で、歳は55から60といったところだろうか。「お前、俺くらいの年の子供を持ったことはないか」と忠太郎は尋ねる。老婆はシクシクと泣き出した。「生きていれば31だが死んでしまった。」と言う。
老婆は、「この水熊の女将さんには忠太郎ぐらいの年の息子がいたが、江州へ置いてきた。」と聞いたことがあると語る。昔はこの女将とは姉妹同然だったが、今はこのように叩きだされる始末である、忠太郎の話を聞いて、「倅が懐かしくなった、今度墓参りでも行ってこようか。」と老婆は話す。忠太郎は「これで糊でも売って暮らしてくれ」と一両の金を老婆に渡す。老婆は去り、それを見送る忠太郎。
忠太郎は水熊の木戸を叩くと、板前が出て来た。「女将さんがいるなら少しだけでもいいから会わせてくれないか。」と頼むが、そんな忠太郎を板前は大声を出して追い出そうとする。「やけに騒がしいじゃないか」、奥の方から女の声がする。「そんなに言うなら連れてきな。」、忠太郎は女将と対面する。忠太郎は30を少し過ぎ、崩れた風体をした旅人に見える。忠太郎は女将に、「自分くらいの年の子供を持った覚えはないか。」と尋ねる。女将は、昔江州・番場宿の旅籠屋、おきなが屋に嫁ぎ、忠兵衛という者の女房になった、二人の間には忠太郎という倅がいたが、5歳の時に忠兵衛と仲違いして旅籠屋を飛び出したと話す。はるか遠く江州に向かい、「どうかあの子をお守りください。」と今も願ってるという。「あっしがその忠兵衛です」と名乗り出るが、女将はその子は9歳の時に流行病で死んでしまったと聞いていると言う。
「そうやってこの店に入りこみ、果ては乗っ取るつもりだろう」、女将は言い出した。女将にはお登勢という娘がおり、彼女に身代を譲るつもりであった。忠太郎は、「百両という大金を持っている」と言い返したが、「とっととお帰り」と女将は追い出そうとする。長い間離れていると、心にもこんなに開きができるものか、「もう二度とこの店の敷居は跨がない」と言い残して、忠太郎は水熊の料亭を後にする。
すれ違いで、一人の娘が入って来た。女将の娘のお登勢である。「今の人はおっかさんによく似ている。いつも話していた江州に残して来たという兄さんじゃないの」、お登勢は言うが、母親はただ泣くだけである。そこへ金五郎という男が入って来た。あの野郎の後を付け、人気のない場所でバッサリやる算段をつけたと言う。慌てて女将とお登勢は駕籠で忠太郎の行った方へと向かう。
荒川支流の戸田は葦が背の高さにまで生い茂っている。人っ子一人いないところで、男が忠太郎を襲うが、逆にこの男を斬りつけバッタと倒れる。遠くで「忠太郎ゥ」「兄さん」と言う叫ぶ声が聞こえる。ちきしょう、誰が会ってやるものか。目を閉じれば優しいおっかさんの姿が浮かぶ。どこへ行くのか忠太郎。三度笠を被り、中山道を進むのであった。(講談話)』
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実に悲しい母子物語です。私の父は、海軍軍人の家に生まれています。産んでくれた母親は、家の格に合わないということで、産んだ子を残して離縁されたのです。昔は、よくあった「足入れ婚」の話です。母子分離というのは、その子にとっては悲劇そのものです。私の父は「庶子(しょし)」で、法律上、家督を相続できない子として育てられます。祖父の後添え(父には継母でした)が来て、男の子を産んだことで、私の父には、その継母は、なお厳しく当たったのだそうです。
『俺だけ、お弁当におかずを入れてもらえなかった!』と、母に結婚当初に漏らしたそうです。父だってヤンチャで、言うことを聞かない反抗児だったのかも知れません。継母だって、自分の妻や母親の立場を守りたかったのでしょうし、姑との間に何かあったかも知れません。でも、そう言った不条理な、大人の都合で、母を奪われると言うのは、成長期の子どもの心には、深い傷を負わせたに違いありません。
旧約聖書に出てきます、エフタ同様、父も家を出て県立中学校から、東京の私立中学校に転校しています。きっと父にとっては不本意だったことでしょう。そんな思春期を送らざるを得なかったわけです。強そうに見えた父の内に、隠されてあった、悲哀の原因を感じてならなかったのです。
それでも、その継母が亡くなった時に、なぜか父は、三男の私を連れて、葬儀に出たのです。三人の妹に代わって葬儀を取り仕切るためにでした。父の母違いの弟は、太平洋戦争に出征し、南方で戦死してしまいました。人の思惑など、思い通りにはならないのが現実なのですね。何年か前に、父の末の妹の子、私たちの従兄弟から、私たち兄弟に家財産の相続の話がありました。今更の話で、私は、『要りません!』と言い、二人の兄も弟もそう言ったのです。
講談に出てくる忠太郎だって、父知らず、母親と生き別れて生きていくのに、博徒になる道しかなかったのでしょう。でも三十過ぎて、母恋しで、母を訪ねたわけです。上手に講談師が語る話に、父を重ねて泣けてしまうのです。父にも、きっとグレてしまった、私たちの知らない若い時があって、そして母と出会って、結婚し、四人の子どもの父として、自分の子どもたちは悲しまないようにと、懸命に育て上げてくれたのです。
聖書には、母親との悲哀に満ちた物語があり、その主人公がエフタでした。イスラエルの民を導く士師(王の様な政治や軍事に指導者のことです)とされた一人の人物が出てす。聖書は、「遊女の子」と紹介しています。父親が遊女に産ませた子だったのです。正妻の子たちが成長した時に、彼らからのエフタへのつらい仕打ちが、次の様にありました。
『ギルアデの妻も、男の子たちを産んだ。この妻の子たちが成長したとき、彼らはエフタを追い出して、彼に言った。「あなたはほかの女の子だから、私たちの父の家を受け継いではいけない。」(新改訳聖書 士師記11章2節)』
遊女を母にすることで、そんな仕打ちを受けたエフタは、父ギルアデの家から逃げて出てしまったのです。このエフタは、どんな思いで、生まれ育った家を出たことでしょうか。親に愛されず、邪魔者にされているという経験は、どんなにか辛いことでしょうか。エフタは、自分の誕生を呪ったことでしょうか。また母の背景を恥じたのでしょうか。私の父を産んだ母は、遊女ではありませんでしたが、そんな生業の母親を持つエフタと、私の父が重なって思えてならないのです。イスラエルの国家的危機の時に、エフタは呼び戻されて、「士師(王のような指導者)」となります。
『俺あ、こう上下の瞼を合せ、じいッと考えてりゃあ、逢わねえ昔のおッかさんのおもかげが出てくるんだ――それでいいんだ。逢いたくなったら俺あ、眼をつぶろうよ。』
と言って、物陰に隠れてつぶやく忠太郎も、同じに違いありません。探し求めて、やっと会った生母に拒まれたことは、どんな辛いことだったでしょうか。エフタや父や忠太郎の味わった、親からの拒絶は、親から愛されて育った私には、想像もつきませんが、父の涙で表された深い思いには、父の悲哀を感じないではいられません。
忠太郎は、『ちきしょう!』と言って、母と決別するのです。優しかった頃の母を思い出すことで、どうもできない辛くやるせない気持ちを消化しようとしたのでしょうか。
以前には継母を、呼び捨てにしていたのに、父は、亡くなる少し前には、《さん》付けで継母を呼んで、『タツエさんは、シュウクリームやオムライスを作ってくれたよ。料理上手で、それは美味しかったんだ!』と、父が言っていましたから、弁当のおかずを入れなかった継母のことを語った話は、父のイジケだったかも知れません。
私が聞いた父の思い出話は、恨みや欠けに変えて、感謝を懐かしい思い出のうちに言い表したのでしょう。もう、強い被害者意識がなくなっていたのかも知れません。良い思い出で、自分の過去を帳消しにできたのは、素晴らしいことではないでしょうか。
『俺の腰から聖職者が出るとはなあ!』と、献身する上の兄について、父は母に語ったそうです。それでも、やがて迎える老いていく自分をみてくれる最初の子への期待は大きかったのでしょう。その上の兄は、一流企業であった会社で働いていたのに、辞めて献身してしまったのです。父はしっぺ返しを受けたように、裏切られた様に感じたことでしょう。
ところが、すぐ上の兄が、義姉と一緒に、二親の住む家に帰って来て、父の最後をみ、父の死後に残された母の老後の世話をしたのです。そのような家族の動きの中で、牧師となった上の兄が、「福音」を語って、病床の父を信仰告白に導いたのです。幼い頃に、父親に町の教会に、連れて行かれたことがあって、父は、「福音」を知っていたのでしょう。
そうした何日か後に、父は創造者の元に、そうです慰藉者の懐に帰って逝ったのです。義母を赦し、自分も赦したのでしょう、そんな61年の生涯を送り、ついには望みある永生のいのちの約束の「十字架の福音」を信じ、救われたと、私は信じております。
(ウイキペディアのレンブラントが描いたエレミヤ、Christian clip artsのイラスト、チャイナインランド・ミッションの会報、広重描く木曽の馬場宿、父の生まれた街の市花「ハマユウ」です)
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まるで燃える様なイチョウの初冬の装いです。毎年、次男が撮影して、その写真を、昨日、家族のチャットで送ってくれた、神宮外苑の並木道です。東京の人気な観光スポットなのだそうです。シーズン終わりには、ものすごい量のイチョウの葉が乱舞することでしょう。それも見ものになるに違いありません。清掃の心配までしてしまいました。
このイチョウですが、漢字では、銀杏、公孫樹と二種類の漢字があり、「いてふ」とひらがな表示もしています。与謝野晶子は、よくこの銀杏を愛したて詠んだ様です。
不思議をば形にしたる木の如く月夜に葉をば捨つる枝かな
日の射して狐の毛にも似る銀杏稀に青かる極月(ごくげつ)の空
金色の小さき鳥のかたちして銀杏ちるなり岡の夕に
家内が入院をした、壬生町の獨協医科大学の銀杏並木も見事です。2019年の正月に入院し、退院した今も通院をしていますが、今は3ヶ月おきなので、緑の葉も黄金の葉もタイミングが合わなくなっている今です。喜ぶべきか残念がるか、少々複雑な思いがしております。今頃は、神宮に負けないほど綺麗な黄金色なのでしょうね。
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「懐古」と「追想」、歳を重ねるごとに、二親のこと、幼い日からのいろいろな出来事、兄弟や友だちのこと、色や匂いや風景や印象をひっくるめて、それらを思い返したり、その人や出来事のあった街を訪ねてみたい思いがしてきます。それらとは違って、これから迎える未知の経験にも、間違いなく近づいていることにも、思いを向けないわけにはいきません。
聖書を読み始めて、知ったことがあります。すべてに、人に与えられた「時」、しかも、その「短いこと」と、「定まった時」があると言うことです。「詩篇」と「伝道者の書」の中に、次の様にあります。
『あなたは人をちりに帰らせて言われます。「人の子らよ、帰れ。」 まことに、あなたの目には、千年も、きのうのように過ぎ去り、夜回りのひとときのようです。 あなたが人を押し流すと、彼らは、眠りにおちます。朝、彼らは移ろう草のようです。 朝は、花を咲かせているが、また移ろい、夕べには、しおれて枯れます。 まことに、私たちはあなたの御怒りによって消えうせ、あなたの激しい憤りにおじ惑います。 まことに、私たちのすべての日はあなたの激しい怒りの中に沈み行き、私たちは自分の齢をひと息のように終わらせます。 私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。 だれが御怒りの力を知っているでしょう。だれがあなたの激しい怒りを知っているでしょう。その恐れにふさわしく。 それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。(新改訳聖書 詩篇90篇3〜12節)』
人の一生は、「夜回りのひととき」、「移ろう草」、「しおれて枯れる花」、「ひと息のように終わる」、そんな風に、聖書は言っています。「千年が一瞬に過ぎ去る」、これは、「人生短し」の一言に尽きるのでしょう。溢れるほどに時がある様に思っていた日を思い出して、苦笑いをしてしまいます。
『帰って来てください。主よ。いつまでこのようなのですか。あなたのしもべらを、あわれんでください。 どうか、朝には、あなたの恵みで私たちを満ち足らせ、私たちのすべての日に、喜び歌い、楽しむようにしてください。 あなたが私たちを悩まされた日々と、私たちがわざわいに会った年々に応じて、私たちを楽しませてください。あなたのみわざをあなたのしもべらに、あなたの威光を彼らの子らに見せてください。 私たちの神、主のご慈愛が私たちの上にありますように。そして、私たちの手のわざを確かなものにしてください。どうか、私たちの手のわざを確かなものにしてください。(同13〜17節)』
そう、詩篇の作者は続けています。「満ち足りること」、「楽しむこ」、「喜び歌、楽しむこと」、こういったことこそが、自然の理であって、人はそうすべきなのでしょう。七十年から八十年の間に、人の一生の「時」が定められています。それに、付け加えることも、間引くことも、人にはできないのです。
一生の儚(はかな)さを、親鸞は、次の様に詠みました。
明日ありと思う心の仇桜夜半に嵐の吹かむものかわ
明日は必ず来るとは限らず、見ている間に、嵐が吹き荒れて、一瞬のうちに、時も出来事も、そして自らの命さえも失せてしまうと言うのです。この親鸞は九十で亡くなります。また信長も、「幸若舞 敦盛」を舞いながら、次の様に詠んでいます。
『思へばこの世は常の住み家にあらず
草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし
金谷に花を詠じ、榮花は先立つて無常の風に誘はるる
南楼の月を弄ぶ輩も 月に先立つて有為の雲にかくれり
人間(じんかん)五十年、下天(化天)のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり
一度生を享け、滅せぬもののあるべきか
これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ。』
信長を、最後には本能寺で討ってしまった家臣の明智光秀は、次の様に辞世の句を残します。
『従順無二門大道徹心源五十五年夢覚来帰一元
「恭順も良く、反逆も良いという、この二通りの道は存在しない、人の行うべき通りが存在することが、心の底まで深く分かった。五十五年の夢から目覚めて、黄泉に下ろうとしている。』
歴史家は、追い詰められ、切羽詰まって、『敵は本能寺にあり!』で、信長を、光秀は討つたと言いますが、戦死した家来の家族に、供養米を届けさせるほど、部下に優しい指導者だったと言われますが、戦国の世の常、平々凡々の平成の世の私には、光秀を思いはかることはできないのです。
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この光秀を打ったのが、秀吉でした。今太閤と言われた、足軽上がりの指導者でしたが、天下を収めたのは、驚くほどの才覚の持ち主だったからでした。そんな秀吉も、病には勝てずに果てます。
露と消え露と散りぬる我が身かな浪花の事は夢のまた夢
あの「聚楽第(じゅらくだい)」を造営するほどの力を、天下に示し、朝鮮半島にまで兵を送り、日朝の間に禍根を残しますが、六十一年の生涯を閉じています。
九十年を親鸞が、四十八年を信長が、秀吉が六十一年を生きて、死んでいきました。聖書は次の様にも、記します。
『天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。 生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。 殺すのに時があり、いやすのに時がある。くずすのに時があり、建てるのに時がある。 泣くのに時があり、ほほえむのに時がある。嘆くのに時があり、踊るのに時がある。 石を投げ捨てるのに時があり、石を集めるのに時がある。抱擁するのに時があり、抱擁をやめるのに時がある。 捜すのに時があり、失うのに時がある。保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある。 引き裂くのに時があり、縫い合わせるのに時がある。黙っているのに時があり、話をするのに時がある。 愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦うのに時があり、和睦するのに時がある。 私は心の中で言った。「神は正しい人も悪者もさばく。そこでは、すべての営みと、すべてのわざには、時があるからだ。(伝道者3章1〜8、17節)』
どの様なことが起ころうとも、偶然はなく、「定まった時」があると言うのです。6歳上がりに小学校、でも入院中で学校に通った日がありませんでした。クラスの仲間を知らないで東京に越して、転校したのです。
何度も何度も引越しをして、今住むここが自分の「終の住処(すみか)」なのでしょうか。自分に残されている時間を数えてみると、どうみても、もう五年ほどでしょうか、少しおまけで加えても七年かも知れません。そんな思いに晒(さら)されるこの頃です。
しかし、薄ぼんやりした将来を、不確かな思いで、私は待っているのではありません。『イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。(ルカ23章43節)』と、十字架上で、共に処刑場に立たされた犯罪者に、イエスさまが語った様に、私にも《定められた「きょう」》が、間も無くくることでしょう。そして、パラダイスに、その日から永遠に居続けることができる、そう自分は信じているのです。
お隣の国からと心密かに決めていましたが、主は2019年の1月に、祖国に帰らせてくださって、今住んでいる「ここから」行くのでしょうか。はたまた他の国や街からでしょうか。私にも、「定まった時」があるのです。残された時を、悔いなく過ごして、自分の時を迎えたい今であります。
(ウイキペディアの日時計、聚楽第の図会、日の出です)
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江戸の昔から昭和に至るまで、東京で一番の繁華街は、浅草でした。北関東や東北や越後などから、華の都会として憧れたのは、新宿でも池袋でも渋谷でもなく、銀座は別格として浅草、そこは食べ物も観劇も、落語や講談や浪曲、活動写真も、花屋敷も、どうしても浅草だったに違いありません。新宿や品川の様に、主要交通網の玄関口ではないのですが、浅草は、強く江戸を感じさせる街でした。
新宿は、中央線でつながる山梨や長野から、池袋は、西武線沿線の埼玉県から、上野は、東北本線の北関東や越後や東北や常陸や房州から、渋谷や品川は、小田急線や東急線で、神奈川や静岡からの訪問客が多いのかも知れません。北関東の栃木と群馬は、浅草だったのでしょう。よく聞くのは、新宿は信州弁や甲州弁が聞こえ、渋谷は相模弁、池袋は埼玉弁、上野は東北弁や越後弁や茨城弁などが聞こえてくるのだそうです。もちろん茨城も千葉も、東京と繋がっていたわけです。浅草は、全国区だったのでしょう。
私が、おもに利用している電車は、日光や宇都宮や鬼怒川と浅草を結ぶ東武鉄道で、栃木県人は、その電車に乗って出掛け、一日、浅草周辺で、都会の空気を吸い、美味しいものを食べ、贔屓の劇を観て過ごして、帰ってきたことでしょうか。また県北の宇都宮以北や日光周辺は日光線で宇都宮経由も、旧国鉄の東北本線(今では宇都宮線と呼ぶ様です)で上野に出たのでしょう。
父が元気な頃からですが、浅草で、「駒形のどぜう鍋(どじょう)」を一緒に食べる口約束があったので、これまで通り過ごしてきた浅草は、東武鉄道で一本の浅草を、どうしても訪ねてみたい街なのです。父は、北関東ではなく、相模の横須賀の出身なのですが、品川や銀座ではなく、青年期には、浅草で過ごした時間が長かった様に思えるのです。明治生まれの世代は、戦後に栄えた新宿や渋谷や池袋ではなかったのでしょう。浅草橋で、父は仕事をしていたこともありました。
東京都下の多摩地区に住んでいた子どもの頃に、渋谷に連れ出してもらって、『こんなに美味いものがあるんだ!』と言って、仔牛のシチュウと黒パンを食べさせてもらったり、新宿のコマ劇場に観劇に連れて行ってもらっていましたが、次の父の約束の「浅草行き」は、果たされていないままで、自分には「憧れの浅草」なのです。
代官山に次男が住んでいた時に、上の娘も一緒に、3人で渋谷に出て、地下鉄で浅草に行ったことがありました。美味しい鰻の店があると言って、連れて行ってもらったのですが、残念なことに、その日は定休日でした。空約束になって、長い時間、順番待ちで並んで、スカイツリーにエレベーターで昇って、なにをたべたか思い出せないまま過ごしただけの一日でした。
南栗橋で都心につながる乗り換えの急行電車しか乗ったことがありませんので、今度は、人気の浅草行きの特急「スペーシアX」に乗って、「エンコ(明治以降に整備された浅草公園の呼び方でした)漫歩」をしてみたいのです。家内を誘うのですが、まだそこまで力がありませんし、どうも行きたがっていませんので、お預けのままなのです。
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父の若い頃に流行った歌に、「東京行進曲」がありました。「粋な浅草」と、三番の歌詞の中にあります。また、それ以前に、「東京節(1918(大正7)」があって、その二番は、
♬ 東京で繁華な 浅草は
雷門 仲見世 浅草寺
鳩ボッポ豆売る お婆さん
活動 十二階 花屋敷
すし おこし 牛 天ぷら
なんだとこん畜生で お巡りさん
スリに乞食に カッパライ
ラメチャンタラ ギッチョンチョンで
パイノパイノパイ
パリコト パナナで
フライ フライ フライ 🎶
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この浅草は、江戸時代以前から繁華街として栄えていたそうです。江戸一の下町情緒、江戸情緒の残る街で、今では外国人観光客で賑わいを見せているそうです。草深い武蔵野の中で、草があまり茂っていなかったため、「浅草」と呼ばれるようになったのだと言われています。
「東京で繁華」と歌で歌われ、その象徴の様に、浅草と上野とを結んだ、「地下鉄」が東京で初めて運転したのが、昭和2年(1927年)12月30日でした。それはアジア初の「メトロ(地下鉄のことを略称してそう呼んだ様です)」で、銀座線で2.2kmの距離だったのです。父の十代の終わりの頃の開通でした。
もう6年も住んで、すっかり栃木人化している自分ですので、自分にとっての身近な都会は、この浅草なのです。どうもなかなか行けないのは、次男が、ここ浅草名物、草団子の中に練り込まれた「蓬(よもぎ)」が体に良いからと買って、来るたびに、持って訪ねてくれるのです。
浅草は、東京一、美味いものが多かったそうです。古川緑波が「浅草を食べ」の中で、こんなことを書き残しています。
『浅草独得(ではないが、そんな気がする)の牛めし、またの名をカメチャブという。屋台でも売っていたが、泉屋のが一番高級で、うまかった。高級といっても、普通が五銭、大丼が十銭、牛のモツを、やたらに、からく煮込んだのを、かけた丼で、熱いのを、フウフウいいながら、かきこむ時は、小さい天国だった。 話は飛んで、戦後の浅草。ところが、僕、これは、あんまり詳しくない。それに、浅草自体が、独得の色を失って、銀座とも新宿ともつかない、いわば、ネオンまばゆく、蛍光灯の明るい街になってしまったので、浅草らしい食いものというのが、なくなってしまった、ということもある。(「ロッパの悲食記」ちくま文庫、筑摩書房)』
長い時間の経過とともに、この街も大きく変化をしてきているのでしょう。この浅草も「らしくなくなってしまった」街でいいのでしょう。生き物の様に、街が変わっていくのは当然だからです。ただ一人一人の記憶の中に残った、情景を思い返せた都会経験が、ここ栃木県人の「華の浅草」訪問だったに違いありません。
(ウイキペディアの広重の描いた浅草、浅草十二階、セリカ病院から見た隅田川です)
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「オトキチ」、オートバイ狂やオートバイに魅せられて、ハンドルを握り始めた若者、買って乗ってみたいと思いながらも、親に頼めないし、手に入れることの叶わない自分、そんな子どもも若者も大人も、みんなを評して、オートバイに魅せたれた人たちを、「オトキチ」と言ったでしょうか。これも死語になっていそうです。
昨日、YouTubeを見ていましたら、「月光仮面」 のテレビ放送の主題歌を、〈FORESTA(合唱グループ)〉が歌っていました。中学生の頃(1958〜1959)年に放映されていて、まだテレビが父の家にない頃に、どこで観たのか、「正義の味方」のオートバイに乗った主人公が格好よかったのです。
♬ どこの誰かは 知らないけれど
誰もがみんな 知っている
月光仮面の おじさんは
正義の味方よ よい人よ
疾風(はやて)のように 現れて
疾風のように 去ってゆく
月光仮面は 誰でしょう
月光仮面は 誰でしょう
どこかで不幸に 泣く人あれば
かならずともに やって来て
真心(まごころ)こもる 愛の歌
しっかりしろよと なぐさめる
誰でも好きに なれる人
夢をいだいた 月の人
月光仮面は 誰でしょう
月光仮面は 誰でしょう
どこで生まれて 育ってきたか
誰もが知らない なぞの人
電光石火(でんこうせっか)の 早わざで
今日も走らす オートバイ
この世の悪に かんぜんと
戦いいどんで 去ってゆく
月光仮面は 誰でしょう
月光仮面は 誰でしょう ♬
今の特撮には及びませんが、あの頃は画期的な番組だったのです。主人公の祝十郎が、実は月光仮面でした。弱気を助け、強きをくじく、「我らがヒーロー」だったのでしょうか、その後、多く登場するヒーローの原形でした。まだ高速道路などができる前でしたから、どこかの公園の脇の様な箇所を、爆音を上げて疾走する場面が、番組の始まりだったのです。
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この月光仮面のオートバイは、アメリカ製のハーレー・ダビッドソンの「ナナハン(排気量700ccの大型オートバイ)」にまたがっていたのではありませんでした。高校生から譲り受けた、ホンダ製の小型バイクのモンキーには、自分は乗ったのですが、「メグロ」は憧れのバイクだったわけです。まだ五十年代んは、まだオートバイ産業が盛んになる前でしたが、でも、そのオートバイブームに火をつけたもので、その走りになった車種だったかも知れません。
『いつか乗ってみたい!』と、同時の男の子は夢を描いていたわけです。今、この街の駅から来る道を、時々、爆音をけたたましく上げながら、走っている若者がいます。令和の代にも、いるのですから、このマフラーを改造したバイクの音は、窮屈な社会から枷(かせ)への若者の反発の思いを代弁している声かも知れません。
「来た道」を思い返すと、反発心旺盛の頃に、さまざまな不協和音をあげて、大人のみなさんにご迷惑をかけていた自分を思い返して、今も苦笑いしてしまいます。「来た道」と、ちっとも変わらない、この若者の行動を容認している私なのです。
それにしても、月光仮面の登場シーンを見て気付いたのは、『オートバイを乗り回すんだ!』と強く思い始めた、そのキッカケになったのが、あの場面だったのです。あの時代の十代の自分に、強烈な憧れを抱かせテレビ番組だったわけです。
月光仮面の仮面の下の顔は、誰も見ていないので、『♬ どこの誰かは知らないけれど・・・』、『なぞの人!」と、主題歌が歌い出されたのです。この月光仮面を大瀬康一という俳優が演じたのですが、あのアメリカのテレビ番組の「スーパーマン」の日本版で、空は飛ばないのですが、オートバイをスピードを上げながら疾走する姿は、圧巻でした。仮面姿、変身が特徴で、その後のTV番組のモデルだったのです。
そういえば、モーターの付いたものに、初めて乗ったのは、弟が友だちのお母さんからもらってきたスクーターでした。今は公団住宅ができ、それが壊されてrenewalさていますが、その元だった畑道を、弟と乗り合った時だったでしょうか。また高校のグランドで、同じクラブの仲間が乗ってきたスクーターに、目を丸くしながら跨いだ日がありました。あの時々の頬をなぜた風の感触が、なんとも懐かしく思い出されてなりません。
(ウイキペディアの栃木県那須烏山の工場で製造されていた名車メグロのオートバイ、ホンダ製モンキーです)
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「35人ルール」、どんな事故でも、公表される死者数は、「35人」に決められて、公表されるのが、お隣の国の地方の都市で起こる事故や事件における死者数なのです。それ以上の数は、ほとんど例外なくありません。それは、周知の事実で、あちらにお住まいのみなさんは、実数を信用していません。どうしてかと言いますと、それ以上の人数になると、公に処罰対象になり、責任者は罷免させられたり、左遷、降格があるからなのだそうです。
それを避ける保身のために、『実数を公表しないのです!』との通例になっていると聞きました。長い間、あちらで生活した時には、地震があっても、交通事故や炭鉱に落盤事故があっても、その犠牲者は、35人に上限が決められて、報道されていました。公表されるのが、地方の都市で起こった事故や事件における死者数なわけです。
パニックが起きてしまうから、それを避けるのだとの言い訳もある様です。これって、日本でもありそうです。「事実」が公表されないのは、今に限ったことではありませんでした。報道規制がなされていた、戦時下に、『勝った、勝った、また勝った!』と、軍事作戦の成功を、煽り上げていたのです。
偽装と虚偽の報告がなされる社会は、事実の上に立たないので、不安が満ちて、落ち着きません。不信が社会に満ちるのです。今回の地方選挙の中で、驚かされたのは、県会、百条委員会の決定で、失職した兵庫県知事が、選挙で返り咲いたことに驚かされたのです。すっかり自分が騙されたので、誹謗中傷の矢面に立たされ前知事の悪行報道を鵜呑みにして、ニュース報道を疑わなかった私は、狐につままれた様でした。
テレビも新聞も、報道各社は、異口同音、同じ扱いでした。それを聞いて、自分も信じてしまったことは申し訳ないことと、反省させられています。事の真相が明らかになっていくのでしょうけど、言い訳をしなかった知事さんはすごいと思ったのです。
人を陥れようとする悪意が、こんな形で行われるのは、珍しくないことですが、これからは、こう言ったことが、さらに多く起きてくるのでしょうか。自分では、噂話には関心を持たない様に生きてきたつもりですが、落とし穴に嵌(はま)る危険性が、いつでもありそうで、怖い感じがしております。
武器や弾薬を使わない、「うわさ戦争」が、世の中にあります。正しく判断しないで、その四方八方から、あらゆるメディアを通してやってくる噂話に耳を傾けて、信じてしまわない様にしようと思う今です。
預言者エレミヤは、次の様に警告しています。
『そうでないと、あなたがたの心は弱まり、この国に聞こえるうわさを恐れよう。うわさは今年も来、その後の年にも、うわさは来る。この国には暴虐があり、支配者はほかの支配者を攻める。(新改訳聖書 エレミヤ51章46節)』
あふれるほどの噂話が起こった時代について、預言者エレミヤは、この書の中で、多くのことを預言していますが、その預言は、これから迎えようとしている時代に対する預言だとも思われます。「人々のうわさ」を聞くか、「預言者の声」に聞くか、私たちは、正しく聞くなら、祝福に預かれ、惑わされることがなく、救いに預かることができるのです。
『わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。(エレミヤ33章3節)』
呼び求める、叫び求める私たちに、神さまは答え、告げてくださるのです。多くの偽預言者の声が聞こえてきますが、神さまが書き記す様に導かれた「聖書」、そこに書き記したことに耳を傾け、神さまが、派遣される、真実を語る「預言者」の語ることばを聞くことが肝要です。
(Christian clip arts の聖書記者ルカ、ウイキペディアの「法螺〈ホラ〉」を吹く人です)
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