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「プレッシャー(pressure)」、どんな人でも、どんなに経験を積んだ人でも、どんな栄光や称賛を受けた人でも、この「外からかかる精神的・心理的な圧力」を避けることができない様です。
ヤンキー・スタジアムで、ホームランバッターのジャッジ選手がセンターを守っていて、ドジャースの選手の打ったボールの捕球を誤って落球してしまいました。
どうも、それがきっかけとなって、勝ち試合をヤンキースが失ってしまった、と酷評されています。その落球を米紙は評して、『結局のところ彼らには才能ではなく技術が欠けている。』と記しているのが、おおかたの捉え方です。
それだけが原因でしょうか。あれだけの人に観覧され、驚くほどのお金が動き、悲喜交々、驚くべきエネルギーがみなぎっている中で、ボールを投げたり、打ったり、捕ったり、走ったりの野球の総本山、MLBの最終戦が抱えている心理的緊張があったに違いありません。あんなに活躍した選手だって、打てないし、投げれないし、走れないし、補給できないのです。人間がするゲームだからです。
名アナウンサーだって話をカムことがあり、高明な説教者だって引用を勘違いし、名政治家だって失言し、将棋名人も差し手を間違え、ホームラン・バッターのジャッジだって打てないし、落球するのです。人には、「失敗」、「ミス」が付き物なのです。だから面白いのではないでしょうか。
イエスさまは、『あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。(新改訳聖書 ヨハネ8章7節)』と、姦淫の現場で捕まえられた女性を取り巻いて、糾弾する男たちに、そう言いました。すると、どうなったかが記されてあります。
『彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。(9節)』
そこにいた誰もが、黙して、その場を去ったのです。誰も女の罪を責められる男がいなかったのです。心の中で情欲いだいても、それは姦淫だと、イエスさまはおっしゃいました(マタイ5章28節)。そのイエスさまだけが、人の罪を責めることができるのです。ところが、『わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。(11節)』と、この女性に言われました。
失敗のデパートの私も、石で、この女性を打てませんし、このジャッジを責められません。みなさんはいかがでしょうか。これが人です。「捕球ミス」が端を発して、World champion shipをヤンキースは失いました。だから、野球も人生も面白いのかも知れません。アーロン・ジャッジには、落球のミスを忘れて、来シーズン、また活躍してほしいとエールを送ります。決して「戦犯」などではないのですから、自分を責めないでほしいのです。
さて、人類最後の「ミス」は、核ボタンを押すことです。何時、誰が押すのでしょうか。それこそが、現時点の最大関心事になってきています。その時の備えができているでしょうか。いえ、神の前に「信仰」を持たないことこそ、最大、最終のミスと言えるにちがいありません。もっと重大な落球のないことです。
(ウイキペディアにアーロン・ジャッジ選手、石です)
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