「エレミヤ書」を読んでみますと、やがて預言者となる男の子を産んだことが、母親には悲しかったのではないか。わが子が、同胞の間に争いをもたらし、不穏な事態が起きる元凶になったからではないかと、母は思った様に感じてです。自分が生まれたことが結局は、母を悲しませたのではないか、とエレミヤは思った様です。「涙の預言者」と言われるエレミヤが、その様に、自分の誕生時の母の思いを語っているのです。
『ああ、悲しいことだ。私の母が私を産んだので、私は国中の争いの相手、けんかの相手となっている。私は貸したことも、借りたこともないのに、みな、私をのろっている。
主は仰せられた。「必ずわたしはあなたを解き放って、しあわせにする。必ずわたしは、わざわいの時、苦難の時に、敵があなたにとりなしを頼むようにする。(新改訳聖書 エレミヤ書15章9、11節)』
この旧約聖書の箇所を読んで見ますと、預言者のエレミヤはそのような自国のイスラエルの危機に、『どうして、こんな時代の苦難を、預言者として味合わなければならない私を、母は産んだのか?』と、自分の誕生を喜べない思いを語っています。その苦難は、母に原因があるかの様に言うのです。
多くの子どもが思ってしまう様に、やはり預言者も人の子なのでしょう、正直に自分の生まれを否定し、受け入れたくなかったのです。思わしくない状況下にある自国、そこに生まれた自分、そして預言者として召されたことを受け入れたくないわけです。複雑な心理の動きを見せるているのです。敏感であればあるほど、預言者の心は揺れ動いています。
この矛盾に、預言者は苦しみます。この矛盾がエレミヤの悲嘆の全体を貫いています。彼は、争いのない、喜ばしい人間関係を願う人となりでしたが、預言者は自分の思いではなく、エホバ(主)である神さまの御旨を語らなければならない務めに任じられていたのです。その人としての矛盾を覚えています。
しかし、エレミヤを世界に向かって語る預言者として召したのは、主なのです。lip serviceでなく、神の切なる思いを告げねばならばならない、預言者としてのその矛盾です。日本社会の中で、聖書の神を語る伝道者もまた、人の力や能力では不可能です。ただ聖霊なる神さまの示されることを、自分の思いを混ぜずに語らねばなりません。
そんな中でエレミヤは、エホバへの畏怖と従順を、実は母から受け継いだ人だったのでしょう、母を思い出したのです。『ああ、悲しいことだ。私の母が私を産んだので、私は国中の争いの相手、けんかの相手となっている。私は貸したことも、借りたこともないのに、みな、私をのろっている。』と、預言者の悲哀を告白するのです。
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講壇に立って、預言者の如く、神のことばを真っ直ぐに語る説教者が、お隣の国にいました。非合法の教会で、真実を語ったので、十数年の強制収容所に送られてしまったのです。四つの都市で、その様な信仰の困難を通られた四人の神の人に会いました。
みなさん、様々な困難の中にあっても、主にあって輝いていました。十字架のキリスト、復活のキリスト、再臨のキリスト、審判者のキリストを、大胆に信じつつ語ったので、収容所に送られたのですが、収容所送りを恐れずに、刑期を終えて帰って来ても、また福音を語り続けたのです。
そこでお会いしたみなさんの世代が、主の元に帰り、次の世代が、同じく語り、その次の世代も現れ、そう語る福音に、多くの若い世代の人たちが、お隣の国では応答しているのです。みなさん、人の子として矛盾を感じても、神の子として立ち続けています。信仰者の母に育てられた方もおいででした。
みなさんは、父親を知らず、幼い日に、母に捨てられた子の一生を考えられたことがあるでしょか。私はあります。みなさんは、浪曲とか講談には興味がないことでしょうし、縁もなさそうですが、その講談の演目の中で、一組の母子の物語を思い出したのです。大変にお馴染みの演題で有名です。それは「瞼の母」とか「馬場の忠太郎」と呼ばれる講談に登場する、母の面影を慕う、一人の男を主人公にしたお話です。こんな物語です。
『嘉永2年の師走のこと。渡世のやくざ、番場の忠太郎は金町から江戸へと向かっている。日もとっぷりと暮れた頃、母の噂を聞いた忠太郎は柳橋の料亭、水熊の前まで来る。汚い身なりをした老いた女が、一人の倅(せがれ)みたいな年の男に怒鳴られている。「失せろ、女将さんなんかいない」「乞食婆に用は無い」。男は老婆を突き飛ばして打とうとしている。忠太郎は男の前に立ちはだかる。「こんな年寄りをいじめなさるな」。「痛いところはないか」と忠太郎は老婆をいたわる。老婆は東両国にいつもいる夜鷹婆で、歳は55から60といったところだろうか。「お前、俺くらいの年の子供を持ったことはないか」と忠太郎は尋ねる。老婆はシクシクと泣き出した。「生きていれば31だが死んでしまった。」と言う。
老婆は、「この水熊の女将さんには忠太郎ぐらいの年の息子がいたが、江州へ置いてきた。」と聞いたことがあると語る。昔はこの女将とは姉妹同然だったが、今はこのように叩きだされる始末である、忠太郎の話を聞いて、「倅が懐かしくなった、今度墓参りでも行ってこようか。」と老婆は話す。忠太郎は「これで糊でも売って暮らしてくれ」と一両の金を老婆に渡す。老婆は去り、それを見送る忠太郎。
忠太郎は水熊の木戸を叩くと、板前が出て来た。「女将さんがいるなら少しだけでもいいから会わせてくれないか。」と頼むが、そんな忠太郎を板前は大声を出して追い出そうとする。「やけに騒がしいじゃないか」、奥の方から女の声がする。「そんなに言うなら連れてきな。」、忠太郎は女将と対面する。忠太郎は30を少し過ぎ、崩れた風体をした旅人に見える。忠太郎は女将に、「自分くらいの年の子供を持った覚えはないか。」と尋ねる。女将は、昔江州・番場宿の旅籠屋、おきなが屋に嫁ぎ、忠兵衛という者の女房になった、二人の間には忠太郎という倅がいたが、5歳の時に忠兵衛と仲違いして旅籠屋を飛び出したと話す。はるか遠く江州に向かい、「どうかあの子をお守りください。」と今も願ってるという。「あっしがその忠兵衛です」と名乗り出るが、女将はその子は9歳の時に流行病で死んでしまったと聞いていると言う。
「そうやってこの店に入りこみ、果ては乗っ取るつもりだろう」、女将は言い出した。女将にはお登勢という娘がおり、彼女に身代を譲るつもりであった。忠太郎は、「百両という大金を持っている」と言い返したが、「とっととお帰り」と女将は追い出そうとする。長い間離れていると、心にもこんなに開きができるものか、「もう二度とこの店の敷居は跨がない」と言い残して、忠太郎は水熊の料亭を後にする。
すれ違いで、一人の娘が入って来た。女将の娘のお登勢である。「今の人はおっかさんによく似ている。いつも話していた江州に残して来たという兄さんじゃないの」、お登勢は言うが、母親はただ泣くだけである。そこへ金五郎という男が入って来た。あの野郎の後を付け、人気のない場所でバッサリやる算段をつけたと言う。慌てて女将とお登勢は駕籠で忠太郎の行った方へと向かう。
荒川支流の戸田は葦が背の高さにまで生い茂っている。人っ子一人いないところで、男が忠太郎を襲うが、逆にこの男を斬りつけバッタと倒れる。遠くで「忠太郎ゥ」「兄さん」と言う叫ぶ声が聞こえる。ちきしょう、誰が会ってやるものか。目を閉じれば優しいおっかさんの姿が浮かぶ。どこへ行くのか忠太郎。三度笠を被り、中山道を進むのであった。(講談話)』
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実に悲しい母子物語です。私の父は、海軍軍人の家に生まれています。産んでくれた母親は、家の格に合わないということで、産んだ子を残して離縁されたのです。昔は、よくあった「足入れ婚」の話です。母子分離というのは、その子にとっては悲劇そのものです。私の父は「庶子(しょし)」で、法律上、家督を相続できない子として育てられます。祖父の後添え(父には継母でした)が来て、男の子を産んだことで、私の父には、その継母は、なお厳しく当たったのだそうです。
『俺だけ、お弁当におかずを入れてもらえなかった!』と、母に結婚当初に漏らしたそうです。父だってヤンチャで、言うことを聞かない反抗児だったのかも知れません。継母だって、自分の妻や母親の立場を守りたかったのでしょうし、姑との間に何かあったかも知れません。でも、そう言った不条理な、大人の都合で、母を奪われると言うのは、成長期の子どもの心には、深い傷を負わせたに違いありません。
旧約聖書に出てきます、エフタ同様、父も家を出て県立中学校から、東京の私立中学校に転校しています。きっと父にとっては不本意だったことでしょう。そんな思春期を送らざるを得なかったわけです。強そうに見えた父の内に、隠されてあった、悲哀の原因を感じてならなかったのです。
それでも、その継母が亡くなった時に、なぜか父は、三男の私を連れて、葬儀に出たのです。三人の妹に代わって葬儀を取り仕切るためにでした。父の母違いの弟は、太平洋戦争に出征し、南方で戦死してしまいました。人の思惑など、思い通りにはならないのが現実なのですね。何年か前に、父の末の妹の子、私たちの従兄弟から、私たち兄弟に家財産の相続の話がありました。今更の話で、私は、『要りません!』と言い、二人の兄も弟もそう言ったのです。
講談に出てくる忠太郎だって、父知らず、母親と生き別れて生きていくのに、博徒になる道しかなかったのでしょう。でも三十過ぎて、母恋しで、母を訪ねたわけです。上手に講談師が語る話に、父を重ねて泣けてしまうのです。父にも、きっとグレてしまった、私たちの知らない若い時があって、そして母と出会って、結婚し、四人の子どもの父として、自分の子どもたちは悲しまないようにと、懸命に育て上げてくれたのです。
聖書には、母親との悲哀に満ちた物語があり、その主人公がエフタでした。イスラエルの民を導く士師(王の様な政治や軍事に指導者のことです)とされた一人の人物が出てす。聖書は、「遊女の子」と紹介しています。父親が遊女に産ませた子だったのです。正妻の子たちが成長した時に、彼らからのエフタへのつらい仕打ちが、次の様にありました。
『ギルアデの妻も、男の子たちを産んだ。この妻の子たちが成長したとき、彼らはエフタを追い出して、彼に言った。「あなたはほかの女の子だから、私たちの父の家を受け継いではいけない。」(新改訳聖書 士師記11章2節)』
遊女を母にすることで、そんな仕打ちを受けたエフタは、父ギルアデの家から逃げて出てしまったのです。このエフタは、どんな思いで、生まれ育った家を出たことでしょうか。親に愛されず、邪魔者にされているという経験は、どんなにか辛いことでしょうか。エフタは、自分の誕生を呪ったことでしょうか。また母の背景を恥じたのでしょうか。私の父を産んだ母は、遊女ではありませんでしたが、そんな生業の母親を持つエフタと、私の父が重なって思えてならないのです。イスラエルの国家的危機の時に、エフタは呼び戻されて、「士師(王のような指導者)」となります。
『俺あ、こう上下の瞼を合せ、じいッと考えてりゃあ、逢わねえ昔のおッかさんのおもかげが出てくるんだ――それでいいんだ。逢いたくなったら俺あ、眼をつぶろうよ。』
と言って、物陰に隠れてつぶやく忠太郎も、同じに違いありません。探し求めて、やっと会った生母に拒まれたことは、どんな辛いことだったでしょうか。エフタや父や忠太郎の味わった、親からの拒絶は、親から愛されて育った私には、想像もつきませんが、父の涙で表された深い思いには、父の悲哀を感じないではいられません。
忠太郎は、『ちきしょう!』と言って、母と決別するのです。優しかった頃の母を思い出すことで、どうもできない辛くやるせない気持ちを消化しようとしたのでしょうか。
以前には継母を、呼び捨てにしていたのに、父は、亡くなる少し前には、《さん》付けで継母を呼んで、『タツエさんは、シュウクリームやオムライスを作ってくれたよ。料理上手で、それは美味しかったんだ!』と、父が言っていましたから、弁当のおかずを入れなかった継母のことを語った話は、父のイジケだったかも知れません。
私が聞いた父の思い出話は、恨みや欠けに変えて、感謝を懐かしい思い出のうちに言い表したのでしょう。もう、強い被害者意識がなくなっていたのかも知れません。良い思い出で、自分の過去を帳消しにできたのは、素晴らしいことではないでしょうか。
『俺の腰から聖職者が出るとはなあ!』と、献身する上の兄について、父は母に語ったそうです。それでも、やがて迎える老いていく自分をみてくれる最初の子への期待は大きかったのでしょう。その上の兄は、一流企業であった会社で働いていたのに、辞めて献身してしまったのです。父はしっぺ返しを受けたように、裏切られた様に感じたことでしょう。
ところが、すぐ上の兄が、義姉と一緒に、二親の住む家に帰って来て、父の最後をみ、父の死後に残された母の老後の世話をしたのです。そのような家族の動きの中で、牧師となった上の兄が、「福音」を語って、病床の父を信仰告白に導いたのです。幼い頃に、父親に町の教会に、連れて行かれたことがあって、父は、「福音」を知っていたのでしょう。
そうした何日か後に、父は創造者の元に、そうです慰藉者の懐に帰って逝ったのです。義母を赦し、自分も赦したのでしょう、そんな61年の生涯を送り、ついには望みある永生のいのちの約束の「十字架の福音」を信じ、救われたと、私は信じております。
(ウイキペディアのレンブラントが描いたエレミヤ、Christian clip artsのイラスト、チャイナインランド・ミッションの会報、広重描く木曽の馬場宿、父の生まれた街の市花「ハマユウ」です)
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