粋で繁華な浅草に

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 江戸の昔から昭和に至るまで、東京で一番の繁華街は、浅草でした。北関東や東北や越後などから、華の都会として憧れたのは、新宿でも池袋でも渋谷でもなく、銀座は別格として浅草、そこは食べ物も観劇も、落語や講談や浪曲、活動写真も、花屋敷も、どうしても浅草だったに違いありません。新宿や品川の様に、主要交通網の玄関口ではないのですが、浅草は、強く江戸を感じさせる街でした。

 新宿は、中央線でつながる山梨や長野から、池袋は、西武線沿線の埼玉県から、上野は、東北本線の北関東や越後や東北や常陸や房州から、渋谷や品川は、小田急線や東急線で、神奈川や静岡からの訪問客が多いのかも知れません。北関東の栃木と群馬は、浅草だったのでしょう。よく聞くのは、新宿は信州弁や甲州弁が聞こえ、渋谷は相模弁、池袋は埼玉弁、上野は東北弁や越後弁や茨城弁などが聞こえてくるのだそうです。もちろん茨城も千葉も、東京と繋がっていたわけです。浅草は、全国区だったのでしょう。

 私が、おもに利用している電車は、日光や宇都宮や鬼怒川と浅草を結ぶ東武鉄道で、栃木県人は、その電車に乗って出掛け、一日、浅草周辺で、都会の空気を吸い、美味しいものを食べ、贔屓の劇を観て過ごして、帰ってきたことでしょうか。また県北の宇都宮以北や日光周辺は日光線で宇都宮経由も、旧国鉄の東北本線(今では宇都宮線と呼ぶ様です)で上野に出たのでしょう。

 父が元気な頃からですが、浅草で、「駒形のどぜう鍋(どじょう)」を一緒に食べる口約束があったので、これまで通り過ごしてきた浅草は、東武鉄道で一本の浅草を、どうしても訪ねてみたい街なのです。父は、北関東ではなく、相模の横須賀の出身なのですが、品川や銀座ではなく、青年期には、浅草で過ごした時間が長かった様に思えるのです。明治生まれの世代は、戦後に栄えた新宿や渋谷や池袋ではなかったのでしょう。浅草橋で、父は仕事をしていたこともありました。  

 東京都下の多摩地区に住んでいた子どもの頃に、渋谷に連れ出してもらって、『こんなに美味いものがあるんだ!』と言って、仔牛のシチュウと黒パンを食べさせてもらったり、新宿のコマ劇場に観劇に連れて行ってもらっていましたが、次の父の約束の「浅草行き」は、果たされていないままで、自分には「憧れの浅草」なのです。

 代官山に次男が住んでいた時に、上の娘も一緒に、3人で渋谷に出て、地下鉄で浅草に行ったことがありました。美味しい鰻の店があると言って、連れて行ってもらったのですが、残念なことに、その日は定休日でした。空約束になって、長い時間、順番待ちで並んで、スカイツリーにエレベーターで昇って、なにをたべたか思い出せないまま過ごしただけの一日でした。

 南栗橋で都心につながる乗り換えの急行電車しか乗ったことがありませんので、今度は、人気の浅草行きの特急「スペーシアX」に乗って、「エンコ(明治以降に整備された浅草公園の呼び方でした)漫歩」をしてみたいのです。家内を誘うのですが、まだそこまで力がありませんし、どうも行きたがっていませんので、お預けのままなのです。

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 父の若い頃に流行った歌に、「東京行進曲」がありました。「粋な浅草」と、三番の歌詞の中にあります。また、それ以前に、「東京節(1918(大正7)」があって、その二番は、

♬ 東京で繁華な 浅草は
雷門 仲見世 浅草寺
鳩ボッポ豆売る お婆さん
活動 十二階 花屋敷

すし おこし 牛 天ぷら
なんだとこん畜生で お巡りさん
スリに乞食に カッパライ

ラメチャンタラ ギッチョンチョンで
パイノパイノパイ
パリコト パナナで
フライ フライ フライ 🎶

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 この浅草は、江戸時代以前から繁華街として栄えていたそうです。江戸一の下町情緒、江戸情緒の残る街で、今では外国人観光客で賑わいを見せているそうです。草深い武蔵野の中で、草があまり茂っていなかったため、「浅草」と呼ばれるようになったのだと言われています。

 「東京で繁華」と歌で歌われ、その象徴の様に、浅草と上野とを結んだ、「地下鉄」が東京で初めて運転したのが、昭和2年(1927年)12月30日でした。それはアジア初の「メトロ(地下鉄のことを略称してそう呼んだ様です)」で、銀座線で2.2kmの距離だったのです。父の十代の終わりの頃の開通でした。

 もう6年も住んで、すっかり栃木人化している自分ですので、自分にとっての身近な都会は、この浅草なのです。どうもなかなか行けないのは、次男が、ここ浅草名物、草団子の中に練り込まれた「蓬(よもぎ)」が体に良いからと買って、来るたびに、持って訪ねてくれるのです。

 浅草は、東京一、美味いものが多かったそうです。古川緑波が「浅草を食べ」の中で、こんなことを書き残しています。

『浅草独得(ではないが、そんな気がする)の牛めし、またの名をカメチャブという。屋台でも売っていたが、泉屋のが一番高級で、うまかった。高級といっても、普通が五銭、大丼が十銭、牛のモツを、やたらに、からく煮込んだのを、かけた丼で、熱いのを、フウフウいいながら、かきこむ時は、小さい天国だった。 話は飛んで、戦後の浅草。ところが、僕、これは、あんまり詳しくない。それに、浅草自体が、独得の色を失って、銀座とも新宿ともつかない、いわば、ネオンまばゆく、蛍光灯の明るい街になってしまったので、浅草らしい食いものというのが、なくなってしまった、ということもある。(「ロッパの悲食記」ちくま文庫、筑摩書房)』

 長い時間の経過とともに、この街も大きく変化をしてきているのでしょう。この浅草も「らしくなくなってしまった」街でいいのでしょう。生き物の様に、街が変わっていくのは当然だからです。ただ一人一人の記憶の中に残った、情景を思い返せた都会経験が、ここ栃木県人の「華の浅草」訪問だったに違いありません。

(ウイキペディアの広重の描いた浅草、浅草十二階、セリカ病院から見た隅田川です)

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