いのちの躍動する音が

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 “ monitoring ”とは、観察とか監視をすることを言っていて、主に医療の面で言われれている用語です。先々週の日曜日に、次男が、心電図測定の機能を持った医療用時計(medical watch)を持って来てくれました。細かく使い方を説明してくれて、それ以来、朝夕に測定しています。

 その測定情報は、スマホに自動的に送信され記録されるのです。運動のエネルギーの変化などの測定などの様々な機能が搭載されていていて、一目瞭然です。医院に行って測定しなくとも、心臓の動きがよくわかります。

 手首の脈拍の様子、また手の振り方や回数から、歩行時の運動量もわかるのも、万歩計には比べられない情報を得られるのです。それに、病院のCTやMRI などの検査によって、さまざまな身体の様子を知ることできるのも驚きです。それよりも何よりも、親を気づかう子どもたちの思いが嬉しく、その愛情効果は感動的なのです。

 全速力、全神経で走ることができた頃と比べて、体力も筋肉量を落ちていますが、それを事実として受け入れるのも必要だと思わされています。ちょっと弱音を吐いたのか、「ポンコツ」だと言ったら、『そうなっちゃうからやめて!』と、そうも言われてしまいました。

 もう親子逆転の時節を迎えて、もう苦笑いするしかなくなく、感謝な時が与えられております。歳を重ねたカレブが、族長のヨシュアに、

『今、ご覧のとおり、主がこのことばをモーセに告げられた時からこのかた、イスラエルが荒野を歩いた四十五年間、主は約束されたとおりに、私を生きながらえさせてくださいました。今や私は、きょうでもう八十五歳になります。 しかも、モーセが私を遣わした日のように、今も壮健です。私の今の力は、あの時の力と同様、戦争にも、また日常の出入りにも耐えるのです。(新改訳聖書  ヨシュア14章10~11節)』

と言いました。カレブは、「壮健な八十五の今」を、民族の指導者にアピールしているのです。もう五年ほどで、その年齢に自分もなりますが、彼の確信と告白が羨ましいかぎりです。

『私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。(詩篇90篇10節)』

 そう詩篇の記者は記しています。一番元気だった十七の頃、「誇れる頃」を、はっきりと覚えています。学校から市道や都道に出て、その道路沿いの電信柱ごとに、緩急に、全速度力で走り、そして次には流して走る、それしかを繰り返して走り込んだ日の光景が浮かんでくるのです。

 全国制覇の道を、そんな走りを通して目指した日々です。自分たちの時には果たせませんでしたが、一級下がインター杯と国体とで全国制覇を遂げています。今は川辺を、汗ばむ程度の歩きで散歩していますが、穏やかに身体に過負担なく、咲く花や飛ぶ鳥やトンボを眺めながらなのです。

 生かされいる今への感謝が溢れてきます。休みなく心臓🫀は鼓動し、血流も休みなく体全体をめぐり続けてくれています。生きようとする意思の力ではなく、いのちの付与者の恵みによって、この体や意思が機能しているのです。自分ができるのは生かされていることを認め、そして感謝するだけなのでしょう。

 思い返せば、その十七でイエスを告白し、二十二でバプテスマを受け、二十五で聖霊に満たされて、十字架が分かり、生きる道を見出したのです。一人の妻を得て、四人の子を与えられ、四人の孫がいての今です。たくさんな人と出会い、関わってきました。数限りない出来事が内や外にあって、そしてここに居ます。

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 先日は、散歩帰りに、キャベツやさつまいもやみかんや鰯の丸干し、サランラップなどの買い物をし、夕べは、ビーフンと葛を麺に、牛肉とトマトと胡瓜としめじと卵を錦糸卵にして冷麺を作りました。タレも自家製です。『美味しいわ!」と家内が言ってくれました。47、8年してもらったお返しに、食事当番をして6年になります。お昼は家内の登板なのです。

 そんな平凡で静かな日を送っています。それでも隣り街の教会に呼ばれて、お話をさせていただく時も与えられてもいます。先週は、その教会の牧師さんの奥さまが、季節の栗羊羹を届けてくださり、一緒に知覧茶を飲みながらいただき、談笑の時を持ちました。

 けっこう素敵な時が与えられており、体の中で、いのちが躍動する音がが聞こえてくる様です。秋の盛りに、静かに時もまた過ぎていきます。

(ウイキペディアのサツマイモです)

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