歩いて来た道を

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 歩き始めて、どれほどの距離を歩いて来たでしょうか。今朝も、近くのスーパーマーケットまで、買い物に歩いて行って来ました。家のすぐ近くに、「例幣使街道」がありますが、その道を横切ってです。群馬の倉賀野宿から、中山道を離れて、日光東照宮に至る街道のことです。京の都から、毎年、徳川家康に、「弊(供物)」を捧げるために「例幣使」の一行が通るために、江戸期初めに整備された街道なのです。

 この日光へは、「日光街道」もあって、江戸から共用の東北道を経て宇都宮から分岐して、代々の将軍や藩主、その代理者が、日光詣をするために整備されました。例幣使街道と共に、徳川幕府の威光の象徴の様な街道でした。

 江戸期の主要な街道は、小学校で学んだ、「五街道」で、江戸の日本橋から日本各地を結ぶ、参勤交代、納税、商用、あるいは観光を目的にした幹線の街道でした。東京に出て来て住むために、父が買い求めた家が、甲州街道の旧道の脇にありました。それを知った私は、この道を数限りない武士、商人、農民たちが往来したことを知って、はるかに思うことが多かったのです。

 日本が、国家とし整備されるために、街道整備が行われ、政治目的のために、都と地方を結んで、地方を治めるために、納税、役人の赴任、商用を目的になされたのです。それが「駅制」であって、三十里(当時の尺度で今の16kmです)ごとに「駅」が置かれていました。この駅路(街道)が、後に江戸五街道にも重なっています。「七道駅路(しちどうえきろ)」と呼ばれ、全国を網羅していたのです。

 1964年に東京オリンピック開催されてから、日本の主要幹線道路は、高速道路にとって代わっていて、そこから、国道に降りたり、乗ったりの役割転換が見られます。それでも地方が機能するために、いわゆる国道、都道府県道、市町村道は、大切な役割を担ってきています。

 畿内(大和、山城、摂津、河内、和泉で、現在の奈良県、京都府中南部、大阪府、兵庫県南東部を合わせています)を起点として、東海道、東山道、北陸道、山陽道、山陰道、南海道、西海道を、旧律令制のもとで整備したのです。

 その全国を網羅した駅路の維持や運営を担ったのが、全国で、最も人口比率の高い「農民」たちでした。選ばれた彼らを「駅子」と呼んだようです。駅路には、駅家(江戸期の宿場でしょうか)が置かれ、各駅家を結んで、税(大幣/おおぬき)の荷運びのための馬(駅馬)の飼育をし、その荷を運んだ「駅使」を、駅子は次の駅宿まで運ぶ任務が課せられていたのです。その駅使のための休憩や宿泊や食事の世話もしたのです。

 古代にも官僚制度があって、地方には、「国造(くにのみやつこ)」が任じられ、駅馬は、赴任し移動する中央官庁からの役人を運んだりもしたのです。農民は耕作の他に納税、労役があったのです。歴史の時間に学んだ、租庸調に縛られて、あのじだいからながく、じゅうようなやくわりをは足してきています。でも厚遇はされなかったのです。

 それは、実に重い役割だった様です。中央の税収のために、厳しく制度化されて、その任務が行われていました。江戸の農民の厳しさの走りでもありました。税の使い道が取り沙汰されているいま、当時は声を上げることなどできなかったのでしょう。

 出雲国や常陸国の「風土記(地誌)」などが残されていて、律令制のもとでの地方支配をうかがい知ることができます。とくに「常陸風土記(原本はなく写本が残っています)」には、細かな記録が残っているのです。それは奈良時代後期(AD713年)に編纂されています。この常陸国は、東海道に属していて、今の茨城県の地域です。広大で肥沃な関東平野が広がり、山野の作物を豊富に産出し、水産物の水揚げもあって、豊かな地でしたから、赴任した役人は、その恵みによくしたことでしょう。平安の世には、上総、上野の国も含めて、「親王任国」だった様です。

 栃木市に住み始めた間もない頃に、下野国の国分寺跡や国分尼寺跡を訪ねたことがありました。常陸と上野の国に挟まれて、ここも豊かだったのでしょうか、広大な敷地でした。この地域に遣わされた役人は、畿内からは遠かったのですが、「天下の険」の箱根を越えて、住み始めた地の美味しい物を食す、役得があったことでしょう。

 一度だけでしたが、海水浴に、子どもたちを連れて、この茨城に行ったことがありました。海水浴場のアナウンスで、東北のような茨城訛りを聞いて、真似してみましたが、今住む下野訛りに似ています。奥州(陸奥)の玄関口に、古代の関所跡があって訪ねたりしました。「白河の関」で、福島県境に位置していました。けっこう険しい位置にあったのです。

 この下野国にも、古道が多くあって福島県や新潟県などとは、険しい山道、峠越えがあったっことでしょう。有力な人たちは、京や伊勢にも行ったのでしょうか。同級生の一団が、高下駄を履いて、日本橋から京都の三条大橋までを走破したことがありました。運動部の肝試しでよく行われてきたことで、やってみたかったのですが、誘われませんでした。

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 もう一つ、東京都下に「八王子」があり、一年ほど父の家族で住んだのです。ここに「千人町」があり、将軍のおわす江戸を守る勤務を負う集団がありました。十人の「千人頭(旗本待遇)」の元に、十組ほどあったそうです。この人たちは、火災から東照宮を守る「日光勤番」もかねていました。

 その勤めのために、拝島、川越、佐野などを経て、「例幣使街道」をへて日光に至る道を、「日光往還(おうかん)」と呼びました。こんな特殊な道もあったそうです。弟を可愛がってくださった国鉄線路の踏切番をしていた方は、「千人頭」の子孫だった様です。歴史は興味を呼び起こします。五人組の交代勤務で、この栃木宿で「昼食」を終えて、日光へ草鞋で歩く千人同心の足音が、聞こえてきそうです。

 道の上にも脇にも、たくさんの物語があったのでしょう。泣きながら、笑いながら、様々な感情が行き来したのでしょう。歩いて行きたかったのですが、果たせなかった道もあります。若い頃に、間違って脇道に逸れては、ハラハラさせたのですが、こんな声を聞きました。

『あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから「これが道だ。これに歩め」と言うことばを聞く。(新改訳聖書 イザヤ30章21節)」

 その声を聞いた日から、真っ直ぐに、「これが道」と言われる道を歩み続けて来ることができたのです。右に、左に逸れかかる時に、いつもこのみことばに聞き得たことは、感謝に尽きません。大陸の街の公安への道を歩いた時も、私の傍に、主イエスさまがいてくださったのだと思います。もう少し歩む日々が残されているかも知れません。ただ、主の手に引かれ、導かれて、残りの行程を、一足一足歩みたいと思っております。

(ウイキペディアの広重の甲斐の御坂峠、日光往還図です)

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