人はなぜ生き、どう生きるのか

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 人生で一番基本的で、しかも永遠の“ Thema ”、質問は、「なぜ生きるか?」でしょうか。

  作詞が中山晋平、作曲が吉井勇、唄ったのが松井須磨子の「ゴンドラの唄」は、1915年に発表され、一世を風靡した流行歌の走りでした。

  1. いのち短し恋せよ乙女
    紅き唇褪せぬ間に
    熱き血潮の冷えぬ間に
    明日の月日はないものを
  2. いのち短し恋せよ乙女
    いざ手をとりてかの舟に
    いざ燃ゆる頬を君が頬に
    こヽには誰も来ぬものを
  3. いのち短し恋せよ乙女
    黒髪の色褪せぬ間に
    心のほのほ消えぬ間に
    今日はふたたび来ぬものを

 この歌は、『人の一生は短いので、生きている今を、恋をして精一杯悔いなく生きよ!』、そう「享楽」を勧めているのでしょうか。そう歌った松井須磨子は、二度の離婚をし、夫ある男と道ならぬ恋をして、その男の病死の後、32歳で自死して果ててしまいます。どうも恋やこう言った類の愛は、人生の目的でもゴールでもなさそうです。

 高二で、甥っ子の満男が、「ふうてんの虎」と啖呵を切る、お母さんの兄、おじさんの車寅次郎に、質問をしました。

満男 「伯父さん」
寅  「何だ?」
満男 「人間てさ」
寅  「人間? 人間どうした?」
満男 「人間は何のために生きてんのかな?」
寅  「何だお前、難しいこと聞くなあ、ええ?」
〜寅、しばらく考えるています〜
寅  「うーん、何て言うかな。ほら、ああ、生まれてきてよかったなって思うことが何べんかあるじゃない、ね。そのために人間生きてんじゃねえのか」
満男 「ふーん」
寅  「そのうちお前にもそういう時が来るよ、うん。まあ、がんばれ、なっ」

 何をしたっていい、ただ、きっと何度かある、「生まれてきてよかったなって思うこと」だと、寅さんは答えていました。そんな会話の中に、進路に悩んでいる満男の質問が出てきます。寅さんは、『生まれてきてよかったなって思うことがきっとある、そのために人間が生まれて生きてるのだ!』と人生指南をしているのです。

 そんなことで、自分が高2の時に、どんな思いでいたかを思い出してみたのです。母親が、道路の端でトラックの行くのを行き過ごさせ様として、待っていた時に、その車輪に巻き込まれて、両足に大怪我を負ってしまいました。担ぎ込まれた街の病院での初期処置がまずくて、隣街の地方公務員共済病院に転送されたのです。ひどく化膿してしまい、両足の切断の危機を何度も通りながら、10ヶ月も入院したことがあったのです。

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 入院した病室は、十人もいたでしょうか。〈病室名主〉がいて、入院患者を仕切っていたのです。毎日、父に頼まれて、父特製の「野菜スープ」を持って届けたのです。病室では、水を汲んで母の体を拭く手助けをしていたりでした。

 長く入院していて、見舞いなどない古参の入院患者や名主が、やっかんで母を、集団でイジメにかかるのです。母は、一人っ子で、子どもの頃は、真っ黒になって遊びまわっていた御転婆でしたから、人の悪どい仕打ちなんかに傷つかないのです。辛い経験を通ってきていますから、そんな言動を意に介さなかったのでしょう。何よりも、『汝の敵を愛せ!』を、十代ですでに学んでいたクリスチャンでした。いつの間にか、そのいじめは止んだのです。須磨子の様には、母は生きませんでした。

 甘やかされて、特に、就学前に大病をして、母親に篤く介護をされ、自分は愛されて育ったので、母の大怪我の危機には、けっこう真剣に、起こりうる人生の危機を考えさせられたのです。それまで順調だったのですが、練習を休みがちの私は、インターハイ予選のスタメンから外れ、けっきょく父の助けをしようと、クラブは休部したのです。日本一への野心を、中途で断念せざるを得ませんでした。いろいろなことが起こるのだというのを身につまされて知らされたわけです。

 母の一生を、父のことも考えて、生きるってけっこう厳しいことを学んだのです。教師に恵まれて、助けられて過ごしたせいで、教師になろうと考えたのです。兄たちの様な、会社勤めはしたくなかったので、そう願った様に、教師になる機会がやってきたのです。でも教師の世界、教育の現場も、理想と現実にはギャップがあって、自分が生きるには、この道ではなさそうだと思い始めていました。

 そんな時に信仰上の覚醒でしょうか、アウグスチヌスの様な明確な新生体験をして、伝道者の道が開き始めたのです。この日本では、流行らない生き方でしたが、自分の力ではできない生き方を、教会の主に助けられ、励まされ、先に伝道者になられたみなさんに、また篤信の兄弟姉妹に支えられて、今日に至っております。

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 先日も、隣街の教会の牧師夫人が訪ねてくださり、遠くにいらっしゃるお父さま手作りの「カラスミ」や「黒ニンニク」、ご夫人特製の「おでん」を持ってきてくださったのです。この春には、ご主人とお二人で、思川の河畔に咲く思川桜を観に連れ出してくださったのです。それ以降、時々、娘の様にして手製の差し入れのおかずを持って、訪ねてくださるのです。

 また、同じ教会の姉妹は、先日、お昼に招待してくださって、美味しい手料理で歓待してくださったのです。テーブルの周りに人懐っこいゴールデンレドレバーがいて、まつわりついてきて歓待してくれました。また日光特産の「ゆば」と「おから」、そして高価な「自然薯芋」を、先日も届けてくれました。この方たちは、娘の代役をしてくれている様で、感謝ばかりなのです。

 物だけではなく、心が届いてくる様に感じて、見知らぬ地で出会ったみなさんとの交わりがあって、『生きているっていいなあ!』と思うことしきりなのです。

『また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。(新改訳聖書 IIコリント5章15節)』

 自分の幸せを求めて生きるだけではなく、他者をも顧みる心で生き、自分を生かすために、十字架に死んでくださったイエスさまのために生きる様に、そう生きたパウロが、そう勧めるのです。

 この家を訪ねてくださった隣国の教会の伝道者は、かつて伝道して歩いた村から、病んで街の病院に入院されると、連絡が入るたびに、お弁当や洗濯物を届けたり、送り迎えや見舞いなどをされていました。家内が病んだ時にも不自由を覚えている私たち外国人のためにも、通院のためとか、お医者さんの紹介などをしてくださったのです。

 外国で、伝道者の大会が持たれた時に、この方は、参加者の代表に選ばれ、ビザを取得して上海の空港に行きますと、官憲に拘束されて、出国を許さず、その大会の開催中、この方を監禁したのです。その時に、公安に証を語ったそうです。大会が終わると、無事に街に帰って来られたのです。

 彼は背広など着ませんし、革靴も履きません。神学校を開校し、四十人近い若者を伝道者として養成されていました。ある年に開講式に、そこに参加して、お話をする機会がありました。同胞の救いのために立ち上がった、若いみなさんで、時代の伝道戦線に立たれる準備の始まりでした。

  いろいろ目標を立てたことがありましたが、ほとんど実現せずに、Time over の今です。でも溢れるような感謝で、今を過ごすことができております。どう生きるかを教えてくださったみなさんは、すでに主の御許に帰られておいでです。今度は私の番ですが、走るべき行程を走り切れると感謝して、『生きているって、生かされているっていいなあ!』と、今の時を過ごしております。

(コーヒーの注文中の自分、巴波の流れ、今夏の朝顔です)

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