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2018年の暮れのちょうど今頃でしたが、住んでいた華南の街の北の方に、美しい港町があり、そこを訪ねたのです。その港を見下ろす、ちょうど横須賀を思わす様な小高い丘があって、そこに、小ぢんまりとした養老院がありました。
そのホームに、クリスチャンのみなさんがいて、教会の何人かの姉妹たちとで、お訪ねしたのです。お会いしたみなさんの中に、九十五歳のご婦人がいて、お父さまが牧師さんで、いつも旅をしている人々を泊めては、甲斐甲斐しくお世話をしていたそうです。そんなご両親の奉仕の姿を見て育ったと言っておいででした。そんな背景があって、この姉妹は医学校に行かれて、ずっと医者として、医療に携わってこられたのです。
貧しい旅人に食事を提供し、床を備え、無事を願って送り出していた父母への愛と敬意が、その語ることばにあふれていました。素晴らしく輝いていた老姉妹でした。そこから帰ろうとしていた時に、その部屋においでのご婦人が、200元を、そっと手渡して下さって、『帰りにお昼を召し上がってください!』と言われたのです。年金生活者なのに、訪問を喜んでくださったからでした。
この国が激変する中で、みなさんは、主にある良心を保って、人々に仕えて来られたのです。その訪問で、どんなに励まされたことでしょうか。救い主への愛と隣人への愛に生きて来られた実りを感じさせていただいたのです。
その訪問の後、教会でのクリスマス集会が終わって、家内が体調を崩したのです。無理を押していたのかも知れません。娘の様に、お世話くださった若い姉妹が、『病院に行きましょう!』と、車で迎えに来てくださって、省立医院の新院に出掛けたのです。MRI検査の段階で、より精密なMRIのある本院に行く様に、手続きしてくださったのです。2019年の元旦に、その本院に連れて行っていただいて、診察の後、即入院になりました。
入院中、主治医に、私が呼ばれて本院に行きますと、病状を説明してくださって、『すぐに帰国して、日本の医院で診てもらってください!』と、緊急事態を説明してくださったのです。すぐに飛行機のチケットを予約して、翌朝、車で家内を本院を訪ね、その足で飛行場にお連れいただいたのです。早朝のことでしたが、多くの兄弟姉妹が見送りに来てくださったのです。
普通席の予約を、ビジネス席に、その姉妹が変えてくださっていました。ところが、空港の医師が診察の結果、家内の搭乗を不許可にしたのです。それで、当日便をキャンセルし、翌日便を予約しもらって、家に帰ったのです。ハラハラドキドキの連続でした。その自分たちの家での一泊は、家内には、良かったのです。自分のベッドでゆっくり休めたからです。
翌朝、空港に着きますと、その日の担当医師は、搭乗許可を出してくれ、無事に飛行機に乗れることになったのです。みなさんが、あちこちに連絡してくれて、許可にたどり着いたのです。みなさんに涙ながらに送られて、その涙の意味が家内には、『またすぐに帰ってくるのに?』と意外でした。愛兄姉たちには、家内の病気が厳粛なものだと分かっていたからで、知らなかったのは家内だけでしたのです。
生涯初めてのビジネスクラスに席に座ることができて、成田に着きました。迎えに来てくれた長男の車で、前回お邪魔したことのあった、栃木の友人宅に連れて行ってもらったのです。暖かく迎えてくださって、寝具も洗濯していてくださっていました。翌日、隣町にある獨協医科大学病院に、息子に送ってもらい、総合診療科で診てもらいました。診察の結果、即入院とのことで、アレルギー呼吸器科の病棟に参りました。
若い主治医は肺線ガン、余命半年の診断をされました。そこで治療が始められたのです。私には、省立医院の主治医が、厳粛なガンだということは告げてくれましたが、その入院で、家内には、その旨話しました。長く食べられない状況が続きましたが、あのオブジーボと同じ、免疫力に働きかける阻害剤の「キイトルーダ」の投与が始まったのです。
『今晩が峠なので注意を!』と、主治医が当番の看護師さんに言った言葉が、家内に漏れ聞こえてしまったのですが、死の恐れよりも平安のうちに覚悟ができたのだそうです。そんな思いで朝を迎えたのです。それから、抗がん剤治療の併用も勧められましたが、家内も、子どもたちも反対していました。それで主治医と何度か、子どもたちを交えて話し合いをしたのです。結局使われずに、入院4ヶ月で、退院になったのです。
もうターミナルケアー病院への転院だ残されていました。栃木の家から、息子の送り迎えで通院して、キイトルーダーの点滴治療が続けられていったのです。その内に、癌の部分がだんだん小さくなっていくではありませんか。最終の緩和治療の予定が反故になって、転院をしないですんだのです。
医師との話し合いで、キイトルーダの点滴を40回でやめたのです。それ以降は、血液、尿、レントゲン、さらにはCT、MRI、ペット検査などが行われていきましたが、転移もなく、ガンの部分が活躍していない状況になって、そのままの状態が続いたのです。そして、今では、3ヶ月ごとの通院で、検査だけを継続することになって、今日に至っています。
入院初期に、下の息子の勧めで、主治医の了解のもとで、CBDオイルを飲み続けて、先日、定期配達をやめたのです。後遺症はあって、体重がまだ以前の状態には戻っていないのです。それで体重が増加するように、また体質が改善し、体力をつく様にと、また、痒みの改善のために、漢方の専門医の診察を、県立の別の病院で、月に一度の通院で受け続けています。
この6年、いつ召されるか分からない家内のまさかを考えて、夜中の就寝中の家内の様子を、起きては見続けてきていましたが、今はやめてしまいました。主にお任せの今です。これまで、一緒に主に仕えさせていただいて、いろいろな出来事を経験した年月でした。生死の境を通る様な病になってみなければ、また主治医に、明日の朝までとの余命宣言をされる様なことがないなら、病む人が感じていることなど理解できなかったに違いありません。病むことのなかった家内が、病者の痛さや不安を、味わったのです。
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今や選手交代で、自分の番になった様です。心房細動という聞いたことのなかった心臓の不調を覚えている今なのです。近所にお住まいで、ほぼ同世代のご夫婦がおいでで、奧さまと家内に交わりができ、家の行き来で、互いに家に呼びあう交わりが与えられたのです。そのご主人が、同じ病状で、3ヶ月前に、カテーテル・アブレーションという治療を受けられ、その退院された数日後に、家に私たちを呼んでくださって、その様子の報告会をしてくださったのです。お茶やお菓子や果物で歓待してくれてでした。
先日、その術後3ヶ月の診察に行かれ、結果を知らせてくれたのです。この方の篤い友情に感謝している今なのです。月末に入院して、自分も、今週、同じ治療を受けることになっています。次女の家族が来てくれて、留守の家内の世話をしてくれる様です。先週、前の教会で一緒に礼拝を守ったご夫妻から、シクラメンが送られて来ました。そんなことで、入院と手術の心の準備中の今なのです。
さて昨日は、私の八十の誕生日でした。何度も死にかけてきた年月でした。二親の慈愛、母の祈りと介護により、結婚後は家内からの激励、祈りの年月があり、こんなに生きるとは思いませんでしたのに、命の付与者なる神さまの守りがあって、生きることができました。ただその憐れみに感謝したのです。
家内がお昼に、市内のレストランでお祝い会を開いてくれました。夕べには、次女家族が、祝福二次会を開いてくれ、ケーキ、ギフト、次女夫妻と同行の二人の孫たちからお祝いカードをもらいました。また家内の散歩友だちからは、豪華なイチゴとみかんと、好物の鮭の切り身が届きました。孫たちは、マッサージまでしてくれ、長男、長女、次男からは、祝福のメッセージが届いています。最後に、婿殿から、『どんなことが、この年月にありましたか?』と問われたのです。
戦時下の12月17日、早朝4時45分に生まれたこと、村長夫人が産婆をしてくれたこと。物資のない中を二親が育ててくれたこと。就学前に、肺炎で死にかけた自分を、二親の深い愛で守られたこと。二人の兄と、一人の弟が与えられ、素晴らし佳人、妻を与えられ、四人の子どもが生まれたこと。この四人に、素敵な婿と嫁が与えられ、四人の孫が与えられたこと。さら良き” mentor “ や友人が与えられたこと。これら全てのことは、創造者なる神さまからの備え、贈り物だったこと。『生かされたこと!』の感謝の一言に尽きます。
好きなものの[ジェームス・ディーン]、[ジャズ]、[きんつば]の3点セットの答えが、孫たちに大受けした一日でした。[きんつば]は、父の好物で、これは言いませんで、そう答えたのです。滅びても当然な自分を、赦してくださって、この永遠のいのちに預からせてくださった、父なる神への感謝に併せて、『生かされたこと!』の感謝の一言に尽きます。
(朝ぼらけ、ウイキペディアの生まれた付近の山からの遠望です)
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