作詞が佐伯孝夫、作曲が灰田有紀彦、歌は灰田勝彦で、灰田兄弟は父と同世代人でした。この「鈴懸の径(みち)」は、上の兄に教わった、ハワイアンのリズムでした。鈴懸は、プラタナスのことです。
🎶 友と語らん 鈴懸の径
通いなれたる 学校(まなびや)の街
やさしの小鈴 葉かげに鳴れば
夢はかえるよ 鈴懸の径
熱き想いを 心にこめて
澄んだひとみは 青空映す
窓辺の花に ほほを寄せれば
夢はかえるよ 鈴懸の径
月日は移り 想い出だけが
今も浮かぶよ 別れた友の
若き日の唄 風に乗せれば
夢はかえるよ 🎵
多くの息子たち、多くのお父さんたちが戦場に駆り出されて行く中、戦時中、1942年(昭和17年)の9月に、発表された歌でした。軍歌一色、国威を発揚する歌が溢れる中で、このような歌が作られ、歌われたのは、驚きです。この歌は、元々Jazz調ではなかったのですが、歌詞の内容が軟弱だったので、官憲から目くじらを立てられたのです。
それでも、太平洋戦争時、特別攻撃隊の隊員たちに大変好まれて歌われた「愛唱歌」だったそうで、突撃のために待機中の隊員たちが、「ふるさと」と共に、この「鈴懸の径」を、毎夜歌ったのだそうです。この小径は、池袋にある立教大学のキャンパスの中にあって、池袋界隈の名所の一つになっています。
元特攻隊員で、突撃せずに終戦を迎え、平和な時代を生きた人たちが、こんなことを書き記していました。戦時下、おもに特攻機で死んだことが、「無駄死に」と言う風潮の中で、『そうではなかった!』と言って、その死に意味を加えたのです。『祖国の平和のために、全てを投げ打って、彼らは夢も理想も、命も青春も捧げたのです!』とです。
「日本戦没学生の手記」が、昭和24年に刊行されています。学徒出陣したまま、戦場で亡くなった人、戦禍を生き延びたみなさんの手記をまとめた本でした。
戦場に駆り出されて、お父さんを亡くした級友たちが、クラスの中に何人もいました。高校の時の級友の家に泊めてもらった時、布団を敷いてくれた部屋に、軍帽を被り、軍服姿のお父さんの写真が掲げてありました。それまでお母さんとはお会いして、話をしたことがありましたが、お父さんを語ることはなかった彼が、戦争でお父さんを亡くしていたのを、そこで初めて知ったのです。
オリンピックの馬術の競技に、補欠として参加したほどの腕の持ち主で、大陸を転戦し、敗戦後も在留して大陸で没したお父さんがいて、家に残していた軍帽を被って、九州の温泉町で、チャンバラごっこをして遊んだと、級友が話してくれました。その他にも、同世代人は、父無し子たちが、どのクラスにもいたのです。
生き残った方々も、戦死された方々も、平和の時代の今では考えられないような現実を過ごしたわけです。そしてその世代の次の世代、私たちの次の次の世代、孫の世代が、再び戦場に駆り立たされるような時代になりつつあるのではないでしょうか。
『また、戦争のことや戦争のうわさを聞いても、あわててはいけません。それは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。 民族は民族に、国は国に対して立ち上がり、方々に地震があり、ききんも起こるはずだからです。これらのことは、産みの苦しみの初めです。(新改訳聖書 マルコ伝13章7-8節)』
第二次世界大戦後、以前の「国際連盟」が、「国際連合」として、世界平和を願って再組織されたわけですが、この戦後の80年、地域紛争、国対国の戦争が起こり続け、平和だったとは言えま、せん。さらに第三次世界大戦が起こりかねない、国際情勢になっている様な感じが強くなってきています。
友と、出会いや家族や、これからの時代を、喫茶店ではなく、ネットを介して語ることが、今ではあります。この時代を生きる「澄んだひとみ」の若者たちの前に、どんな事態が、今後展開していくことでしょうか。
(ウイキペディアのプラタナスの花、世界地図です)
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