三島通庸の功罪について

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♬ 花は霧島 煙草は国分
燃えて上がるは オハラハー 桜島
(ハ ヨイヨイヨイヤサット)

🎶 雨の降らんのに 草牟田川濁る
伊敷原良の オハラハー 化粧の水
(ハ ヨイヨイヨーイヤサット)

見えた見えたよ 松原越しに
丸に十の字 オハラハー 帆が見えた
(ハ ヨイヨイヨイヤサット)

さつま西郷どんは 世界の偉人
国のためなら オハラハー死ねと言うた
(ハ ヨイヨイヨイヤサット)

桜島には霞がかかる
私しゃおはんに オハラハー 気にかかる
(ハ ヨイヨイヨイヤサット) ♬

 これは有名な鹿児島小原節です。この鹿児島は、一度訪ねたことがありました。桜島とおはら節と西郷どんは三大名物でしょうか。島津藩の街で、長州と共に、幕末から明治にかけた日本の大きなうねりの中で、中心的な役割を演じています。多くの人材を生み出していますが、その中に三島通庸(みちつね)がいて、少なからず栃木と関わりがありました。

 この三島は、1835年(天保6年)、薩摩藩の下級武士の子として生まれています。やはり賢かったのでしょう、大久保利通の高い評価を得て、中央政府に呼ばれました。最後は警視庁の警視総監を務めています。

 薩摩藩は、長州藩と双璧で、明治維新を推し進めた人材を多く出しています。その薩摩藩の西郷隆盛と会談をした勝海舟が、江戸を戦乱から守る立役者でもありました。明治新政府が誕生した時、無傷の江戸に、天皇を迎えて、大東京が誕生していきます。

 三島は、県令(知事です)として、山形、福島、そして栃木で、おもに土木事業を推し進めて貢献しました。栃木では、未開拓の荒地に、那須疏水、水路を引いて、農地を開拓し、主に牧畜業に貢献しています。自らも、那須の地に農場を経営しています。維新政府の重鎮は、栃木県下に、農場や別荘を持ったのです。

 昨年、長女が訪ねてくれた時に、那須に参りました。初めて那須の地に立って、明治の新日本建設のお膳立てをした長州人材が、那須に別荘を設け、農場を持ち、開拓を主導したのは、大きな貢献だと思ったのです。戦後、多くの農業青年を集めた山梨県の清里と同じ様なImpactを与えられたのです。その時は、ポール・ラッシュの果たした貢献は大きかったのです。そこにあった清泉寮のsoft creamを口にした時と似た、感慨が那須の地にあったのです。

 さて、栃木県が、宇都宮県ではなく栃木県とされたことに、いくつかの背景がありました。通常、県都にある町の名が、県名になることがほとんどの中、やはり栃木は異例だったことになります。同時期に、板垣退助が掲げた自由民権運動が全国的な広がりを見せる中、その運動が盛んだったのが、栃木市でした。

 明治維新が発生させた一つのことは、士族の維新政府への不平不満でした。その反乱士族を抑え込んだのが、この三島でした。栃木市は、その運動が盛んであって、三島は、そういった強い思いがあって、県都を移動させた様です。
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 明治維新政府が、「廃藩置県」を掲げ、藩が県になっていきます。当初、栃木県の県都、県庁所在地は栃木市とされました。ところが、1884(明治17)年1月21日、政府官報により、栃木町から宇都宮町への栃木県庁移転が布告されてしまうのです。その立役者となったのが、3代県令の三島通庸でした。

 政治的剛腕で知られた三島通庸は、県令になって3ヶ月で、栃木県庁を、栃木から宇都宮を移転させてしまいます。その後押しをしたのが、宇都宮の豪商たちの拠出金があったからだと言われています。

 力関係、経済的な理由、人的な問題が、やはり複雑にあった時代、少々強引な行政が行われたのは、ここ栃木県だけではなく、全国的にそうだったのでしょう。職安などなかった明治の御代、武士は失職して、大変な時を迎えていたのです。商人、教師、警官、兵士などになっていった様です。

 大きな政治的な変化のあった時代、この日本の土台が据えられていきます。様々な動機があって、それが日本を動かしました。その一人が、三島通庸だったのです。那須野が原開拓は、特記すべき業績でしょうか。人を、よくもてなした人で、家族や使用人以外にも食客を多く抱え、食堂には長机を並べて家族や親戚、知人が集めて食事を一緒にしていた、苦労人だったのです。

(ウイキペディアの広重の桜島、那須疏水です)

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