ニンジン

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 1950年代の東京都下、久留米村に、自由学園、クリスチャン・アメリカンアカデミー、旧中島飛行機製作所などの近くに、職員住宅があったそうで、その周辺から通学していた家内は、毎朝、近所の子どもたちを連れていった様です。今の集団登校の走りでしょうか。西武池袋線の沿線で、農村だった様です。今は、福岡県の久留米市と混同しない様に、東をつけて東久留米市になっています。

 村立小学校は遠かったそうで、最寄りの駅から、池袋寄りの町の小学校に、電車通学を一緒にしていた様です。学校から帰ると、その子たちを誘って、日が暮れるまで外遊びをしたそうです。その後の、近所の人たちの消息を聞いて、何か謎が解けたのだそうです。家内の家族は、仕事の関係と、敬愛した宣教師の始めた教会に集うために、他の街に引っ越していたのです。

 その時、一緒に登校していた一年生だったけい子ちゃんが、先週、70年ぶりに、訪ねて来たのです。私立の中学から短大に進んで、卒業後に、ドイツ系の会社で働いたそうです。結婚して、お二人のお嬢さんがいて、今は、ご病気で入院中のご主人をお持ちですが、電車を乗り継いでおいでになったのです。

 「積もる話」が、満載で、思い出話に花が咲いて、途切れることがない二人を、交互に眺めて、こういった再会のできる家内が、実に羨ましく思ったのです。ご両親のことお爺さんのこと、近所の方々のこと、あの頃のこと、その後のこと、元気だったご主人とのこと、お嬢さんたちにきと、一気に話されていました。

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 幼い日に、そんな出会いと関わりとがあって、何十年もたっての再会は、そうあることではなさそうです。戦争が終わって、平和な時代になって、日本宣教のためにやって来られた宣教師のみなさんのこと、義母が、その宣教師のみなさんに、『ございます。』調の丁寧な日本語を教えたのです。ある宣教師さんは、習いたてで、『ワタシハニンゲンヲナマデタベマス!』と言って、聞く人を驚かせたのは、「人参🥕」だったことなど、面白おかしく話されていました。

 私たちの家族は、よく引越しをしたので、そういった機会はありませんでした。自分だけ地元の中学校ではなく、電車通学で、別の学校に行きましたたので、なおのことそんな機会はなかったのです。その代わり、ずいぶん広い範囲に級友ができたのは感謝でした。

 会うは別れの初めなのでしょうか。その反対に、再会があるのも人生の妙味の様です。様々な理由で没交渉になってしまった何人もの旧友に、もう一度会いたい思いが、家内を訪ねて来られたけい子ちゃんの訪問で、湧き上がってきました。

 と言いいますか、『もう一度会っておきたい!』と言う思いがあるのです。《天国での再会》に、驚くほどの期待感が溢れているからです。そのために、話しておきたいことがあるのです。

(ウイキペディアの西武池袋線車両」、 “ いらすとや ” の人参です)

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異邦人

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『また異邦人も、あわれみのゆえに、神をあがめるようになるためです。こう書かれているとおりです。「それゆえ、私は異邦人の中で、あなたをほめたたえ、あなたの御名をほめ歌おう。」 また、こうも言われています。「異邦人よ。主の民とともに喜べ。」 さらにまた、「すべての異邦人よ。主をほめよ。もろもろの国民よ。主をたたえよ。」 さらにまた、イザヤがこう言っています。「エッサイの根が起こる。異邦人を治めるために立ち上がる方である。異邦人はこの方に望みをかける。」 どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。(ローマ15章9~13節)』

 聖書で、パウロは、旧約聖書を引用して、神に選びの民、イスラエル以外の諸国民、「異邦人」に向けて、こう言うのです。神なき民の子孫の私たちに、「この方に望みをかけ」る様に勧めています。

 久保田早紀が歌った「異邦人」の歌詞では、「シルクロード」をイメージして、アラブ世界の様子を漂わせた意味で歌われたのですが、それとはちがって、イスラエル人、ユダヤ人以外の人を意味して、パウロは、「異邦人」と言います。

 パウロが、イスラエル人である、民族的な優越感によって、蔑(げす)んで、そう言うのではありません。太陽や月や星や、鋳たり刻んだりした像に向かって、『神よ!』と呼び続けてきた、異教世界の人たちに向け言うのです。

 若かった時に、住んでいた町の一廓に神社がありました。人通りがありませんでした。その神殿に祀られている御神体と言われるものが何か見たくなったのです。それで、辺りを見回して、人のいないのを確かめて、その祠の部分を開けたのです。何があったとお思いでしょうか、「石ころ」でした。宝石でもなんでもなく、道端で見かける様な小石でした。

 それは、どう見ても、御神体にふさわしくありませんでした。ある部落に、神社がなかったのだそうです。それで、みんなでお金を出し合って、神社を創建したのです。建物はできたのですが、御神体がありません。そこで、何を神にするかを協議したそうです。それで意見が一致したのは、村の脇に流れる、川に行って、朝一に流れてくる物を御神体にしようと決めて、代表者たちが、身を清めてでしょうか、川に出かけたのです。

 何と流れてきたのは、「草鞋(わらじ)」、しかも、使えなくなって捨てたとしか思えない様な物でした。でも、取り決めたことでしたから、その草鞋を持ち帰って、神殿に納めたのだそうです。 

 草鞋に、藁をないで、作った作り手がいるのですから、そんな作業をした人を造られた神がいるに違いありません。このパウロは、

『それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。(ローマ1章25節)』

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と言っている通りです。群馬県人だった内村鑑三という人は、子どもの頃から、道を歩いて、神社仏閣の前を通る時に、必ず立ち止まって、習慣的に拝礼をしていたのだそうです。ところが札幌の農学校で学び始めた時に、同級生の新渡戸稲造らが、イエスをキリストと信じたことをきっかけに、彼らに勧められて、彼もまた信仰を告白して、クリスチャンになったのです。ただお一人の神を信じ、この神に仕えて生きたのです。

 私は、クリスチャンの母に育てられ、母の生き方、あり方を見続けて、教会学校に連れて行かれ、自分の周りに神と称されるものがあっても、神とは認められませんでした。母が信じ続けてきた、聖書の神こそが、神だと思っていたからです。

 やがて、その母の信仰を継承して、クリスチャンとされました。聖書に記される神こそが神であると、八十路の今に至るまで、「望みある者」として信じ続けてまいりました。それは、ただに神さまの憐れみによる以外の何ものでもありません。今朝も、目には見えない神をほめたたえていられるのです。

(ウイキペディアの「アラビヤの隊商」、群馬の「赤城山」です)

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