台湾と日本との深い関わりが

.

.

 「台湾」に、国立嘉義大学があります。この大学の前進は、嘉義農林という旧制の実業学校でした。甲子園で行われ続けている、全国高校野球選手権は、かつて旧制の中学校の大会で、台湾や満州からも、都道府県の代表に加えられて予選が行われていたのです。日本統治の時に建学されたのが、この嘉義農林学校でした。この学校が台湾代表で、1931年の第17回大会に、甲子園に出場し、決勝まで進み、中京商業に敗れて準優勝したのです。

 この嘉義農林学校の野球部を、指導したのが、簿記を教えていた近藤兵太郎でした。近藤は、松山商業学校で野球部を指導していた監督でした。台湾の原住民の山地族(高砂族)、漢民族、そして日本人の学生の混成チームでした。近藤の他に、台湾に、大きく関わった人に、後藤新平、新渡戸稲造、八田與一を上げることができるでしょうか。
.
.

 後藤新平は、仙台藩の水沢城の城下町で、武家の家に生まれています。17歳で医学を学びます。自由民権運動の板垣退助が、暴漢に襲われた折に、新平は、その治療にあたったのです。その優れた所作に、板垣は、政治の世界で活躍することができる能力を、新平の内に感じた様です。後にドイツの医学校に留学をし、博士号を取得しますが、医者になる道にではなく、病院経営に手腕を働かせていきます。

 さらに明治政府の内務省衛生局長に抜擢され、台湾の統治が行われていく内に、 1898〜1906年まで、第3代台湾総督府民政長官として務めています。台湾の可能性を調査し、台湾の実情にあった施作を行なったのです。その働きのために、新渡戸稲造を招聘しています。新渡戸は、「拓殖計画」を推進し、おもに砂糖きびやさつま芋の栽培や改良を促進させ、製糖事業を起こす施作を推進しています。

 米作りにも手を広げていきます。まず水路建設で、灌漑事業を進展させていくのです。八田與一は、台南の台湾最大の嘉南平野に水を引きました。烏山に、ダム建設をし、その水路を流れる水は、嘉南平野を穀倉地帯へと変えていくのです。

 私は、一度台湾(本島)を訪ねたことがありました。台北から高雄まで、台湾新幹線に乗り継いで、1週間ほど街から街へと、兄と一緒に教会を訪ねたのです。台北の教会の牧師さんの奥さまが、「ビーフン(米粉)」を作ってくださったのですが、あの味は、三十数年も経つのですが、今でも忘れられない味覚でした。

 台中の教会の信者さんは、お茶に誘ってくださったことがありました。アメリカや日本に輸出する衣料会社の経営者でした。日本統治時代の思い出話を懐かしそうに話してくださったのです。『あの頃は、玄関に鍵などかけなくても、巡査が警らしてくれて、守ってくれていたのです!』と、目を細めて話してくれました。そのおかげで、美味しい台湾料理に預かることができ、歓待されたのです。

 家内を誘って、もう一度訪ねたいと思ったままの今です。親日家が多くおいでの国なのです。人は優しく、食べ物が美味しく、高雄の教会では、集会が終わった後に、屋台村に誘われたりの歓待を受けたのです。かつて、台北の基隆の港から、さとうやバナナが輸出されて、おもに日本の門司港に送られていました。

.

.

 台湾の総統をされた蒋介石は、日本の士官学校に学んだ方でした。台湾のみなさんは、この方への敬慕の思いが強烈でした。奥さまの宋美齢は、大陸の上海で生まれておられ、アメリカに留学して学んだ夫人でした。クリスチャンホームに育った方で、立派な信仰をお持ちだったのです。

 この台湾は、中華人民共和国の地図では、「台湾省」とされていて、厦門(アモイ)から1時間ほどの金門島も、台湾ですが、船に乗るためには、出国審査と入国審査をしなければ上陸できませんでした。極めて微妙な立場にありますが、武力攻勢になるのか、どうしても祈りが必要の様です。

 小さな島ですが、上陸しますと、台湾ですから、ガラリと雰囲気が違うのです。そこには、「自由」があり、中国にあるようなピンと張りつめたものがないのです。バスを乗り逃がして、困っていた私たちに目を向けて、車を私たちの前に止めて、どこに行くのかを聞いてくれるではありませんか。『厦門に帰るのです!』と言いましたら、車で送ってくださったのです。日本旅行から帰ってきたばかりだとも、車の中で言っていました。

 その親切に、もうずいぶん前に、台湾本島を訪ねたことなど話したりしました。私にとっては、素晴らしい思い出の国だと言いましたら、そのカップルは喜んでくださったのです。台湾有事に、最善がなされるようにと祈る今です。そう言えば、「土瓶蒸し」と言う日本料理を、その台湾で初めて食べたので、もう一度食べてみたいと思っております。

(ウイキペディアの台湾全図、嘉義農林野球部、ダム、今の基隆港です)

.