様々な衝突を超えての今が

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 「衝突」、アメリカ空軍の基地が、隣街にあって、その最寄りの駅の近くのお菓子屋さんには、アメリカ製の菓子を売っていたのです。チョコレート、干し葡萄、ガムなどです。餡パンや煎餅や饅頭や団子といった、純日本風のお菓子と、アメリカ製のクッキーは、この街で衝突していました。

 アメリカ兵の移動のために、汽車が走っていた時代、日本の電車運行の間を、その列車が走っていましたので、家の近くの電車の引き込み線では、その列車が待機していたことがありました。アメリカ兵は、物珍しくその電車に近づいて来た子どもたちに、電車の窓やデッキから、菓子を投げていました。それを拾おうと競争する日本の子どもたちを眺めで、大喜びして、笑いながらそれを投げていたのです。戦勝国と敗戦国との衝突の光景でした。

 占領軍の優位性の中で、非占領国の子どもたちは、菓子拾いに狂奔していました。大人も混じっていたのです。そんな子どもの頃の恥ずかしい経験が、自我が芽生えると、思い出されて、自分の心の中に、反米的な日本主義が、まるでブクブクと音がする様に芽生えて来て、過去と今が、自分の内で衝突していたのです。そんな時代を、私も通過しました。

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 一方では、母の少女期には、仲良しの級友に誘われて、カナダ人宣教師が始めた、教会学校に行く様になったそうです。そんな中で、母の心の内で、人生の中で信仰が芽生えたのです。兄弟姉妹のいない一人っ子の母は、教会の中に見られた、その家族の温かさの中で、父なし子の自分とカナダ人の父母に愛されている子の関わりの中で、母の心の中で衝突があったのでしょう。彼らが語り見せた聖書の神が、「父なる神」、お父さんだと言うことを知ったのが、母の心に宿った信仰の切っ掛けだったのです。

 日本の暦では、「神無月」と言われる十月には、母の生まれ育った山陰の出雲には、神々が、全国から集まると言われるほど、宗教的な街で、文化も宗教も衝突していたのでしょう。日本の神々ではない、カナダ人の宣教師さんが伝えた、天地の創造主、その父の御子のイエスさまの十字架を、母は信じたのです。

 山陰は、神々が参集するだけではなく、浄土真宗の盛んな地でもあったのですが、大陸伝来、祖先伝来の宗教ではなく、聖書の語る父なる神を、14歳で信じたのです。そういった意味では、母の内では、神道や仏教とキリストの教えとの衝突を超えて、世界と自分の造り主を、素直に信じ得たのでしょう。

 母の内に宿った信仰と、日本の文化の衝突があったのですが、そんな母の手に引かれて、教会に通った私の子ども時代、大人になる途上で、母を捉えた十字架のメッセージに、素直に耳を傾ける様になり、やがて、この心で信じ、口で告白して、イエスが救い主であることを信じられたのです。母は、子どもたちを祈りにあって育ててくれました。拳骨親父と優しくかばってくれた母の思いとが我が家で衝突し、また一対となって、4人を育ててくれたのです。

 自分の信仰を、4人の子どもたちに、母は強要することはありませんでした。神に向かって祈り、聖書を開いて読み、礼拝や集会や祈り会を守り、キリストがイエスさまであることを、近所のみなさんに証しし、信ずる者の姿を見せていたのです。

 真性の日本男児になろうと、私は思っていましたが、文化や宗教的な衝突は、わが家にはありませんでした。父は、母の信仰を認め、家で、宣教師さんを迎えて、家庭集会を開くことを許したのです。その父も、子どもの頃、父親に連れられて、横須賀の街のキリスト教会に連れて行かれていたり、満州時代の知人の始めた教会にも、戦後、出入りしていた様です。亡くなる少し前に、上の兄の勧めで、イエスをキリストと心の中で信じ、口で告白して信じたのです。

 様々な衝突を超えて、今の自分があります。主がおいでになる日が近い様に感じられます。この時代と神の時、この世と神の国との衝突の声や音や光が、世界のあちらこちらから聞こえたり、見えたりしてきています。更なる衝突が起こる時代になっているのでしょうか。「福音」、神のよき訪れの使信のことばは、その衝突を超え、納めて、人を、民族を、国を変える力を、今も持っているのです。

(ウイキペディアの車時の衝突、太平洋戦争時の日米の衝突の様子です)

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