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身長や体重は、新学年には、決まって測定がされていました。中学生の頃は、毎年10cm以上も背が伸びていました。高校2年の身長の測定が173cm、体重が52kgだった様に覚えています。先日、アブレーション手術で大学病院に入院した時の測定は、169cm、68kgでした。それに加え、もう何年も前からは、血圧測定もする様になって、内科医の通院日には、血液や尿も測定される様になっています。
健康の度合いとして、体温、血圧、血液や尿検査が行われ、最近では血糖値も測定されるのです。これって、「健康異常度」を測っていることなのでしょうか。若い頃は、たまに風邪を軽くひくくらいで、おおかたは健康自慢だったのです。
在華生活の中で、脂分の多い食事を時々ご馳走になっていました。帰国時には、父を懐かしく思ったのか、その好物だった「きんつば」が、自分の好物になってしまったのです。帰国後は、悪いことに、明治初年の創業の和菓子屋さんが近所にあって、かりん糖やきんつばを買いに行って食べる機会が多くなっていったのです。
案の定、そんなことで血圧が高くなって、血糖値も心配になって、糖尿病になる危険性を、内科医に言われてしまいました。74歳になって、降圧薬を飲む様になったのです。それから、不整脈、脳梗塞、心房細動と、一気に入院、治療、手術と進んでいきました。
油断禁物、父がくも膜下出血の治療を経て、六十一で脳溢血で亡くなっています。注意をしながら生きたつもりですが、油断や、怖さ知らずで、不注意があったのでしょうか、心疾患を患う様になっての今なのです。
今日も、市の中心部から北の方にある、総合運動公園まで散歩に参りました。道々の家々の庭先や、川辺を歩きながら、小川の流れや、小藪や花壇に目をやったりして、スマホを取り出して、写真を撮ったりしながら、公園のベンチに座ったり、ブランコを漕いだりしているのです。
歳相応の今なのですが、そんな加齢で言い訳などをしないで、健康管理をしなければいけないなと、自分に言い聞かせている、今なのです。父よりも20年近く多い年月を生きてきて、聖書が言う、
『 私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。(新改訳聖書 詩篇90篇10節)』
の年齢に達して、「飛び去る」年月を、ひしと感じながら、もうどれほどの年月が、自分に残されているのか、思うことが多くなってしまいました。この年月を思い返して、「健康度」から思いを離して、こんどは、自分の「幸福度」を測ってみたいのです。
『わたしが彼らから離れず、彼らを幸福にするため、彼らととこしえの契約を結ぶ。わたしは、彼らがわたしから去らないようにわたしに対する恐れを彼らの心に与える。 わたしは彼らを幸福にして、彼らをわたしの喜びとし、真実をもって、心を尽くし思いを尽くして、彼らをこの国に植えよう。」 まことに、主はこう仰せられる。「わたしがこの大きなわざわいをみな、この民にもたらしたように、わたしが彼らに語っている幸福もみな、わたしが彼らにもたらす。(エレミヤ32章40~42節)』
人の願う「幸福」、どれほど幸福かの「幸福度」とは、どんなことなのでしょうか。世界的に比較してみると、日本人の「幸福度」は、だいぶ低い様です。ことのほか若年層の子どもや若者の幸福度が低いことが、大きな問題とされています。“ UNICEF(United Nations Children’s Fund/ユニセフ 国際連合児童基金)”の最近の報告によりますと、「精神的幸福度」が、世界の中で下から二番目ほどに低いのだそうです。
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この幸福度は、①精神的(生活満足度が高い子どもの割合や自殺率)、②身体的(死亡率、過体重・肥満の子どもの割合)、③スキル(skill 読解力・数学分野の学力・社会的スキル)で測っている様でです。この調査によりますと、日本人の子供は、身体的健康度は、抜群に良く、世界一位でした。ところが、精神的幸福度は、極端に低いのです。このギャップこそが問題です。
『力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。(箴言4章23節)』
厚労省によりますと、去年(2023年)1年間に自殺した人は全体で2万268人と過去最少の水準となった一方で、児童・生徒は527人にのぼり、これまでで最も多くなっている様です。これは由々しき問題です。とりわけ問題なのは、中学生と、女子高校生の自死者が増加していることです。
その原因や動機を、年代別に見ますと19歳以下は複数回答でみますと、①学業不振や進路に関する悩みなどの学校問題が349件 ②うつ病などの健康問題が284件 ③親子関係の不和など家庭問題が148件でした。どうみても、日本人、とりわけ明日の日本を担う若年層の心の問題は重大なのです。
『あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。(伝道者12章1節)』
自分が、偶然生まれたのでも、突然生まれたのでもありません。神こそが人の創造者だと言うことを知るなら、人生の意味や使命を知ることができます。このことを認めないと、人は自らの命を絶ってしまうのでしょうか。
ここに一つの良き事例があります。明治の初めに、アメリカから、一人の教育者として招聘し、設立された札幌農学校の校務と教育に当たらせました。そこで多くの若者が、その教頭の任にあったクラークの薫陶と勧めで、この創造者なる神と出会って、生きる意味を知らされたのです。その若者たちが、やがて教育の分野で、若者を育てる務めに就きました。また日本の近代化のために、多くの分野に生涯を費やしたのです。この教育者の系譜の中で、キリスト信仰を継承して、教師となられた方に、私も教えを受けたことがありました。
先頃、拓殖大学の佐藤一磨教授(幸福の経済学)は、こう言っていました。『国連が毎年発表する「世界幸福度報告書」によると、幸福の75%は「信頼感」をはじめ「堅調な経済成長」「健康寿命」「良好な人間関係」「寛容さ」「自分に適した生き方をする自由」の6つの要因で決まるとされています。』とです。
私たちの造り主は、人が幸せである様にと願っておいでで、永遠のいのちを得られる様にと願っておられます。若い日に、創造者なるご自分と出会う様にとも願われておいでなのです。歳を重ねて、『なんの喜びもない!』と言わないためにです。この「喜び」の多さや充実度こそが、「幸福度」の高さになるのかも知れません。
( “ いらすとや ” のジジとババです)
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