ヘルマン・ヘッセが、次の様なことばを残しています。
「人生とは孤独であることだ。だれも他の人を知らない。みんなひとりぼっちだ。自分ひとりで歩かなけねばならない。』
父と母によって生を受け、この二親の愛によって育てられ、やがて二親から離れて、私は独立しました。天職を得て働き、妻を備えられて、子たちを得ました。彼らを育てて独立させ、再び妻と二人で暮らし、やがて、どちらかが先立って離れて行き、一人になるのでしょう。
思い返してみますと、激励され、褒められ、叱責され、また助けられて、自分も「一人」の人となりました。それでも、矢張り何時でも「独り」だったのです。二親や兄弟や友達がいて賑やかでも、「独り」という思いを味わったのです。ですから、ヘッセが言う様に、「ひとりぼっち」さを感じております。
それは、孤立しているのではないのです。父や母におぶってもらった思い出があり、肩を組み合った仲の良い友だちがいて、一緒に生活をした妻がいて、子どもたちをおぶったり抱いたりしたこともあるのです。でも、それは時々の経験で、独り寝をしたり、独り食をとったりしている時、独りでいる様に感じたのです。夜、ベッドの毛布にくるまって寝ている時も、目覚める時にも、やっぱり「独り」なのです。
「一人」と「独り」とは違います。「一人」は、集団の大人数に対しての単単位で、比較的な表現でしょうか。また「独り」は、「孤独」の様に、ポツンと一人で寂しくいる状態です。「独」の旧字は、「獨」で、「犭」偏に「蜀」の作りの漢字で表していました。「犭」は、犬を意味していて、犬に似た獣や、異民族への蔑称、野獣的な行為などを意味してできた漢字です。「蜀」は、芋虫や青虫、蛾を意味していて、中国の四川省を「蜀の国」と呼んでいます。
聖書には、こう記されています。
『私は再び、日の下にむなしさのあるのを見た。 ひとりぼっちで、仲間もなく、子も兄弟もない人がいる。それでも彼のいっさいの労苦には終わりがなく、彼の目は富を求めて飽き足りることがない。そして、「私はだれのために労苦し、楽しみもなくて自分を犠牲にしているのか」とも言わない。これもまた、むなしく、つらい仕事だ。 ふたりはひとりよりもまさっている。ふたりが労苦すれば、良い報いがあるからだ。 どちらかが倒れるとき、ひとりがその仲間を起こす。倒れても起こす者のいないひとりぼっちの人はかわいそうだ。 また、ふたりがいっしょに寝ると暖かいが、ひとりでは、どうして暖かくなろう。 もしひとりなら、打ち負かされても、ふたりなら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。(新改訳聖書 伝道者4章7~12節)」
誰も、独りでいるのには耐えられないからです。それで、誰もが「友」を求めるのです。「孤高の人」と言う様な表現があります。人々の間で抜きんじていて、他と違った気高さを感じさせる人を、そう言います。他人に左右されたり影響されないで、独立した人なのかも知れません。一人で生きていける人です。
それとは違って、協調性の欠けている人を、そう言うこともありそうです。良い意味では、他者に感化されずに、自分一人で立ち続けて、一人で、独りでも生きていける人のことです。
弟子たちに理解されずに、一人残されたイエスさまは、ひたすら、カルバリーの十字架に向かって進んで行かれました。やがて、ご自分を信じる人たちの救いのために、その孤独な道を歩み続け、救いの道を完成されたのです。
人には理解されなかったのですが、イエスさまには理解者がいました。
『神が天を堅く立て、深淵の面に円を描かれたとき、わたしはそこにいた。 神が上のほうに大空を固め、深淵の源を堅く定め、 海にその境界を置き、水がその境を越えないようにし、地の基を定められたとき、 わたしは神のかたわらで、これを組み立てる者であった。わたしは毎日喜び、いつも御前で楽しみ、(箴言8章27~30節)』
『今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。(ヨハネ17章5節)』
父なる神さまこそ、イエスさまの唯一の理解者だったのです。天地の万物が創造された時に、御父の「かたわら」におられたと記されてあります。
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ところが、
『あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石になった。(マルコ12章10節)』
『すると、みながイエスを見捨てて、逃げてしまった。(同14章50節)』
イエスさまは、3年半共に歩み、共に生活をした弟子たちに見捨てられてしまいます。
『そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。(15章34節)』
そればかりではなく、御父に「見捨てられ」てしまうのです。十字架の上で、罪のそのものとなってしまわれたイエスさまから、御父は目を逸らされました。ずっと見続けられ、交わりを持ち続けてきたのに、イエスさまが十字架で罪そのものとなられてしまった時に、その瞬間、御父は罪となられたイエスさまを静視できなかったからです。
イエスさまは、十字架の上で死なれ、墓に葬られました。ところが蘇られたのです。死と墓とを打ち破られたのです。今は、御父のみそばにおいでです。そこで、私たち信じたものたちのために、執り成しの祈りをしていてくださり、助け主なる聖霊をお送りくださり、私たちを迎える場所を設け、それが用意されたら迎えにきてくださると約束しておられるのです。
罪のないお方が、罪とされたことによって、人の救いが完成しました。私は、17歳で信仰告白を、22歳でバプテスマを受けましたが、Back slide(脱線)していました。しかし、25歳の時に、聖霊のバプテスマの経験をした時、救いを確信させられたのです。それ以来、八十になった今も、その確信は動じません。
『また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28章20節)』
私にも友がいます。親友と言う友もいます。しかし、私を、『友よ!』と呼びかけ続けてくださるイエスさまがいてくださるのです。決して裏切らないで、目を逸らしたりしない真正の友です。だから、人に裏切られ、嫌われても、孤独や孤立を経験しても、「ひとりぼっち」ではないのです。
(Christian clip artsのイエスさまのイラストです)
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