蒸気機関車を思わせてくれて

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 主の働きに献身した若いテモテに、パウロが、真心から情愛を込めて書き送った手紙が、聖書の中に2通おさめられています。それを読みまして感じるのは、この二人の間には、実に麗しい関係が育まれていたことであります。

 そのパウロが、愛をもって勧めている言葉の1つに、「肉体の鍛錬もいくらかは有益ですが・・(新改訳聖書  1テモテ4章8節)」と言う言葉があります。テモテの健康を願ってのことでしょうか。この言葉の「いくらかは」と言うのは、「少しの間」と言う意味をもっている言葉なのです。キングジェムス訳ですと「little」とあります。

 私に聖書の読み方を教えてくれた宣教師さんは、『ここは、《この地上にある間は有益です》、との意味でしょうか!』と言っておられました。としますと私たちが肉体を鍛錬することは、意味のないことではないことになります。初代教会の時代、ギリシャにはオリンピックがあって、走ったりボクシングをしたり、レスリングもあり、パウロは「賞を受けられるように走りなさい(1コリ9章24節)」と、霊的に当てはめています。

 ずいぶん昔のことですが、アテネ・オリンピック出場をかけた女子バレーの予選の試合が行われていた頃、それをテレビに誘われて観戦していました。その時、日本チームの練習風景が、中継の合間にビデオで流されていたのです。

 監督さんが、19才の高校を出たての様な選手たちに、『バカヤロー!』、『出て行け!』、『お前なんか使わない!』と罵声を飛ばしていました。ああ言った言葉に耐えないと試合に出られない、勝てない、オリンピック大会に出場できないのでしょうか。国の名誉を賭けた、熾烈な競争に勝つには、精神を鍛えなければならないのでしょうか。

 『なにくそ!』という跳ね返す心がないとだめなんです。相手に勝つ前に自分に勝たなければならないし、チーム・メイトにも勝たなければならないのです。根性がなければ駄目なんです。そのためには、暴言も暴力も必要悪なのだ、そういった蛮風な風潮がみられたのです。

 ずいぶん前に、高校の運動部にいた私は、その様子を見ていて、『ちっとも変わっていないな!』と感じること仕切りでした。その五十代の監督さんの選手時代は、われわれと同じ「しごき」の時代だったのです。私たち送球部の練習内容は、ものすごいものがありました。インターハイや国体の優勝校で、その決勝戦への常連校でしたから、その名誉を維持するためには、常識的な練習では駄目だと言うのが結論でした。

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 予科練帰りの旧日本軍の規律で訓練された先輩たちにしごかれたと言う、卒業生のおじさんたち、そのおじさんたちに鍛えられたOBが、入れ替わり立ち代わりやって来るわけです。ビンタは当然でした。殴られると、今度は下級生にビンタで焼きを入れるといった悪連鎖があったのです。

 あの監督さんは、暴力はしていなかったのですが、あの言葉は心に痛かったでしょうね。社会全体が軟らかいソフトムードで、そこで育って来た若者たちの中で、一流選手のいる、スポーツ界は変わっていなかったのです。何時でしたか、ある力士が相撲の稽古をつけている様を、テレビで観ていました。竹刀(しない)で焼きを入れていました。その相手は、彼よりも年令は上で、大学出の人気力士でした。その世界は、年令も学歴も関係ないのですね。番付が上なら天下なのです。

 《悲壮感》、そう言ったものがないとスポーツの世界では、出られない、勝てない、オリンピックには出場できないと言う空気なのです。まさに日本型のスポーツの世界の伝統であります。

 いつでしたか、アルカイダの訓練の様子が放映されていました。またアメリカ海兵隊やイギリス軍の新兵訓練も放映されていたことがあります。戦場の最前線に遣わされる兵士には、非人道的な訓練が、世界中、どこでも行われているのです。そこにあったのは、私が若い頃にやっていた、松涛館流空手の稽古の中に感じた「殺気」です。躊躇のない一撃必殺が要求されるのです。逡巡していたら、殺されてしまうからです。 

 あの監督に罵声を飛ばされていた選手が、試合に出してもらって活躍していました。スパイクを決めた時に見せたのは、実に素晴らしい笑顔でした。『監督さんの愛情からの言葉なんだ!』と思って感謝しているのでしょうか。

 でも、『勝たなくってもいいんだ!』、そういった気持ちで、スポーツを楽しめたら素晴らしいのではないか。そうしたら、肉体の鍛錬にも有効なのだと言う、パウロの願いが、実現されるからです。

 欠点だらけの私を訓練してくださった宣教師さんは、私を、殴ったり、威嚇したり、蔑んだり、罵倒したりしませんでした。彼や、彼の友人の神学校の教師から、聖書の読み方から学び方、時事問題、教会史、そして、家庭建設の仕方、妻と共にどう歩むかまで教えてくださったのです。そして、いつも祈ってくれたのです。

 もう一人の宣教師さんは、20歳違いでしたが、同じ兄弟や友の様に接してくれました。私が家庭を持ってからも、家内も子どもたちも、家族ごと家に呼んでくれ、子どもさんたちと一緒にテーブルを囲んで食事をとり、テニスまで打ち合いました。あの家の匂いも雰囲気も、すべてが懐かしいのです。

 この方の時計の手首への付け方も誕生日も、私と同じでした。何か優しい穏やかさを感じさせてくれ、それでいて力強い蒸気機関車をも思わせる様な方でした。彼は天に帰り、同じ蒸気機関車の様な、あのテーブルに着いていた彼のご子息も、先週、この地上を走り抜けて、「天の故郷」に帰って行かれました。寂しさを禁じ得ません。

(ウイキペディアの蒸気機関車に牽引される列車です)

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