悲しい出来事の先に

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 この1ヶ月ほど、私の唇に登ってくる賛美の歌詞があります。今朝も、思いの内に登ってきています。

♫・・・やがて天にて 喜び楽しまん 君に見えて 勝ち歌歌わん ♬

 学校出たての22歳の1968年の3月に、作詞がサトウハチロー、作曲が加藤和彦で、ザ・フォーク・クルセーダズが歌った「悲しくてやりきれない」が発表されました。

胸にしみる 空のかがやき
今日も遠くながめ 涙をながす
悲しくて 悲しくて
とてもやりきれない
このやるせない モヤモヤを
だれかに告げようか

白い雲は 流れ流れて
今日も夢はもつれ わびしくゆれる
悲しくて 悲しくて
とてもやりきれない
この限りない むなしさの
救いはないだろうか

深い森の みどりにだかれ
今日も風の唄に しみじみ嘆く
悲しくて 悲しくて
とてもやりきれない
このもえたぎる 苦しさは
明日も続くのか

 みんなが悲しむので、この気持ちは本物で、正直な感情なのです。ところが、教会に行き直す1970年頃に、「喜べ」というコーラスなどを、一人のニューヨークの聖書学校の教師で、多くのアフリカへの宣教師を派遣し、そのお世話をしていらっしゃる方が、私たちの教会に来られて、紹介してくれたのです。

♬ よろこべよろこべ 主の民よ よろこべよろこべよろこべ 主の民よ ♫

 とても簡明で、単調な賛美コーラスでした。

 悲しい出来事で、気の滅入っていた人類に、永遠のいのちの約束を持って、イエスがキリストとして、父なる神の元からおいでになられたのです。このキリストが、約束された赦し、救い、解放、癒し、自由、永遠、栄光、力を、私たちにもたらしてくださったのです。闇と絶望と滅びと死を打ち砕いてくださって、神の子としてくださいました。

 だから、手を打ちたたいて、この救い主イエスさまを喜べと言われたのです。それでも、いつも喜んでいた私たちに、たびたび、「召された知らせ」が届いてきました。昨晩、早めに床についたのですが、2時頃に、家族間のチャットを見ましたら、若き友人が、ICUに搬送されたとの知らせが、在米中の次女からあり、『祈って!』と言ってきたのです。しばらくして、上の息子から、『天の主の元に召されたそうです!』と知らせが入りました。

 やはり突然のことで驚いてしまいました。家内は、『一番素晴らしいと永遠の住まいに帰られたのですから、そのことを認めましょう!』と、今朝になって言いました。そうですね。人のいのちの支配者は、その付与者でいらっしゃる創造主なる神さまでいらっしゃるからです。

 聖書には、

Precious in the sight of the LORD is the death of his saints.(『主の聖徒たちの死は主の目に尊い。詩篇116:15』)
とあります。

『主の元に帰られたのですね。主の慰めを、奥さま、息子さん夫妻、お嬢さん、次男のJ君、お母さまやご兄弟姉妹のみなさんの上に祈りましょう。そして彼の全てを主のみ手に委ねましょう。』と、子どもたち家族にチャットを送りました。

 彼は、私たちの13年の在華中、帰国後も、ずっと主の愛を示してくれた方でした。とくに家内の闘病にも、いつも激励を寄せてくれました。一昨年は、ご家族で、私たちを訪ねてくれたのです。まさかの出来事と驚くのですが、主のみ手を認めます。

 主にある聖徒の死は、凱旋です。この地上の生涯を終えて、神さまのいらっしゃる天に凱旋したのです。だから、悲しみ過ぎないでいたいのです。そう、今も、

♫・・・やがて天にて 喜び楽しまん 君に見えて 勝ち歌歌わん ♬

が、私の唇に登ってきています。

 主の慰めを、ご家族のみなさんの上にお祈りします。

(Christian clip arts のイラストです)

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61歳の学生証を

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 中国へ、留学生として、「漢語」の学びに出掛けたのが、61歳の時、夫婦のセットでの語学留学でした。まず香港で、1週間過ごしたのです。シンガポールで働いていた長女が、通訳者として来てくれました。中国語を学ぶためにでしたが、香港では英語でしたので、説教する機会もあって、その週の間、元看護師や大学教授や医師やビジネスマンの30人ほどの留学生が一緒でした。

 香港の自然の中の施設で、美味しいご馳走や学びもあったのです。娘はシンガポールに飛行機で帰り、私たちは、九龍駅から北京駅までの中国横断の国際寝台列車に乗ったのです。みんな若いイギリス人、ブラジル人などと一緒でした。朝、通路の椅子に腰掛けて聖書を読んでいましたら、5、6人のグループの一人の青年が、『それはバイブルですか?』と聞いてきたのです。それで会話が始まり、台湾から来て、北京に行くと言っていました。台湾系のブラジル人でした。

 私たちのグループにも、ブラジル人がいると言いましたら、『母が、連絡してきて親戚のデニーズが北京に行くそうなんです!』と言ったのです。同行のブラジル人が、デニーズでした。それで彼女をベッドから起こして、『親戚がここにいる様ですよ!」と言ったら、寝ぼけ顔で起きてきて、大喜びで母国語の中国語とポルトガル語でえの会話をし始めたのです。従兄弟だったのです。こんな親族の出会いが、異国の地を走る国際列車の中であるのに、私たちも驚いたのです。

 台湾系のブラジル人たちで、北京で、祈ったり集会を開くと言っていました。私たちは、北京近郊の街から、小型バスの迎えを得て、所定の宿舎に連れて行ってもらったのです。夜が遅かったのですが、もう休める様に準備をして迎えてくれたのです。すでに数年、そこで過ごしておいでのドイツ人の若い夫婦が、暖かく迎えてくれたのです。

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 9月の上旬が、中国の新学年の始まりで、イギリス人と中国人の校長二人で、10人ほどの教師がおいで、語学学校を経営しておいででした。外国人のための宿舎は、自転車で20分ほどに所にあったでしょうか、しっかり管理と監視がありました。まず、自転車を買いに連れて行ってもらったのです。みなさん自転車で、リヤカー付きに自転車もあって、子どもたちを乗せて、学校や事務所を往復していました。

 そこに一年いたでしょうか。楽しいひと時を過ごしたのです。一緒に賛美したり、祈ったり、集会を持ちました。日曜日には、大きな劇場の様なところで、礼拝が持たれていました。パスポートを見せて入場するのです。その街に外国人のためだけの、政府の許可を得た集会場でした。

 ビジネスマンや大学の教師、学生が集っていて、現地人は参加できませんでした。宿舎は、ホテルの様で、七階の部屋が与えられたのです。エレベーターなどなくても、元気に家内も私も、日に何度も降りたり昇ったりしました。近所に「市場shichang」と呼ばれるマーケットがあって、そこで食材とか必要品を買ったのです。

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 同じ宿舎のみなさんを呼び合ったり、学校の担当の教師をお招きして食事会をもったり、家にも招いてくださって、親しい交わりがありました。体の不自由な方に、歩行器や補助車などを作る指導をされていたイギリス人のご婦人が隣人で、時々交わりをしたり、アメリカ人の夫妻、イギリス人の夫妻、ニュージーランドからの夫妻、オーストラリヤ人の男性などとの交流がありました。

 医科大学の教師をされている人たちも、学校か政府が、特別に住まいを提供されているのでしょうか、その様な家にも招いて頂いたこともあったのです。外に住んでいる方たちとの交わりもあったのです。あっという間の濃密な一年を、そこで過ごしました。

 その一年の間に、次男が二度も、老いて隣国に行った両親が、どんなふうに過ごしているかを確かめに訪ねてくれたのです。自分の荷物を持たないで、大きなズタ袋の様な物に、何やら日本で、いっぱいに買い込んで運んでくれたのです。北京の飛行場から、スマホ一台を手に、タクシーに乗ってでした。嬉しい訪問でした。

 それから華南の地に移って、12年間を過ごし、都合13年の隣国の滞在でした。今日、整理していましたら、書類の引き出しの中から、「学生証」が出てきて、それで、その20年ほど前の一年が懐かしく思い出されたのです。とても充実していたからでしょうか、思い出が溢れてきたのです。

(本物の学生証、中文維基百科の現在の九龍駅、天津市五大路です)

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