61歳の学生証を

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 中国へ、留学生として、「漢語」の学びに出掛けたのが、61歳の時、夫婦のセットでの語学留学でした。まず香港で、1週間過ごしたのです。シンガポールで働いていた長女が、通訳者として来てくれました。中国語を学ぶためにでしたが、香港では英語でしたので、説教する機会もあって、その週の間、元看護師や大学教授や医師やビジネスマンの30人ほどの留学生が一緒でした。

 香港の自然の中の施設で、美味しいご馳走や学びもあったのです。娘はシンガポールに飛行機で帰り、私たちは、九龍駅から北京駅までの中国横断の国際寝台列車に乗ったのです。みんな若いイギリス人、ブラジル人などと一緒でした。朝、通路の椅子に腰掛けて聖書を読んでいましたら、5、6人のグループの一人の青年が、『それはバイブルですか?』と聞いてきたのです。それで会話が始まり、台湾から来て、北京に行くと言っていました。台湾系のブラジル人でした。

 私たちのグループにも、ブラジル人がいると言いましたら、『母が、連絡してきて親戚のデニーズが北京に行くそうなんです!』と言ったのです。同行のブラジル人が、デニーズでした。それで彼女をベッドから起こして、『親戚がここにいる様ですよ!」と言ったら、寝ぼけ顔で起きてきて、大喜びで母国語の中国語とポルトガル語でえの会話をし始めたのです。従兄弟だったのです。こんな親族の出会いが、異国の地を走る国際列車の中であるのに、私たちも驚いたのです。

 台湾系のブラジル人たちで、北京で、祈ったり集会を開くと言っていました。私たちは、北京近郊の街から、小型バスの迎えを得て、所定の宿舎に連れて行ってもらったのです。夜が遅かったのですが、もう休める様に準備をして迎えてくれたのです。すでに数年、そこで過ごしておいでのドイツ人の若い夫婦が、暖かく迎えてくれたのです。

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 9月の上旬が、中国の新学年の始まりで、イギリス人と中国人の校長二人で、10人ほどの教師がおいで、語学学校を経営しておいででした。外国人のための宿舎は、自転車で20分ほどに所にあったでしょうか、しっかり管理と監視がありました。まず、自転車を買いに連れて行ってもらったのです。みなさん自転車で、リヤカー付きに自転車もあって、子どもたちを乗せて、学校や事務所を往復していました。

 そこに一年いたでしょうか。楽しいひと時を過ごしたのです。一緒に賛美したり、祈ったり、集会を持ちました。日曜日には、大きな劇場の様なところで、礼拝が持たれていました。パスポートを見せて入場するのです。その街に外国人のためだけの、政府の許可を得た集会場でした。

 ビジネスマンや大学の教師、学生が集っていて、現地人は参加できませんでした。宿舎は、ホテルの様で、七階の部屋が与えられたのです。エレベーターなどなくても、元気に家内も私も、日に何度も降りたり昇ったりしました。近所に「市場shichang」と呼ばれるマーケットがあって、そこで食材とか必要品を買ったのです。

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 同じ宿舎のみなさんを呼び合ったり、学校の担当の教師をお招きして食事会をもったり、家にも招いてくださって、親しい交わりがありました。体の不自由な方に、歩行器や補助車などを作る指導をされていたイギリス人のご婦人が隣人で、時々交わりをしたり、アメリカ人の夫妻、イギリス人の夫妻、ニュージーランドからの夫妻、オーストラリヤ人の男性などとの交流がありました。

 医科大学の教師をされている人たちも、学校か政府が、特別に住まいを提供されているのでしょうか、その様な家にも招いて頂いたこともあったのです。外に住んでいる方たちとの交わりもあったのです。あっという間の濃密な一年を、そこで過ごしました。

 その一年の間に、次男が二度も、老いて隣国に行った両親が、どんなふうに過ごしているかを確かめに訪ねてくれたのです。自分の荷物を持たないで、大きなズタ袋の様な物に、何やら日本で、いっぱいに買い込んで運んでくれたのです。北京の飛行場から、スマホ一台を手に、タクシーに乗ってでした。嬉しい訪問でした。

 それから華南の地に移って、12年間を過ごし、都合13年の隣国の滞在でした。今日、整理していましたら、書類の引き出しの中から、「学生証」が出てきて、それで、その20年ほど前の一年が懐かしく思い出されたのです。とても充実していたからでしょうか、思い出が溢れてきたのです。

(本物の学生証、中文維基百科の現在の九龍駅、天津市五大路です)

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