『いと小き者の一人になしたるは』

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 かつて「東野鉄道」という鉄道会社が、那須地方にあって、旧国鉄の西那須野駅から黒羽(くろばね)駅の24.4kmの軌道を走っていました。主に農業生産物の輸送と、近くにできた陸軍の飛行場へ物資を搬入、人の輸送をするために開通した鉄道だったそうです。1968年には、無用になったのか廃線になっています。

 この東野鉄道の終点の黒羽は、那珂川という河川が近くに流れています。江戸時代には、「黒羽藩」の城下町でした。江戸からは、そう遠くなく、地方の一万八千石の小藩でした。それでも幕末には、藩主の大関氏が、幕府の要職に就き、重要な職務にあたっていたのです。

 この那珂川では、栃木市の巴波川と同じ様に、「舟運(しゅううん)」が行われていたと言われています。黒羽町は、平成の合併で、大田原市に編入されているのです。その大田原市の広報に、次の様にあります。

『近世中期の頃から明治の終わり(鉄道開通)頃まで、那珂川には帆かけ船(小鵜飼船)や筏による舟運が行われた。黒羽の属する東野地方は、利根川水系の文化圏に属し、江戸と結ばれ、奥州街道の開通によって、南奥(白河、会津方面)にまで商圏を拡大していた。輸送の経路は黒羽から常陸の野田や長倉を通じて水戸に入り、更に一部陸送し、北浦を南下し、利根川をさかのぼって江戸へと、廻米等の物資輸送が行われ、常陸、野州、奥州の文化経済交流の役を果たしていた。黒羽には両河岸(上河岸・下河岸)があり、天保4年(1833年)頃の持ち船は46艘を数え、主な輸送物資は、米、酒、しょう油、たばこ、茶、絹糸、木材等で、帰りの荷は海産物が主で、乗合にも利用されていた。現在、下河岸跡には石垣と水神を祀る小祠が老松の傍らに残っている。河原は河川公園となっている。』とあります。

 ここ黒羽は、芭蕉が訪ねた地でもあり、「奥の細道」の行程が、150日ほどでしたが、14日間(13泊14日)も滞在したことになります。禅の修行をした時の恩師が、この地に滞在したことがあったとかで、懐かしさもあったり、また門弟がいたりで、句会を開いたことにより、長期に及んだのだそうです。「那須の黒羽(奥の細道)」の部分です。

 『那須の黒ばねと云所に知人*あれば、是より野越にかゝりて、直道をゆかんとす。遥に一村を見かけて行に、雨降日暮る。農夫の家に一夜をかりて、明れば又野中を行。そこに野飼の馬あり。草刈おのこになげきよれば、野夫といへども、さすがに情しら ぬには非ず。「いかヾすべきや。されども此野は縦横にわかれて、うゐうゐ敷旅人の道ふみたがえん、あやしう侍れば、此馬のとヾまる所にて馬を返し給へ」とかし侍ぬ。ちいさき者ふたり、馬の跡したひてはしる。独は小姫にて、名を「かさね」と云。聞なれぬ名のやさしかりければ、

 かさねとは八重撫子の名成べし  曾良

 頓て人里に至れば、あたひを鞍つぼに結付て馬を返しぬ。』

 この黒羽町のある那須地域は、那須与一に始まり、多くの逸材を生み出し、外部から多くの人たちがやって来て、不毛地の開拓など近代化への事業を残しています。その中でも、この黒羽藩の家老、大関増虎の娘、「和(ちか)」は黒羽で生まれ、長じては近代日本の看護婦会の働きなどを担った婦人でした。亀山美智子の著した「大風のように生きて(ドメス出版社刊)」に、そう記されてあります。

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 和は、幕末の1858年(安政5年)5月23日に生まれ、19歳で、次席家老の息子と結婚し、二児を産んでいます。夫の身持ちが悪く、和から三行半を突きつけて、離婚し、子の養育を母親に託して、明治14年(1881年)に上京し、英語習得のために正美英学塾に通います。その頃、出会った植村正久牧師の勧めにより、同20年1月、桜井女学校(現在に女子学院の前身です)附属看護婦養成所に入学し、その第一期生(鈴木雅など6人)の一人となりました。

 明治21年(1888年)10月26日に看護婦養成所を卒業した和は、そのまま帝国大学医科大学第一医院(現東大病院)の外科の看病婦取締(看護婦長)となりました。明治23年には退職の上、年末、新潟県の高田女学校舎監兼伝道師として同校へ赴任しています。その後、明治29年夏、東京に戻り、秋には東京看護婦会講習所講師となります。植村正久(後の富士見町教会の牧師になっています)と出会い、彼に師事し、バプテスマを受けてキリスト者となります。

 惨めな境遇を生きる婦人たちを解放するための「廃娼」や「一夫一婦」を掲げた、婦人の解放の活動をした、「キリスト教婦人矯風会」の働きにも、和は加わっています。明治の日本女性としては、画期的な歩みをしたことになります。

『なんぢら我が飢ゑしときに食はせ、渇きしときに飮ませ、旅人なりし時に宿らせ、  裸なりしときに衣せ、病みしときに訪ひ、獄に在りしときに來りたればなり」  ここに、正しき者ら答へて言はん「主よ、何時なんぢの飢ゑしを見て食はせ、渇きしを見て飮ませし。  何時なんぢの旅人なりしを見て宿らせ、裸なりしを見て衣せし。  何時なんぢの病みまた獄に在りしを見て、汝にいたりし」  王こたへて言はん「まことに汝らに告ぐ、わが兄弟なる此等のいと小き者の一人になしたるは、即ち我に爲したるなり」(文語訳聖書 馬太福音書25章35-40節)』

 和は、「明治のナイチンゲール」と言われ.たそうです。植村牧師は、いつも泣いては相談に来た和を、「ナキチンガエル」との渾名(あだな)をつけたという逸話も残されています。黒羽で過ごしていた若い頃には、馬に乗って、武家屋敷から出て、原野を走り回るほど、男まさりだったそうです。我が家においでになるご婦人のお母さまは、この黒羽の出身で、那珂川で獲れる鮎の甘露煮をいただいたことがありました。

 明治維新前夜に生を受け、創造者に出会って、信仰者となり、婦人の待遇や評価を高める働きを果たし、自らも職業婦人として生きて、1934年5月23日に亡くなるまで、江戸、明治、大正、昭和を走り抜けて、74年の生涯を終えて、神さまの元に帰っていったのです。2026年の春のNHK朝ドラ「風、薫る」の主人公は、この大関和です。

(ウイキペディアの那須の地の那珂川の航空写真、国立国会図書館デジタルコレクションによる大関和です)

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