謙遜であれ

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『謙遜と、主を恐れることの報いは、富と誉れといのちである。(新改訳聖書 箴言22章4節)』

『同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。(1ペテロ5章5節)』

このクリスマスローズの頭を垂れて咲く姿に、驚かされます。バラが、頭をあげて咲くのと違って、謙って咲くこの花は、「主を恐れること」と「謙遜」 には、深い関わりのあることを教えてくれます。

(ウイキペディアのクリスマスローズです)

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文明開化の音がする

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Landing of Commodore Perry, Officers and Men of the Squadron, to Meet the Imperial Commissioners at Yoku-hama, Japan, March 8th 1854

♩ ざんぎり頭をたたいてみれば、文明開化の音がする ♬

 これは明治の初めに、日本中で歌われた歌の一節です。明治になると生活は伝統的なものから、欧米的、近代的なものに急速にかわっていきました。日本が、260年にも及ぶ、徳川幕府の封建的な社会から、近代化して行く時期が、その後の日本の歩みにとって、実に大切な節目であったのが、幕末と明治維新でした。

 ペリー率いるアメリカの艦隊が、1853年に、浦賀に現れたことは、当時の社会にとって、衝撃的な出来事でした。その前年の1852年に、中国大陸の上海に、長州の高杉晋作、薩摩の五代才助、佐賀の中務田倉之助らが訪ねています。そこで目撃したのは、列強諸国の植民地支配の現状でした。それに、太平天国の乱で、清朝中国は大騒動の渦中でした。日本も同じ様な植民支配を被るのではないかとの脅威を痛烈に感じたのです。

 対アメリカとの間で、不平等な日米修好通商条約を、幕府は締結をし、ついで、オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同様の条約、「安政の五か国条約」を結ぶのです。押し迫る欧米諸国との関係に、国中で議論が沸騰していきます。幕府の一方的なやり方に反対する勢力が起こるのです。

 当時の清朝の状況は、欧米列強の植民化政策で、中国の惨状は目も当てられない状況だったのです。それを留学生として上海に学んだ高杉晋作らは目撃して、次は自分たちの国の番の様に、危機感を痛烈に覚えて、帰国しているのです。

 高杉晋作は、漢学塾や藩黌(校)の明倫館に学び、やがて松下村塾に学んだ人でした。この松下村塾は、吉田松陰が、1857年に、長州藩の子弟、50人ほどを集めて教えた私塾でした。松蔭は何を教えたのかと言いますと、高杉と共に学んだ、久坂玄瑞(くさかげんずい)と、松蔭との往復書簡の中で、次の様に久坂に、松蔭は返事を出しています。

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 『今や幕府は諸外国と条約を結んでしまった。それがだめだといっても、我が国から断交すべきではない。国家間の信義を失うことは避けなければならない。外国とは平穏な関係を続けながら、我が国の力を蓄え、アジア、中国、インドと手を携えたのちに欧米諸国と対峙すればいい。あなたは一医学生でありながら空論を弄び、天下の大計を言う。あなたの滔々と語る言説はただの空論だ。一つとしてあなたの実践に基づくものはない。すべて空論である。一時の憤激でその気持ちを書くような態度はやめよ。』

 その松蔭は、安政の大獄で捕えられ、処刑されてしまうのです。荒れに荒れた時代の只中で、徳川幕府の政治に反対して、天皇を中心にした政治を行うことを主張した「勤皇派」と、幕府の動きに同調する「佐幕派」とに分派して争いが苛烈になっていき、幕末の騒乱が繰り広げられました。

 近代化、欧米化の動くは止めることができないで、「王政復古」、徳川幕府は倒れ、天皇を担いだ長州藩や薩摩藩や土佐藩などの勢力によって、明治維新政府が誕生するのです。そして日本は、「文明開花」が展開していきます。1959年には、ヘボンが来日し、開港の地、横浜の神奈川宿で、医師として施療所を、お寺の中に設け、施療を開始し、1863年には、「ヘボン式ローマ字」のヘボンによって、「ヘボン塾」が開校し、聖書と英語が、青年たちに教えられていきます。

 その欧化政策は、怒涛の様に行われて、明治の世が展開して行くのです。日本の歴史の中で、一番大きな変化の時期だったわけです。明治の動きは、ここ栃木県下にも及んでいて、維新に大きく関与した明治の元勲という人たちが、那須地方の開墾や発展に貢献しているのです。栃木県の県令(第三代)には、元薩摩藩士の木島通庸が任命されています。誰も止めることのできない時代の大きなうねりでした。

(ウイキペディアのペリーライコウの図、松下村塾です)

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