カカシ

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 「案山子」と書いて、「かかし」と読ませます。水上(みなかみ)の宿に泊まっている夕方、陽が落ちた、だいぶ向こうの田んぼの上で、何かが跳ねている様に見えました。ずいぶん rhythmical  に跳ねる様なので、何だろうと思っていました。そう、カカシだったのです。

 田んぼの稲とカカシの組み合わせを、もう忘れてしまっていたから、訝しがったわけです。そういえば、街の有線放送で、『稲の害虫駆除のために薬剤を散布するので、窓を閉め、洗濯物は屋外に干さないで!』と announce が、その朝ありました。近代農業は、人体に有毒な農薬を散布するのです。

 栃木や群馬や茨城の地域で、「四つ葉生協」と言う働きがあります。友人の勧めで会員になって、食材の配達をしていただく様になりました。低農薬や有機農法の栽培による野菜、保存料を使っていない食材を選び、マーガリンや食用油を使わないでいます。極力安全を第一に、原料選びで製造している会社からの物を購入しているのです。

 その会報に、長年、普通一般の製法で米栽培をしてこられた方の投稿がありました。ある時から、人体に有害な農薬使用をやめて、安全農法でお米を作ってきたのだそうです。しかし、この方の訃報がありました。それまでの農薬使用の結果で、まだ七十代はじめで亡くなられていました。安全農法を推進してきた指導的な方でした。

 私たちは、もう長くは生きないと思いますが、極力安全さを求めて、食生活をしようと心掛けています。〈安さ〉ではなく、手をかけている分、ちょっと高価になりますが、そう言った安全農法をしようとされている農家を応援する意味でも、そこから買おうと努めています。農薬ではなく、古法のカカシで、稲を食い荒らす鳥を追い払っていたわけです。作詞が武笠三、作曲者不明で、1910年(明治44年6月)に発表された「尋常小学唱歌」です。

山田の中の一本足の案山子
天気のよいのに 蓑笠着けて
朝から晩まで ただ立ちどおし
歩けないのか 山田の案山子

山田の中の 一本足の案山子
弓矢で威して 力んで居れど
山では烏が かあかと笑う
耳が無いのか 山田の案山子

 当時、アメリカ領のグアムにいた家内の姉の子が、子育て中のわが家に一年ほどいて、町立の小学校に通っていました。私たちの二番目の子を可愛がろうと、ある時、畑からカカシを担いで帰ってきたのです。それを見た私は、彼を叱ったのです。叱られた彼は、なぜ叱られたか分からずにいました。『自分は従姉妹のためにいことをしたのに!』で、納得がいきませんでした。そのカカシ事件の顛末を思い出してしまう、雨続きの朝です。

(”イラストAC“ のカカシです)

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time  slip

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 男の子4人の胃袋を満たすために、父は東京に、働き蟻の様に通勤して稼いで帰り、母は、そのお金で買い物をし、料理して、ちゃぶ台の上に並べてくれました。そんな場面が、秋になったからでしょうか、思い出されてきます。お腹いっぱい食べさせてくれた両親が、満足そうだったのです。あそこは家庭でありながら、訓練場だったり、合戦場だったりで、6人全員で過ごした日は、短いものでしたが、濃密な接触がありました。

 結婚して、私も4人の子の父とされ、家内は母親として、彼らの必要を満たして、大忙しで、巣立っていくまで家事の切り盛りをしてくれました。一日も食べられない日はありませんでした。贅沢はできませんでしたが、みんな人並みに育ったでしょうか。笑いも怒声も涙もケンカも、盛り沢山な家で、いつも誰かが一緒に暮らしていた家でした。それも短い日々だったのです。

 北関東の巴波川のほとりのアパートの4階の家は、二人っきりですが、FaceTime family  chat  の電波映像や短信文で、娘たちがやってきて、一昨日も賑やかでした。婿や孫が加わって、家内は楽しそうにしていました。息子たちは、違った方法で気遣ってくれています。人生の舞台は、思いがけずも変わるのですが、思い出は変わらずにあります。

 あんな人、こんな人がいたことを思い出しています。やっぱり人恋しく思い出される季節がやってきた様です。これで、秋刀魚の煙が立ち込めてきたら、time  slip してしまいそうです。幸いなことに、家内と私には、《中国版》の出会いや交わりや別れがあるのです。終わっていないで、時々いろいろな様子が継続されて知らされてきます。

 子どもたちが、大学や高校に進学したり、卒業して就職したと言ってきます。お母さんにベッタリだったし、手こずらせていた男の子が、この秋に大学生になるそうで、喜びの知らせです。病んで闘病の知らせもあります。

 わが孫たちも、大学進学、高校進学の季節を間近に開いています。26歳まで親元にいた私は、兄弟の中で一番長く、両親と過ごしたのですが、アメリカの社会の巣立ちは、〈 eighteen 〉なのです。考えてみますと、〈 fifteenth 〉でハワイの高校にいったのです。ずいぶん早い旅立ちでした。4人がみんな巣立って何年も経っている今、二度と帰らない日々が、懐かしさばかりで思い出されます。

(“オークフリー”の「ちゃぶ台」です)

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sportsman ship

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 東海大学附属菅生高校(西東京)の打者に、泥で汚れたバットを、タオルで拭って綺麗にして手渡す、大阪桐蔭高校の選手です。甲子園大会で、降雨のために試合続行不能で、called game になった試合での一コマです。こう言った清々しさが、高校野球の醍醐味でしょう。素敵な出来事でした。

(スポニチ掲載の写真です)

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なでしこの如くに

 “ TOKYO2020 ” の女子ボクシングで、日本選手が金メダルを取りました。「大和撫子(なでしこ/可憐で清楚さをたたえる花になぞらえています)」と呼ばれ続けた日本女子が、相手を殴り倒して、栄誉を手にしたのを、単に喜べなかった元日本プロ野球選手が、『お嬢ちゃんが・・・』と言ったことが、進退問題にまで発展しているようです。

 私には二人の娘がいまして、Sports が好きで、バスケットボールやテニスボールなどを彼女たちはやっていました。国体やオリンピックには届きませんでしたが、楽しそうにしていたのを覚えています。娘たちが、『お父さん、boxing をやりたいんだけど?』と言ってきたら、『絶対ダメ!』と、即座に言ったに違いないのです。

 古代オリンピックにも、この boxing があったのです。今は、globe を手にして戦うのですが、鋲(びょう)付き手袋を拳に装着してでした。つい先ごろまでも、素手でやっていましたが、〈危険〉と言うことで、柔らかな皮革で作ったものを拳につけて闘うようになっています。しかも裸ででした。

 その古代の boxing は、奴隷が戦っていました。今の闘牛とか闘犬と同じで所有者が闘わして、ヤンヤの喝采を上げながら観戦しての娯楽でした。3分間、15round を戦うのではなく、相手が死ぬまで戦わせる、そんな闘技だったのです。

 これがスポーツになって、競技規則の中で行われ、近代    Olympic の競技に入れられた経緯があるのです。これが反対の理由です。父親なら、自分の娘に boxing をさせるのを躊躇うのは、おかしいことでも揶揄されたり、非難されることではないのではと思うのです。みめ麗しいご婦人にはしてもらいたくありません。

 そう言った張本勲氏は、広島に落とされた原爆の被爆者だったことを、ずいぶん時間が経った後に、ご自分で公にしています。幼い日にお父さんは病死をし、お母さんの手一つで育てられています。学徒動員で工場で働いていたお姉さんは、原爆で亡くなったそうです。辛苦勉励の末、野球で大成した人です。前人未到の記録の保持者なのです。この方の女性観は、お母さんやお姉さんたちの生き方などと無関係ではなかったはずです。

 この私だって、どんなに規則があっても、相手と殴り合って競う 、たとえ近代 sport  であっても、させたくありません。格闘技、特に空手などの拳を用いて闘う競技には、「殺意」があるのです。殴られると、殴り返します。殴り返さなければ、殴り倒されるのです。だから相手を倒すために、『殺意はない!』はずがありません。兄弟喧嘩をしてたって、手加減はしているつもりですが、悔しくって、殴り返す時は、勝つために渾身の力で拳をふるのです。

 押し止める力が働いて、最後の拳を放り下ろすにをやめさせられたことが何度かありました。それで殺人者にならないですんで今日があります。聖書に、『しかし、カインは弟アベルに話しかけた。「野に行こうではないか。」そして、ふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。(創世記48節)』とあります。人類最初の殺人は、兄が弟に「襲いかかって」殺したことでした。

 自分の拳を、時々見ます。何人もの人を、殺意を込めて殴ったものです。だから、私は、少年時代に、喧嘩に明け暮れた張本氏の言われること、そう言いたい心の思いを理解したいのです。別な言い方があったこととも思いますが、言葉で失敗しない人はいないのです。だから、張本氏の右腕を挙げて上げたい私です。

(ナデシコです)

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しっぺ返し

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 『初めに、神が天と地を創造した。神はお造りになったすべてのものを見られた。・・・見よ。それは非常に良かった。(創世記1131節)」

 北関東の街の夏が行き、秋が来たのを実感しています。年々暑さが増し、降雨量が増してきています。さらに台風の季節で、9号、10号、11号と続いて発生し、今、戻り梅雨に列島が濡らされ、洗われ、激しく流されています。一昨年の19号台風で罹災経験をした私たちは、その前夜二階で休んだのですが、一階は床上浸水していて、初めての経験に驚かされました。

 県中央部の街に避難させていただき、3週間お世話になり、今のアパートの4階に住み始めて時が経ちました。眼下に巴波川が流れていますが、水の被害は、今のところ心配なさそうです。これからの降雨量を心配しながら、川の水位を眺めております。

 『また、人に仰せられた。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。(創世記31719節)』

 多摩川の河畔に住んでいたことがありました。台風の大雨で、濁流でしたが、その流れに入って、足の間で身を守っている川魚を手でつかまえることができました。あれは、とても危ない行為で、確か弟を誘って二人で流れに入ったと思います。若気の至りでした。

 普段は、静かに流れる川が、あんな濁流に激変し、怒る様に流れ下るのに驚かされますが、自然をいじめたり、侮ったりしたらいけないことを学ばされたのです。この時代の自然が牙を剥くのは、人が自然に手をつけ、痛めつけてきた結果なのでしょう。

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 樹木を切り倒し、森林を平地にし、川の流れを変え、ダムををつくり、山を削ったり掘ったり、異種の植物を植え、季節を考えず、土に化学肥料を撒いて野菜を栽培し、土地を酷使し、食糧供給のために、よその国や島で種を蒔き、季節外の野菜を収穫し、農薬を撒き散らし、耐えられるのに、夏に冷房を、冬に暖房を使って、過剰な燃料を発電に用いて大気を汚し、自動車社会になって排気ガスを大量に放出し、かくねんりょうを使わざるを得なくなり、再生の効かない地球にしてしまったからです。

 今や、「いばらやあざみ」に覆われた地に変わってしまった様です。再生不可能の時を、人類は迎えているのでしょう。どんな結果を招くかを知っているのに、これまでのどの世代人も、次の世代、後の世代を考えずに、その時だけのために生きた結果です。傲慢な人の所業に、〈しっぺ返し〉されている様に感じてしまいます。

 華南の街に住み始めて、食事に招かれた家のトイレに、大き目なバケツが置いてありました。台所で使った水を、拭き掃除や水洗に再利用するために残していたのを見たのです。水をタダで使うのに慣れていた日本人の私は、井戸を汲み、蛇口を捻って、使っていた頃を思い出したのです。使った水を、畑に戻したり、植木に使ったりしていたのを思い出し、今、ベランダの植木に、使い水をやっています。

 ある時、老宣教師が、そっと後ろから手を述べて、蛇口から流れ出ている水道を、栓を捻って止めていました。豊かなアメリカ人も水の大切さを知っているからです。皿洗い当番の友が、話に夢中で、蛇口から水が無駄に流れていたのを、言葉で注意をしないで、ご自分でそっと栓を捻った姿が思い出されます。水道代よりも、水の価値を知っておいでだからでした。

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ノアの日の如く

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 この数年、ことのほか気象異常が甚だしいのです。帰国する前年、中国の華南、私たちの住んだ省の西部でも、大雨による洪水に見舞われ、甚大な被害がありました。友人たちは、被災地に入って、井戸の消毒などの奉仕に当たっていました。

 一昨年あたりからは、アジア圏だけでなく、アメリカでもカナダでも、ヨーロッパ諸国でも、洪水や大嵐や山火事などの被害が伝えられていて、本年は世界大の異常現象を甚だしく見せています。

 聖書に次の様に記されてあります。

 『人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。(マタイ243739節)』

 気象用語の〈線状降水帯〉を、天気予報の中で聞くと、『まるで40日四十夜も雨の降ったノアの日の様だ!』と表現したいほどの、現象に思えてなりません。その「ノアの日」は、原語ですと複数形の ” days "ですから「日々」のことになります。洪水が起こるまでの日々も、水が引いた直後の日々も含まれていることになります。

 ところが人々は、飲んだり、食べたり、娶ったり、嫁いだりして、厳粛さを感じていないかの様でしたから、この時代と同じです。起こっている異常現象を厳粛に捉えていないのです。

 「人の子」とは、イエス・キリストを言っています。母も、私を育ててくれた宣教師のみなさんも、「キリストの再臨」を待ち望んでいましたが、それを迎えることなく、地上の生涯を終えて、神のみ元に帰って行きました。

 今朝も滋賀で地震があったと、ニュースが知らせていました。地震の頻発、民族の対立、戦争の噂など、「人の子」が来られる直前の様子に当てはまります。その備えはおできでしょうか。これは脅しではなく、備えをする様に、歴史の支配者である神さまが勧告していらっしゃるのです。

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幾年ぞ

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最近、コロナ騒動が始まって、しばらく経った頃から、よく聞く様になった言葉に「人流」があります。『人流が多くなった!』、『人流を減らさないと!』と言うのを聞きます。日本通運やヤマト運輸がしている物資輸送を「物流」と言いますから、何か人が「物」になった様で、まるで人が無機質になったみたいに感じてなりません。

 人間は、さまざまな動機や目的をもって移動をして、社会の中で活動をしています。だから孟宗竹を真っ二つに割って作った樋に流れ下る「そうめん」や、景気が良し悪しで動きを見せる「金」の流れとは違います。

 「人の流れ」とか「人出」の方が、愛や優しい思いを持った人の動きを表すには良い様に思えます。物ではなく、心と人格を持つ人として捉え接して欲しいのです。

 利用規制や行動規制で、鉄道の駅や、高速道の出入り口を、何かの理由で閉鎖したり、開いたりすることもあります。要人が通過したり、利用する時に、一般の利用客の行動を規制してしまうのは、ある理由で仕方がないのかも知れませんが、物流従事者や医療関係者は、急がなければならない時には、迷惑になってしまいます。人の流れ、動きを、都合によって制限したりしています。

 カルガモ一家が道路を渡ろうとしていると、カモ流、車は停車して、お母さんや子どもたちが渡り終わるのを待って、運転を再開しています。これは優しさですが、人命尊重などの優先順位はよいのですが、文字通りに《民主》でなければならないのでしょう。思いやり座席に座る人たちの様に《弱者優先》であるべきです。

 カタカナ語よりも、まだ分かりやすいのですが、今の〈造語言葉〉が荒れていて、カサカサとして、人を潤せないで、傷付けているのが悲しくないでしょうか。天然自然に恵まれた、しっとりした気候の国に育った言葉は、美しく配慮があふれています。《やまとことば》を聞くとホッとしてしまいます。

 お隣の国の朝鮮語は、講演や説教に向いた言語でしょうか。ソウルの家庭に食事に招かれた時、日本語の詩的な美しさを褒められたことがありました。確かに、短歌や俳句の七五調は、簡潔で、韻をふんだりしていますと聞きやすいものです。ことばが美しいのです。

 まつりすみ いくひか過ぎて なに思う

 若い命の散華、将来を奪われた父やオジや祖父や友や隣人が、命を賭して守ってくれた山河は、今やコロナと大雨で大変な状況です。兄二人を戦場に送り、二人とも戻ってこなかった妹さんが、『戦争をした当時とコロナ禍で五輪を強行した今が重なる気がして怖い!』と言われました。七十有余年、新しい課題や問題を負いながらの今です。

(「たくみの里」になっていたモロコシです)
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剣や拳ではなく

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 『シモン・ペテロは、剣を持っていたが、それを抜き、大祭司のしもべを撃ち、右の耳を切り落とした。そのしもべの名はマルコスであった。そこで、イエスはペテロに言われた。「剣をさやに収めなさい。父がわたしに下さった杯を、どうして飲まずにいられよう。」(ヨハネ18章10〜11節)』

 「特技」があるでしょうか。手の器用な方は手芸、描写力のある方は画家や書家、運動神経の良い人は運動選手などなどです。男四人で育ったからでしょうか、喧嘩慣れしていたり、殴られても痛さを我慢できるからでしょうか、喧嘩に強かった私は、他に良いところがないこともあって、オトボケで〈特技喧嘩〉と言うバカげたことを言ってきました。

 学校の同級生が、『準、お前はケンカが強いんだそうだな!』と言ってきたのです。彼の同級生と私の同級生が、同じ学校で出会って友だちになったのでしょう、色々な話題の中で、私のことが話題になって、仕入れた情報が、そのことでした。タイマンと言う喧嘩で、私に殴られた同級生が、殴った私を、〈喧嘩に強い奴〉と紹介した様です。よその学校にまで鳴り響いていたのですが、自慢にはなりません。

 岡山の吉備中学校に、「話せばわかる」と言う文が書かれた碑があるそうです。「五一五事件」で血気にはやる青年将校に射殺された犬養毅首相を記念にしたものです。〈暴力〉で問答無用な行為は、民主主義の敵だから、その凶暴に倒れた先輩の言を、後輩が心に刻む様に、書き置かれているのでしょう。

 今の社会が、人間の関わりも、同じ様に硬化して、融通やゆとりがなくなってしまっているのではないでしょうか。話し合いも、相談も、説明もなしで、事が決められ、それが押し付けられている状態です。極論がまかり通ってしまって、一方的なのです。もう少し付け加えますと、柔軟性がなくなって、高圧的傾向にあります。

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 相手を、言葉で説得する努力が欠けている様に感じてなりません。やはり〈ことばの人〉であるなら、丁寧に使って欲しいものです。あの青年将校が、時の総理から聞く余裕があったら、あの暴力事件はなかったはずです。私は、母の祈りがあって、信仰者になってから、生き方として、拳で事を決することをしなくなりました。一、二回は失敗がありましたが、自制しながら今日まで生きてきました。

 ペテロが、剣を抜いて、仕えるイエスさまを守ろうとした時に、「剣をさやに納めなさい。(マタイ26章52節) 」とイエスさまは言われたのです。この《イエス革命》は、暴力革命ではないからです。それで、私の神さまは、諄々と話で迫りかけて、私が罪人である事を認めさせてくださったのです。人を殴り、物を盗み、法を犯し、復讐心に燃え、人を赦さない、薄情で冷淡な私に、静かな細い声で語られ、環境を通し、人を通してでも語り掛けてくださったのです。

 三浦綾子が著した「海嶺」が映画化されたのですが、西洋航路の大型船の船内での出来事の場面がありました。二人のヨーロッパ人が、喧喧諤諤(けんけんがくがく)の喧嘩をしているのです。私ですと、拳を使うのですが、その二人は、唾を飛ばす様に鼻と鼻をつけ合わせて、口を使って、拳を引っ込めていました。これが民主主義の国の喧嘩かと思わされ、驚いたのです。

 パウロの書き送った書簡には、母親が乳を嬰児に与える様にして、コリントの教会の問題を、手紙、言葉によって諭したのです。かつて「暴力を振るう者」が、穏やかに切々として語り掛ける人に変えられたのです。まさに、「聖霊」の柔和さそのものでした。「神の国」は、気性の激しい者ではなく、「柔和な者」が受け継ぐからです。
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須川宿

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 群馬県みなかみ町に、「須川宿」があります。戦国の武将・真田昌幸縁(ゆかり)の地で、江戸から、中山道を上って、高崎宿から、越後に抜けて北上していく「三国街道」沿いにある宿場です。幕府直轄の佐渡金山、越後の村上藩や高岡藩や高田藩などが、参勤交代で利用した当時の公道の高崎宿と三国峠(越後、信濃、上野の三国)の間にある宿場なのです。

 中山道の高崎宿から越後に向かう三国峠を通過し、長岡や寺泊までの道を、「三国街道」と呼びます。今の国道17号線ですが、旧道脇に、この「須川宿」があるのです。そこに「資料館」があって、今回、この宿場で草鞋を脱いで投宿し、見学しました。家内の治療を終えた足で、長男が車で送ってくれて、10日の晩から二泊三日を過ごすことができました。
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 緑の濃い山が、自然の城壁の様に迫っている村里の宿です。佐渡銀山に囚人を送るのに、役人が峠を越そうとして遭難して、送り役人は亡くなり、七人の囚人だけが生き残った事故があったそうで、案内をしてくださった係の方に、そんなことも聞きました。それほど、三国街道の峠は難所だったそうです。
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 そこには、たくさんの古文書(資料)が残っていて、難儀な旅をした記録がありました。「町おこし」の事業の中で、今では「たくみの里」と銘打って、道の駅があって、紙工房などがあったりです。明治期には、関東や信州では、養蚕が奨励されて、「生糸(絹)」で外貨を稼ぐと言う、明治維新政府の国家政策の中で、多くの農家が、蚕を飼ったのでしょう、養蚕をしない今、総二階の独特な家が残されています。繭は富岡生糸工場などで生糸にされ、高崎から八王子、そして横浜港へと鉄道で運ばれ、そこから世界に向けて輸出されたのです。

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 今では養蚕に代わって、リンゴ、ブルーベリー、ミニトマト、トウモロコシなどの栽培や観光園などを展開している様です。近くには谷川岳があり、登山付きの方には、メッカの様な場所になっています。自分が、旧甲州街道脇の家に住んだ経験がありますから、自分の前を、わらじ履きに旅人が行き来していたことを思い浮かべて、ふと私の足元を見ると、丈夫なズック靴がありました。まさか、三国街道沿いの宿場町が、観光地になるとは、思いもよらない、時の流れ、変化に驚くことでしょう。

 〈宿泊者に一本〉のトウモロコシのお土産の刈り取りがあり、家に持ち帰、早速茹で上げました。甘くて美味しかったのです。家事爺を家事から解放させたい家内が、息子に紹介された宿に申し込んでくれた旅でした。帰って来てから初めての県外に出掛けられたのは感謝。

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わかい

 

 何かする前に、《しておかなければならないこと》があると言うのです。普通、しなくてもいいことに夢中になって、すべきことを蔑ろにする傾向が、人にはあります。本末転倒しているわけです。犠牲を捧げる以上に、祈る以上に、奉仕する以上に、善を行う以上に、愛する以上に、いえ、それらと同時に大切なことがあるのだ、と、教会の主であるイエスさまは言っています。

 多くの人が、何かをし忘れています。それを思い出したなら、即刻すべきだと言うのです。私たち基督者が賛美するのは、活き活きとした旋律に、いい気持ちになるためではありません。その歌詞に感動するからでもありません。神の偉大さをほめ称えるためです。赦された喜びを感謝で表現するためです。また献金するのも、神の関心を引くためではありません。義務的にするのではなく、神への感謝の意味を込めてしています。

 親しく神と交わるために「祈り」もします。これも神への感謝からするのです。もちろん困った時、必要のある時の嘆願もありますが、神への要求ではなく、子が親を信頼する表現の一つです。新しい契約のもとでは、「供え物」を捧げる必要はありません。神さまは、それを求めてはいません。

 『だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。 (マタイ52324節)』

 最も大切なことは、『仲直りをしなさい!』と言う命令に従うことです。それをしないで、聖書を読んでも、祈っても、献金しても、証しても、世界宣教に出掛けても、意味がないからです。《和解》です。これって、だれにとっても一番難しいことなのかも知れません。誇りを傷つけられ、より頼んでいる確信を否定され、友人や家族をなじられ、過去の業績を否定されたとしても、「もし恨まれていたら」、こちら側から仲直りの一歩を取れと言うのです。

 『あいつが謝ってきたら!』と言うのが私たちの思いです。どうもその人の態度がおかしいので、それに気付いたら、気付いた段階で、「私」がする様に言っているのです。それは、相手がどんな応答をし、その申し出を受け入れず、無視しても、するすべきです。

 中国語で、「对不起duìbùqǐ 抱歉!bàoqiàn!」、英語で ” I am sorry ! “ の『ごめんなさい!』ほど、言うのに難しい言葉はありません。『親にも、教師にも、警官にも、いっぺんでは言えなかったな!』、もちろん神さまにも言えない言葉が、『ごめんなさい!』だったなと思い返します。この一言が、仲直りをもたらすのですが、「憎しみの思い」は、そうさせません。

 喧嘩別れしたら、仲違いしたら、《先ずすべきこと》があるのです。私たちキリストの教会は、《和解》を勧め、語り、促す様な勤めをする様に召されています。先ず、「創造者との和解」、そして親や兄弟姉妹、友人や隣人との間の「和解」です。それは、〈対人関係〉よりも、《神との関係》の方が重要だからです。正しい神との関係の維持のために、「和解への一歩」を、神の御子イエスさまは仰るのです。

 それは大前提は、《自分との和解》、つまりありのままの自分を愛し、受け入れ、褒めることです。役に立たないこんな俺を選び、赦し、愛し、使ってくださる主の哀れみを知れば、自分の尊さを知ることができるのです。さあ、本気で「仲直り」、「和解」をしましょう。それほど重要なことなのですから。相手に、仲直り拒まれても、神のみ前で、そうすべきです。これが人のすべきことなのでしょう。

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