わかい

 

 何かする前に、《しておかなければならないこと》があると言うのです。普通、しなくてもいいことに夢中になって、すべきことを蔑ろにする傾向が、人にはあります。本末転倒しているわけです。犠牲を捧げる以上に、祈る以上に、奉仕する以上に、善を行う以上に、愛する以上に、いえ、それらと同時に大切なことがあるのだ、と、教会の主であるイエスさまは言っています。

 多くの人が、何かをし忘れています。それを思い出したなら、即刻すべきだと言うのです。私たち基督者が賛美するのは、活き活きとした旋律に、いい気持ちになるためではありません。その歌詞に感動するからでもありません。神の偉大さをほめ称えるためです。赦された喜びを感謝で表現するためです。また献金するのも、神の関心を引くためではありません。義務的にするのではなく、神への感謝の意味を込めてしています。

 親しく神と交わるために「祈り」もします。これも神への感謝からするのです。もちろん困った時、必要のある時の嘆願もありますが、神への要求ではなく、子が親を信頼する表現の一つです。新しい契約のもとでは、「供え物」を捧げる必要はありません。神さまは、それを求めてはいません。

 『だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。 (マタイ52324節)』

 最も大切なことは、『仲直りをしなさい!』と言う命令に従うことです。それをしないで、聖書を読んでも、祈っても、献金しても、証しても、世界宣教に出掛けても、意味がないからです。《和解》です。これって、だれにとっても一番難しいことなのかも知れません。誇りを傷つけられ、より頼んでいる確信を否定され、友人や家族をなじられ、過去の業績を否定されたとしても、「もし恨まれていたら」、こちら側から仲直りの一歩を取れと言うのです。

 『あいつが謝ってきたら!』と言うのが私たちの思いです。どうもその人の態度がおかしいので、それに気付いたら、気付いた段階で、「私」がする様に言っているのです。それは、相手がどんな応答をし、その申し出を受け入れず、無視しても、するすべきです。

 中国語で、「对不起duìbùqǐ 抱歉!bàoqiàn!」、英語で ” I am sorry ! “ の『ごめんなさい!』ほど、言うのに難しい言葉はありません。『親にも、教師にも、警官にも、いっぺんでは言えなかったな!』、もちろん神さまにも言えない言葉が、『ごめんなさい!』だったなと思い返します。この一言が、仲直りをもたらすのですが、「憎しみの思い」は、そうさせません。

 喧嘩別れしたら、仲違いしたら、《先ずすべきこと》があるのです。私たちキリストの教会は、《和解》を勧め、語り、促す様な勤めをする様に召されています。先ず、「創造者との和解」、そして親や兄弟姉妹、友人や隣人との間の「和解」です。それは、〈対人関係〉よりも、《神との関係》の方が重要だからです。正しい神との関係の維持のために、「和解への一歩」を、神の御子イエスさまは仰るのです。

 それは大前提は、《自分との和解》、つまりありのままの自分を愛し、受け入れ、褒めることです。役に立たないこんな俺を選び、赦し、愛し、使ってくださる主の哀れみを知れば、自分の尊さを知ることができるのです。さあ、本気で「仲直り」、「和解」をしましょう。それほど重要なことなのですから。相手に、仲直り拒まれても、神のみ前で、そうすべきです。これが人のすべきことなのでしょう。

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