移民の子たち

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 江戸時代に、村で問題を起こすか、村の掟に反抗して、その村にいられなくなって、飛び出してしまうことを、「逃散」と、小学校で教えてもらいました。山深い所に入って生活したり、大きな街に入り込んだりした様です。幕府は、これを厳禁し、取締まりましたが、それはなくなりませんでした。

 昨年秋、台風による豪雨で、洪水に罹災した私は、畑も田んぼも持ちませんし、住んでいたのが持ち家ではありませんでした。ご好意で避難民の様にして、被災した家で生活をしていたのです。ですから、持ち物は、ほんのわずかでした。身の周りの必要な物を、息子が送ってくれた車に積み込んで、高根沢の倶楽部の二階の客室に避難しました。その俱楽部の責任者のご好意によったのです。

 日本の農村は、今年の大雨の被害と同じで、たびたび洪水に見舞われ、田畑を流され、生活手段を失いました。それで、しかたなく村を去らざるを得ない場合が多くあったのです。

 日本の移民の歴史を見ますと、北米大陸、ハワイ、南米、中国東北部の満洲などに、多くの人たちが移住しています。その移民を決断させた、一つの理由は、その洪水などの天災に遭い、田畑などの生活手段を失ったことだったのです。これまで、カナダのバンクーバーを舞台にした映画、「バンクーバーの朝日」を何度か観ました。移民二世の若者たちが、野球チームを作って、リーグで活躍して行く素敵な物語です。

 “ジャップ"と侮辱される中を、健気に野球を続けていくのです。チームのキャプテン、レジー(礼治)が主人公です。英語を覚えようとも、カナダ人社会に溶け込む努力もしないで、頑なに日本人に固執して、出稼ぎ根性を捨てきれないのがお父さんでした。カナダ人労働者の半分の賃金に甘んじながらも、その収入のほとんどを、本国の貧しい親族へ送金してしまい、家族は大変な生活を強いられます。

 レジーは、製材工場で働き、お母さんが縫い物をし、妹は学校に通いながらお手伝いをしています。投手のロイは、カナダ軍に従軍した父親を、戦争で亡くしていた青年でした。〈出ると負け〉のレジーたちのチームが、這い上がる様にして、バント攻勢などの頭脳プレイをし始めて、勝つ様になっていくのです。《一寸の虫にも五分の魂》で、と言いたいのですが、『野球は楽しいよ・・・野球がやれるんだったり、ここで生まれてよかったと思う!』とレジーが言う様に、みんなは根っから野球が好きなのです。
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 レジーの父親は、『俺たちにはでけんことを、お前はやっちょる!』と新品のグローブを、息子にに買い渡すのです。それは、言葉もできないのに、身ぶり手ぶりだけで、スポーツ用品店で買ったものでした。彼は、『オヤジたちがカナダに来てくれたので、ここにいれることを感謝してる!』と父親に言います。そんな父親からグローブを貰った激励が、レジーのチームの「朝日軍」を優勝に連れて行くのです。

 勝ち進むと、冷ややかな目で見ていた日本人街の人たちの応援が始まって行きます。その年のリーグで、優勝するのです。カナダ人たちも、その「朝日軍」を認めていきます。そんなことのあって、野球を続ける内に、日本軍が中国大陸に進軍し、1941年には真珠湾攻撃が始まり、反日の機運がカナダでも高まるのです。日本人は、〈敵性外国人〉とされ、収容所に送られ、バンクーバーの日本人街は消滅してしまうのです。

 その後、朝日軍は、二度とチームを形作ることはありませんでした。それから、何十年も年月が経った、2003年に、「朝日軍」の果敢な戦いが評価され、カナダ野球の殿堂入りが許されたのです。それは、ほとんどのチームメンバーが、この世を去った後のことでした。

 家内の上の兄は、高校を卒業して、ブラジルに移民しました。日本での話と現地の受け入れ事情とが、随分食い違っていたのだそうです。それでもカナダ移民と同じ様に、歯を食いしばりながら働き、結婚をし、生まれてきた子どもたちを教育させて、苦労の連続でした。義兄は故国に帰ることもなく、現地で亡くなりました。これが日本移民史の一幕なのです。

(「朝日軍」のメンバーと映画化され取りにスチール写真です)

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同門の友

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 「門下生」、「門人」、「同門」,「門生」といった関係があります。“ 世界大百科事典 ” によると、「【門生】中国で一定の師の門に入って学問を修め,名簿に著録された門下生・書生を意味し,漢から六朝期にかけて社会的政治的勢力を形成する。1人の師に仕える門生の数は,数百数千人にのぼる場合があり,彼らは師に対して入門金,謝金を出したが,師からの生活保証はなく,また師の家に居住することもなかった。」とあります。

 中国の古い時代には、一人の師の下に、多くの「弟子」たちがいた様です。ですから弟子同士は、競争相手で、師の愛顧や関心を得るために、競い合って学んだのでしょう。徳川末期の長州藩の萩に、「松下村塾」という学び舎があって、塾長が吉田松陰でした。多くの若者たちが、そこで学び、互いに刺激し合い、競いながら、知恵を得ていたのでしょう。やがて幕末から明治維新、新時代の日本を主導する人材を、この塾から輩出しています。

 私は、専門の学校に行く代わりに、一人の「師」の下で、ほぼ八年間、教えを受け、多くのことを学びました。この師には、入門金を支払うこともなく、学ぶことが許されたのです。一時期、もう二人の同門生がいました。その師には、日本で事業を展開していた友人たちがいて、早い時期に、アメリカの南部・テキサスの街からやって来られた一人の方が、一時帰国された折に、その報告を聞いて、啓発され、同じ幻を持ちながら来日され、協力し合いながら、それぞれに責任を果たしておられました。

 その一人一人の働きの後継者となる、若者たちがいました。その門下生が、与えられた師弟関係を持ちながら、相互に学んだり関係作りがなされていったのです。ですから、「又従兄弟(またいとこ)」の様な関わりのあるのでしょうか。そこに友人関係が生まれ、その門下生間の交わりが、今でも続いています。

 お互いに共通したり、また近い価値観、歴史観、奉仕観を持ちながら、長いこと交わりが続いています。こういった友人関係が、私には与えられているのです。それは二十代から始まりましたから、ほぼ半世紀ほども続く交わりになるでしょうか。良い刺激と敬意とが交わされてきたのです。

 ある時、"Knitting"という関係の仕方を、訪問して来た、私の師の友人が、研修会で話されたことがありました。《編み合わされる関係》を互いに持つ様に奨励したのです。出来上がった関係の中で、互いがなんでも話し合い、指摘し合い、忠告し合う関係を持つ様にとです。それは、私たち門下生には、大きな挑戦だったのです。

 もう少し、華南の街に残りたいとの思いが、私たちにはありましたが、家内が病んで、治療のために、帰国を勧められたのです。もう一日、出国が遅れていたら、あの病状では飛行機の搭乗許可が下りないで、帰れないところでした。長く交わりを持ってきた友人たちの働き掛けがあって、無事に出国でき、帰国の翌々日、獨協医科大学病院に入院できたのです。同門、同信の友人たちの支えで、家内は回復の途上にあります。『今夜が峠です!』と、何度か言われたのに、主治医や研修医や看護師のみなさんを驚かせるほどの回復、《著効》をみせています。

 多くの友、兄弟姉妹、子どもたちに恵まれて、私たちの今があります。

( 住んでいた街を流れる河の上流の風景です)

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 私の愛読書に、「友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。」とあります。

 人は、父や母、兄弟や姉妹との関わりの外に、「友」を求めます。最初は、近所とか同級生の中から、単純な理由から友だちを作ります。それから趣味を共通にしたり、月刊誌を借りたり、親同士が近い関係にあったりで、友だちになったりします。しばらくすると、違うクラスに親しい友人ができたりして、広がりを持ちます。休み時間になると、廊下や校庭で話し合ったりしたのです。中学生や高校生の頃でした。

 大学に行きましたら、山形や大分や北海道から上京してきた同級生と親しくなり、素晴らしい出会いがありました。横浜からの男と出会って、話が合ってしまって、横浜の繁華街を連れ歩かれた日がありました。どこへ行っても、彼の『オス!』で出入りできたのには、驚かされました。

 運動部に誘われたり、政治的学生運動が盛んになり始める頃でしたが、アルバイトに時間を割いていた4年間でした。アルバイト先では、沖縄や東北地方から来ていた、よその学校の学生との出会いがあって、ちょっと違った刺激が吸収できる好い出会いもありました。沖仲仕、土掘り、看板設置、デパート、東京駅でのビュッへへの搬入、監視員、牛乳工場などで、よく働きました。

 社会に出て、働き始めてからは、上司のおじさんたちの間で過ごす時間が多くなって、友人との付き合いの時間は減り、悪友たちとは距離をおき始めて、やがて結婚し、子育てに専心したでしょうか。

 ミケランジェロの彫刻で有名なダビデと言う人は、好い友を何人も持っていた人でした。自分の命の様に愛する友情を示してくれた人もいましたが、その中で一番は、過ちを指摘し、糾弾してくれる友があったことでした。その友によって、彼は生き方を変えることができたのです。

 私にも、そんな友ができたのです。普通には言えない様な内容でも、何でも話せて、何でも聞いてくれて、叱ってもくれる友です。そんな素晴らしい友と出会えたのは最高なことであります。弱さを知った上で、どんな時にも声を掛けてくれ、些細なことで裏切らないのです。人生に楽しさをもたらすなら《楽友》、人生が戦いであるなら共に戦う《戦友》でしょうか。

 中国語を学んでいて知ったのは、日本でいう「親友」を、「好朋友haopengyou」と言うことでした。13年間の中国での生活で出会った「好朋友」が、私たちにいました。この方が、ご婦人同伴で、家内を見舞いに来てくれたのです。このコロナ騒動の始まる、直前のことでした。この友は、私たちが滞華中に、二度大病の中から生き返った方でした。彼は大変忙しく奉仕されていたのに、日本人の私たちへのわだかまりなど全くなく、交わりを与えてくれました。

 好い友は、国境を越え、イデオロギィーを超え、年齢を越えて、喜びや感謝に満ちた交わりを与えてくれたのです。シャイなアジアの男同士でハグができる人です。自分たちの財を、若者たちの育成のために、惜しまずに使っていました。その奉仕に、時々、私たちを招いてくれたのです。来られた時、京都の友人が、一緒に交わるために、駆け付けてくれました。言葉の助けもしてくれるためでした。

 まさに、「朋あり遠方より来る、また楽しからずや(「論語」の「学而編)」で、彼らの訪問で、家内は見違えるほど元気になってしまったのです。彼の故郷の港町にも出掛けたことがありました。その交わりを楽しんだのです。

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1971年に発表されたジョン・デンヴァー等の作詞、作曲、歌唱のカントリー・ソングで、“ Take Me Home, Country Roads ”がありました。

1. Almost heaven, West Virginia,
   Blue Ridge Mountains, Shenandoah River.
   Life is old there, older than the trees,
   Younger than the mountains, blowing like a breeze.
   (Refrain:)
      Country roads, take me home
      To the place I belong,
      West Virginia, mountain momma,
      Take me home, country roads.
2. All my mem’ries gather ‘round her,
   Miner’s lady, stranger to blue water.
   Dark and dusty, painted on the sky,
   Misty taste of moonshine, tear-drop in my eye.
   (Refrain:)
3. I hear her voice, in the morning hours she calls me,
   The radio reminds me of my home far away.
   And driving down the road I get the feeling
   That I should have been home yesterday, yesterday.
   (Refrain:)

カントリーロード この道 ずっとゆけば
あの街に続いてる気がする カントリーロード

一人ぼっち恐れずに 生きようと夢見てた
さみしさ押し込めて 強い自分を守っていこう
カントリーロード この道 ずっとゆけば
あの街に続いてる気がする カントリーロード

歩き疲れ たたずむと 浮かんでくる故郷の町
丘をまく坂の道 そんな僕をしかっている
カントリーロード この道をずっとゆけば
あの街に続いてる気がする カントリーロード

どんなくじけそうな時だって 決して涙は見せないで
心なしか歩調が速くなっていく 思い出けすため
カントリーロード この道 故郷へ続いても
僕は行かないさ 行けない カントリーロード

カントリーロード 明日はいつもの僕さ
帰りたい 帰れない さよなら カントリーロード

 これは、アメリカで流行った歌で、ウエストバージニア州の四番目の「州歌」とされています。“ Route 66 ” というアメリカのテレビ番組が、1860〜64年に全米に放映され、日本でも大きな人気を得たものもあります。二人の若者が、一台の車に乗って、アメリカ合衆国中東部のイリノイ州シカゴと、西部のカリフォルニア州サンタモニカを結んでいた、全長3,755km(2,347マイル)の旧国道を走っていく時の物語でした。

 何かアメリカ版、「東海道中膝栗毛」と言えるでしょうか。これは弥次、喜多の二人の道中記で、十返舎一九が著した滑稽本でした。〈知らない街〉に行ってみたい願望が、誰にでもあるのでしょう。経済効果を促そうと、〈出掛けること〉を、この8月に奨励したのが、仇になって、コロナ感染者が、日本で激増してしまったのは、政策の失敗でした。

 こう言ったご時世では、「耳をすませば」や「ルート 66 」や「膝栗毛」を読んだり、観たりして、代用旅行で、” バーチャル・トリップ “ でもするのがいいかなと思っています。それでもなかったら、半マスクで自転車に跨って、住む街や近隣の街に出掛けて、「かき氷」の旗の下がっている店で、冷たい物や、人気のラーメンでも食べ歩いたらいいかななんて思っています。

 この市内を走る「ふれあいバス」に、100円を払って、入浴施設や花センターなどに出掛けるのを考えていますが、この暑さで駅前のバス乗り場に歩くのも億劫になってしまうのです。秋風が吹き始める時が、来なかった夏は、これまで一度もなかったので、必ずくる時を待つことにしています。

 聞き覚えがあるなと思っていたら、ジブリの「耳をすませば」の初めに流れていたのが、この「カントリー・ロード」の歌でした。多摩川を渡って、カーブをしたところに、京王線の聖蹟桜ヶ丘駅があります。よく自転車で走った駅前ですが、多摩川の河川敷のサイクリング・ロードを利用したり、電車を利用したりしたことがあります。z

(聖蹟桜ヶ丘駅を見下ろししている夜景です)

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苦しみを分け合う

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私の愛読書に、「友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。」とあります。

父と母が、私に《兄二人》、《弟一人》を与えてくれました。よく喧嘩をした兄弟です。本気で喧嘩していた様ですが、どこかで試す思いの籠もった、〈諍い〉や〈相克〉や〈争い〉だったかも知れません。ちょっと激しくなって、殴られたり仕返しをしたりして、タンコブや青痣を作って、大きくなって行ったのだろうと思い返しています。

近所の人たちは、きっと四人の男の子の行く末を案じていたことでしょう。豈図(あにはか)らんや、誰も落ちこぼれになったりも、少年院や刑務所にも行かずに、いつの間にか穏やかになってしまったのです。中央自動車道の予定地に、住んでいた家が含まれ、そう遠くない余所に越さざるを得なくなったのです。

みんな所帯をもってから、子ども時代を過ごした街や近くの街を選んで、住む様になりましたので、私たち兄弟の消息を、みなさんは知っていた様です。そんな《まさかの展開》に、きっと子ども時代を知る隣人は驚いていたのでしょう。十数年前、私だけが、外国住まいになっても、帰国する度に、《兄弟の交わり会》を持ってくれて、帰国した今に至っております。家内と私は、昨年帰国した次第です。

今では退職者であって、それぞれの社会的責任を果たし終えて、あの若かった無鉄砲な時代が、ただ懐かしく思い出されます。上の兄が勤め始めた会社の工場が、静岡県下にあって、遊びに行ったことがありました。寮で夕食をご馳走になったのですが、豆腐の厚揚げを生姜醤油で食べる様にと出てきました。母が作らなかった料理で、実に美味しかったのです。兄は、数年後に東京本社勤務で営業部に配属され、さらにそこを辞めて、育った街の倶楽部で、50年ほどの働きを終えました。

次兄は、高校卒業と同時に、千葉県下の運輸系の会社に就職し、東京の夜間大学通っていました。兄の会社にも遊びに行き、悪戯をして、本社から兄が、私のために叱られた様です。大学卒業後は、外資系ホテルに就職し、名うてのホテルマンとして終えました。その経験から、時々講演依頼があって、今でも出掛けている様です。

二つ違いの弟は、体育教師をし、管理職を務めて終えました。今頃でしたか、生徒を引率して、千葉の海岸で合宿があった時、台風の影響で遊泳ができず、浜で遊んでいた三人の高校生が、波にさらわれてしまったのです。その時、まだ若かった弟は、荒れ狂う海に飛び込んで、二人を救助して、残るもう一人のために海に入ろうとしましたら、地元の漁師に、『あんたも死んでしまう!』と力づくの羽交い締めにされて止められて、救助できず、一人を死なせてしまいました。それは痛恨の経験でした。

そんな過去があって、今はみな静かな老後を、好々爺然として過ごしています。お嫁さんたちが入れないとぼやくほどに、四人が仲良くしているのは、両親の愛の賜物なのでしょうか。戦中戦後の経済や物資が手に入りにくい厳しい中、東京本社から帰ると、やせ細っていた父のことを、母がよく語っていました。社会的な責任を果たしつつ、4人の子を育て上げてくれたことには、感謝の思いが尽きません。

三度の食事、洗濯から家事全般、学校から呼び出されて、一緒に叱られてくれ、一言も文句なしに育て上げてくれた母があっての今の4人です。「わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。」との訓戒が思い出されて参ります。

(〈フリー素材〉で、母がよく作ってくれた「ちらし寿司」です)

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 今日は、次男の夫人のお父様の「葬儀」に参列のために、船橋に行ってきました。67歳だそうで、まだまだ生きていて戴きたかった方でした。やはり人が召されるのは寂しいものです。42年連れ添われて奥様にとっては、急なお別れだったそうで、ただ、お力落としのなきようにとだけしか、言えませんでした。

 家に帰って来て、久し振りの遠出で疲れたのか、ゴロッと畳の上に横になってしまいました。最近はスニーカーで出歩くのですが、今日は革靴を履いて外出しましたら、三度の乗り換えで、改札へ走って入ったり、それで、帰り道に足がつってしまったのです。こんなことは、これまでなかったのですが、自転車は乗るのですが、脚力が弱くなってしまった様です。歩かないといけない様です。

 ゴロリから覚めたのは、足がつったからでした。高校の運動部以来のことでした。そうしましたら、昔流行っていた歌の歌詞が、思いの中に湧き上がってきたのです。作詞が福山たか子、作曲がフランシス座波の「別れの磯千鳥」が流行ったのが、1961年初頭でした。

逢うが別れの はじめとは
知らぬ私じゃ ないけれど
せつなく残る この思い
知っているのは 磯千鳥

泣いてくれるな そよ風よ
希望抱いた あの人に
晴れの笑顔が 何故悲し
沖のかもめの 涙声

希望の船よ ドラの音に
いとしあなたの 面影が
はるか彼方に 消えて行く
青い空には 黒けむり

 この歌は、恋の別れですが、この歌詞の最初の部分が、死別と重なって悲しいのです。人生は、出会いと惜別の物語なのでしょうか。父と死別した日は、入院中の父の退院の日でした。『準ちゃん、驚かないでね!』と、勤め先の学校に、母が電話をくれたのです。まさに、『孝行したい時に、親はなし!』で、愛してくれた父の死は悲しさでいっぱいでした。泣き通しで、病院に駆けつけました。

 自分が果たせなかった夢を、子に託すというのは、よくあることなのでしょう。私立中学に入学させられ、某大学を目指して学ぶ様にとの、父や担任からの期待を背に中学生になった私は、〈十四歳の危機〉を乗り越えられないで、親にも担任にも裏切りをしたのです。

 不肖の息子の私の結婚式が終わってから、通勤の小田急線の電車の急停車で、くも膜下出血を起こし、入院し、一度は退院したのですが、じっとしてられない性格で、近所のボヤで消化などを手伝ったのがよくなくて、再入院していて、その病院で亡くなったのです。その父の死を、嫁御のお父様が亡くなられて思い出したのです。

 お父様は、国税庁に勤めておられ、金丸信事務所のガサ入れに参加したそうです。マスコミが待ち受ける中、誰が最初に出ていくかを決める時、お父様が、最初に出て、マスコミのフラッシュを浴びたそうです。『ビデオ残ってますか?』とお聞きしたら、『探せませんでした!』と仰っていました。

 お父様は、温厚な方で、仕事熱心で、お二人のお嬢様を育て上げられた方です。二度、ご一緒に家内や次男夫婦で会食をしただけでした。私たちが、中国にいましたので、なかなか、お会いできなかったからです。ご遺族のお慰めを祈りながら、葬儀に出させて戴きました。魂の安らかならんことを願い、ご主人を送られた御奥様、お父様を送られたお嬢様方の家族の平安を願って、帰路につきました。やはり、「逢う」が、人とのお別れになるのですね。嫁御の瞳に涙が溢れていました。

(〈フリー素材〉の行く夏の風物誌に花火です)

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私の終戦

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 『戦争中だったら、予科練に志願したかった!』と、母に、中学生の私は言ったことがありました。そう言った私に、母は、『海軍兵学校に行った方がいいわ!』と応えました。予科練は一兵卒、広島の江田島には、海軍士官養成の士官学校があったので、母の思いを知って、少々意外でした。

 娘時代、母が憧れた人は、江田島兵学校の学生だったからです。腰に短剣を下げて、詰襟の制服を凛々しく着こなした、紅顔の美少年たちでした。母の古ぼけた写真集に、それと思しき青年の写真があったのです。父に出会う前の、十代の母の憧れの人だった様です。

 母は普通の娘で、軍人家族ではなかったのですが、戦時下では、今様のアイドルは、軍人、兵学校の学生だったのでしょうか。国防に命を捧げた青少年たちの大きな犠牲の上に、今の時代があるのでしょう。いつの世も、敵も味方も、青年たちが戦さ場に赴き、尊い命を国にために捧げたのでした。

 戦争を聞いてしか知らない、戦争末期生まれの私は、父が軍需産業に従事した技師だったのですが、熱烈な軍国主義者ではないのに、叔父の仇を打つこと、多くの命を奪った敵国に復讐をしたいと思ったほど、自分が軍国少年を気取っていたのは、実におかしなことでした。

終戦を八ヶ月で迎えた私は、父が軍務を果たすため、家族と中部山岳の山中にいました。聞いたことはありませんでしたが、どんな思いで、父と母は終戦を迎えたのでしょうか。「十七文字の禁じられた想い〜戦争が終わった日の秀句1000〜(塩田丸男編著)」に、次の様な俳句があります。

 戦終わる児等よ机下より這い出でよ

 おさげ髪ぱらっと解いて敗戦日

 敵機こないこんなに広い夏の空

 流星やまざと脳裏に日本の地図

 なにもかも終わる愛馬の汗をふく

 内地、外地、戦場で詠んだ1000句は、私の8ヶ月目の日の出来事を知らせてくれたのです。どなたも実に重い言葉と思いとで詠んでいます。『もう、あんな酷い、理不尽な体験を、誰にもさせたくない!』という想いが伝わってきて、酷暑の夏空を見上げたところです。

(〈フリー素材〉の真夏の積乱雲の青い空です)

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同泣の勧め

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 ただ今5時半、今朝は、少し凌ぎやすいでしょうか。朝方4時前に、冷房のスイッチを切って、窓を開け放ちました。この数日は、熱帯夜の連続でしたが、一息ついて、ゴミ出しをしてきました。勢いよく、ベランダで朝顔が咲いてくれました。四種類ほどの色や形状の違う花を見せてくれます。

 きっと、『今日も元気で!』と言いたいのかも知れません。久しぶりに電車に乗れそうで、幼稚園児の遠足の気分と、姻族の悲しみに寄り添う想いが交錯しています。愛読書に、『泣く者といっしょにに泣きなさい!』とあります。ご主人を、お父様を亡くされたご家族と、共にいるために、8時過ぎの電車で上京し、三度乗り換えて式場にまいります。

前兆

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 『終わりの日にどの様な前兆があるか?』について、「古の書」に、次の様に記されてあります。

「大地震があり、方々に疫病やききんが起こり、恐ろしいことや天からのすさまじい前兆が現われます。」

 それは、人を恐れさせるためにではなく、どう、これらと対処するかについての勧めなのです。先日、お昼ご飯を摂っていると、〈地震情報〉があって、『和歌山県南部で地震がありました。震度3で、この地震で津波の心配はありません!』とのことでした。また、ガクンと底に落ちる様に感じる地震もありました。

 昨年正月に帰国してから、華南の街と日本との大きな違いは、〈頻発する地震〉なのです。滞華中に一度だけ、台湾沖に起こった地震が大陸を揺らした、大きな地震だけでした。7階に住んでいる友人が、夕食に招いてくれて、卓を囲んでいる時でした。大きく揺れて、生まれてから何度となく揺れる経験をしていても、とても驚いたのです

 また「方々に疫病・・・が起こり」と言うのは、まさに今、〈新コロナウイルス〉の猛威に、世界中が翻弄されている様を言い当てているにちがいありません。世界での感染者は、2071万人と、今朝の統計発表で人数が示されています。東京の医師会の尾崎治夫会長は、次の様に言っています。

 『東京都医師会から本当にお願いしたいのは、いますぐに国会を召集して、法改正の検討していただきたい。ここ何日間かの流れを見ていると、人口比で東京をはるかに上回る感染確認者が愛知、大阪、福岡、沖縄でも出ている。是非こうしたことを、夏休み中だからどうこうではなくて、本当にこういうことを、国会を開いて議論してもらいたい。私は今が感染拡大の最後のチャンスだと思っている(7月30日の記者会見で)。』と強く語っていました。

 これは医療現場にいる専門家の切々たる弁です。経済活動や人の移動を、一定期間休止している間に、広く検査をして、感染を止める努力が大切だというのです。〈go to 何とか〉が、旅行王手と政界の大物との間で決められて、実施されたことが、八月に入っての感染拡大の原因だそうです。経済は、人が生きて、健康でなければ、正常に活動しないのですから、本末転倒です。

 みんなが忍んで、この時を過ごすなら、さしものコロナの勢いも、弱くなっていくに違いありません。この私も、日本橋の主治医に診てもらう必要がありながら、地元の医師に代わって診てもらう、小さな努力をしています。みなさんが、そう言った選び取りと決断とで、日常を非日常に置き換えて生きているのです。
 
 さらに「飢饉・・・恐ろしいことや天からのすさまじい前兆」も起こっています。人と人との愛が冷え込んでいたり、赦し合えない人と人、国と国、民族と民族が、戦い傷つけ合っています。地球の変動、気象異常なども、激しさを増していきます。「古の書」の記す通りに、起こっているかの様です。そうすると今は、心備えの最後の時なのかも知れません。尾崎医師会長は、《最後のチャンス》とまで言われています。

 今日は、次男夫人のお父様が、亡くなられて、「告別式」が、千葉県下で行われます。滞華で留守をしていたり、家内が病んだりで、二度ほどご一緒に食事をしたことがあるだけでした。お母様、次男夫婦、お姉様ご家族と、共にいて差し上げたく、お慰めを申し上げたくて、参列いたします。半年ぶりの上京です。

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 二十代に、「新の墓にて」という本を読みました。日本が大陸に進出して、「王道楽土」を実現し、「八紘一宇」、「五族共和」を掲げて、満洲国を建設しました。経済的な進出で、市場や資源獲得での侵略でしたが、満州人の地に、多くの開拓農民が移住し、未開の大地を開墾し始めました。

 満州支配の政策が行われていく中に、伝道がなされていきました。東亜同文書院に学んだ、山口高等商業学校の助教授の福井二郎が、職を辞して、満州熱河(ねっか/rehe)に赴きます。その働きに共鳴した、沢崎賢造もまた、京都大学での助手の職を辞し、その働きに加わります。承徳の街から蒙古まで出掛け、その働きを一段落し、家に帰ると、息子の新(あらた)が召されて、その葬儀が行われていたのです。その悲しみの中で、沢崎は、この書を著すのです。

 『蒙古伝道―
それは余りにも重々しき言葉
小さき旅に
小さき死が  供えられたり
愚かなる父を励ますため
この児は  死を以て
再び帰へることなきよう
我が脚に  釘打てり』

 賢造自身は、終戦の8月、承福の奥地に出掛けたまま、その消息を絶ってしまいます。満州に住む人々を愛し、搾取や強奪ではない、尊い働きに殉じたのです。福井は終戦後帰国するのですが、熱河でのことは黙したままでした。沢崎は純粋にその業に従い、命を捧げたのです。

 沢崎が、『荒野には声がある!』と言いました。命の生出ることない、不毛の荒地に、人の心が感じ取れる声があることを言ったのです。彼は常日頃、好んで荒地に出ていくことが多かったそうです。静まって、その天来の声を聞いたのでしょう。その神秘性に、まだ若かった私は、強く惹かれたのです。『人の声のない所こそ、私の《聞くべき声》がある!』と思わされたのです。

 コロナ旋風に荒れ狂う中に、その沢崎の言葉を思い出したのです。様々な言葉が、あらゆるメディアを通して発信されています。聞くほどに混乱させられる声声に、思惑も、面子も、儲け話もあって、聞くに値しません。思いを静めたら、《聞くべき声》に出会いそうです。

 私の母の幼馴染みが、その熱河の働きに参加していたことを聞きましたが、その消息は、母から聞かずじまいでした。明治学院大学国際平和研究所は、この熱河での働きは、植民地支配の「国策」の一環としての業であったと、文献研究をまとめて発表しています。どの様な動機も、純粋に仕えようとした志は、忘れてはならないのでしょう。新は、私と同世代でした。