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 今日は、次男の夫人のお父様の「葬儀」に参列のために、船橋に行ってきました。67歳だそうで、まだまだ生きていて戴きたかった方でした。やはり人が召されるのは寂しいものです。42年連れ添われて奥様にとっては、急なお別れだったそうで、ただ、お力落としのなきようにとだけしか、言えませんでした。

 家に帰って来て、久し振りの遠出で疲れたのか、ゴロッと畳の上に横になってしまいました。最近はスニーカーで出歩くのですが、今日は革靴を履いて外出しましたら、三度の乗り換えで、改札へ走って入ったり、それで、帰り道に足がつってしまったのです。こんなことは、これまでなかったのですが、自転車は乗るのですが、脚力が弱くなってしまった様です。歩かないといけない様です。

 ゴロリから覚めたのは、足がつったからでした。高校の運動部以来のことでした。そうしましたら、昔流行っていた歌の歌詞が、思いの中に湧き上がってきたのです。作詞が福山たか子、作曲がフランシス座波の「別れの磯千鳥」が流行ったのが、1961年初頭でした。

逢うが別れの はじめとは
知らぬ私じゃ ないけれど
せつなく残る この思い
知っているのは 磯千鳥

泣いてくれるな そよ風よ
希望抱いた あの人に
晴れの笑顔が 何故悲し
沖のかもめの 涙声

希望の船よ ドラの音に
いとしあなたの 面影が
はるか彼方に 消えて行く
青い空には 黒けむり

 この歌は、恋の別れですが、この歌詞の最初の部分が、死別と重なって悲しいのです。人生は、出会いと惜別の物語なのでしょうか。父と死別した日は、入院中の父の退院の日でした。『準ちゃん、驚かないでね!』と、勤め先の学校に、母が電話をくれたのです。まさに、『孝行したい時に、親はなし!』で、愛してくれた父の死は悲しさでいっぱいでした。泣き通しで、病院に駆けつけました。

 自分が果たせなかった夢を、子に託すというのは、よくあることなのでしょう。私立中学に入学させられ、某大学を目指して学ぶ様にとの、父や担任からの期待を背に中学生になった私は、〈十四歳の危機〉を乗り越えられないで、親にも担任にも裏切りをしたのです。

 不肖の息子の私の結婚式が終わってから、通勤の小田急線の電車の急停車で、くも膜下出血を起こし、入院し、一度は退院したのですが、じっとしてられない性格で、近所のボヤで消化などを手伝ったのがよくなくて、再入院していて、その病院で亡くなったのです。その父の死を、嫁御のお父様が亡くなられて思い出したのです。

 お父様は、国税庁に勤めておられ、金丸信事務所のガサ入れに参加したそうです。マスコミが待ち受ける中、誰が最初に出ていくかを決める時、お父様が、最初に出て、マスコミのフラッシュを浴びたそうです。『ビデオ残ってますか?』とお聞きしたら、『探せませんでした!』と仰っていました。

 お父様は、温厚な方で、仕事熱心で、お二人のお嬢様を育て上げられた方です。二度、ご一緒に家内や次男夫婦で会食をしただけでした。私たちが、中国にいましたので、なかなか、お会いできなかったからです。ご遺族のお慰めを祈りながら、葬儀に出させて戴きました。魂の安らかならんことを願い、ご主人を送られた御奥様、お父様を送られたお嬢様方の家族の平安を願って、帰路につきました。やはり、「逢う」が、人とのお別れになるのですね。嫁御の瞳に涙が溢れていました。

(〈フリー素材〉の行く夏の風物誌に花火です)

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私の終戦

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 『戦争中だったら、予科練に志願したかった!』と、母に、中学生の私は言ったことがありました。そう言った私に、母は、『海軍兵学校に行った方がいいわ!』と応えました。予科練は一兵卒、広島の江田島には、海軍士官養成の士官学校があったので、母の思いを知って、少々意外でした。

 娘時代、母が憧れた人は、江田島兵学校の学生だったからです。腰に短剣を下げて、詰襟の制服を凛々しく着こなした、紅顔の美少年たちでした。母の古ぼけた写真集に、それと思しき青年の写真があったのです。父に出会う前の、十代の母の憧れの人だった様です。

 母は普通の娘で、軍人家族ではなかったのですが、戦時下では、今様のアイドルは、軍人、兵学校の学生だったのでしょうか。国防に命を捧げた青少年たちの大きな犠牲の上に、今の時代があるのでしょう。いつの世も、敵も味方も、青年たちが戦さ場に赴き、尊い命を国にために捧げたのでした。

 戦争を聞いてしか知らない、戦争末期生まれの私は、父が軍需産業に従事した技師だったのですが、熱烈な軍国主義者ではないのに、叔父の仇を打つこと、多くの命を奪った敵国に復讐をしたいと思ったほど、自分が軍国少年を気取っていたのは、実におかしなことでした。

終戦を八ヶ月で迎えた私は、父が軍務を果たすため、家族と中部山岳の山中にいました。聞いたことはありませんでしたが、どんな思いで、父と母は終戦を迎えたのでしょうか。「十七文字の禁じられた想い〜戦争が終わった日の秀句1000〜(塩田丸男編著)」に、次の様な俳句があります。

 戦終わる児等よ机下より這い出でよ

 おさげ髪ぱらっと解いて敗戦日

 敵機こないこんなに広い夏の空

 流星やまざと脳裏に日本の地図

 なにもかも終わる愛馬の汗をふく

 内地、外地、戦場で詠んだ1000句は、私の8ヶ月目の日の出来事を知らせてくれたのです。どなたも実に重い言葉と思いとで詠んでいます。『もう、あんな酷い、理不尽な体験を、誰にもさせたくない!』という想いが伝わってきて、酷暑の夏空を見上げたところです。

(〈フリー素材〉の真夏の積乱雲の青い空です)

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