苦しみを分け合う

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私の愛読書に、「友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。」とあります。

父と母が、私に《兄二人》、《弟一人》を与えてくれました。よく喧嘩をした兄弟です。本気で喧嘩していた様ですが、どこかで試す思いの籠もった、〈諍い〉や〈相克〉や〈争い〉だったかも知れません。ちょっと激しくなって、殴られたり仕返しをしたりして、タンコブや青痣を作って、大きくなって行ったのだろうと思い返しています。

近所の人たちは、きっと四人の男の子の行く末を案じていたことでしょう。豈図(あにはか)らんや、誰も落ちこぼれになったりも、少年院や刑務所にも行かずに、いつの間にか穏やかになってしまったのです。中央自動車道の予定地に、住んでいた家が含まれ、そう遠くない余所に越さざるを得なくなったのです。

みんな所帯をもってから、子ども時代を過ごした街や近くの街を選んで、住む様になりましたので、私たち兄弟の消息を、みなさんは知っていた様です。そんな《まさかの展開》に、きっと子ども時代を知る隣人は驚いていたのでしょう。十数年前、私だけが、外国住まいになっても、帰国する度に、《兄弟の交わり会》を持ってくれて、帰国した今に至っております。家内と私は、昨年帰国した次第です。

今では退職者であって、それぞれの社会的責任を果たし終えて、あの若かった無鉄砲な時代が、ただ懐かしく思い出されます。上の兄が勤め始めた会社の工場が、静岡県下にあって、遊びに行ったことがありました。寮で夕食をご馳走になったのですが、豆腐の厚揚げを生姜醤油で食べる様にと出てきました。母が作らなかった料理で、実に美味しかったのです。兄は、数年後に東京本社勤務で営業部に配属され、さらにそこを辞めて、育った街の倶楽部で、50年ほどの働きを終えました。

次兄は、高校卒業と同時に、千葉県下の運輸系の会社に就職し、東京の夜間大学通っていました。兄の会社にも遊びに行き、悪戯をして、本社から兄が、私のために叱られた様です。大学卒業後は、外資系ホテルに就職し、名うてのホテルマンとして終えました。その経験から、時々講演依頼があって、今でも出掛けている様です。

二つ違いの弟は、体育教師をし、管理職を務めて終えました。今頃でしたか、生徒を引率して、千葉の海岸で合宿があった時、台風の影響で遊泳ができず、浜で遊んでいた三人の高校生が、波にさらわれてしまったのです。その時、まだ若かった弟は、荒れ狂う海に飛び込んで、二人を救助して、残るもう一人のために海に入ろうとしましたら、地元の漁師に、『あんたも死んでしまう!』と力づくの羽交い締めにされて止められて、救助できず、一人を死なせてしまいました。それは痛恨の経験でした。

そんな過去があって、今はみな静かな老後を、好々爺然として過ごしています。お嫁さんたちが入れないとぼやくほどに、四人が仲良くしているのは、両親の愛の賜物なのでしょうか。戦中戦後の経済や物資が手に入りにくい厳しい中、東京本社から帰ると、やせ細っていた父のことを、母がよく語っていました。社会的な責任を果たしつつ、4人の子を育て上げてくれたことには、感謝の思いが尽きません。

三度の食事、洗濯から家事全般、学校から呼び出されて、一緒に叱られてくれ、一言も文句なしに育て上げてくれた母があっての今の4人です。「わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。」との訓戒が思い出されて参ります。

(〈フリー素材〉で、母がよく作ってくれた「ちらし寿司」です)

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