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 二十代に、「新の墓にて」という本を読みました。日本が大陸に進出して、「王道楽土」を実現し、「八紘一宇」、「五族共和」を掲げて、満洲国を建設しました。経済的な進出で、市場や資源獲得での侵略でしたが、満州人の地に、多くの開拓農民が移住し、未開の大地を開墾し始めました。

 満州支配の政策が行われていく中に、伝道がなされていきました。東亜同文書院に学んだ、山口高等商業学校の助教授の福井二郎が、職を辞して、満州熱河(ねっか/rehe)に赴きます。その働きに共鳴した、沢崎賢造もまた、京都大学での助手の職を辞し、その働きに加わります。承徳の街から蒙古まで出掛け、その働きを一段落し、家に帰ると、息子の新(あらた)が召されて、その葬儀が行われていたのです。その悲しみの中で、沢崎は、この書を著すのです。

 『蒙古伝道―
それは余りにも重々しき言葉
小さき旅に
小さき死が  供えられたり
愚かなる父を励ますため
この児は  死を以て
再び帰へることなきよう
我が脚に  釘打てり』

 賢造自身は、終戦の8月、承福の奥地に出掛けたまま、その消息を絶ってしまいます。満州に住む人々を愛し、搾取や強奪ではない、尊い働きに殉じたのです。福井は終戦後帰国するのですが、熱河でのことは黙したままでした。沢崎は純粋にその業に従い、命を捧げたのです。

 沢崎が、『荒野には声がある!』と言いました。命の生出ることない、不毛の荒地に、人の心が感じ取れる声があることを言ったのです。彼は常日頃、好んで荒地に出ていくことが多かったそうです。静まって、その天来の声を聞いたのでしょう。その神秘性に、まだ若かった私は、強く惹かれたのです。『人の声のない所こそ、私の《聞くべき声》がある!』と思わされたのです。

 コロナ旋風に荒れ狂う中に、その沢崎の言葉を思い出したのです。様々な言葉が、あらゆるメディアを通して発信されています。聞くほどに混乱させられる声声に、思惑も、面子も、儲け話もあって、聞くに値しません。思いを静めたら、《聞くべき声》に出会いそうです。

 私の母の幼馴染みが、その熱河の働きに参加していたことを聞きましたが、その消息は、母から聞かずじまいでした。明治学院大学国際平和研究所は、この熱河での働きは、植民地支配の「国策」の一環としての業であったと、文献研究をまとめて発表しています。どの様な動機も、純粋に仕えようとした志は、忘れてはならないのでしょう。新は、私と同世代でした。

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