移民の子たち

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 江戸時代に、村で問題を起こすか、村の掟に反抗して、その村にいられなくなって、飛び出してしまうことを、「逃散」と、小学校で教えてもらいました。山深い所に入って生活したり、大きな街に入り込んだりした様です。幕府は、これを厳禁し、取締まりましたが、それはなくなりませんでした。

 昨年秋、台風による豪雨で、洪水に罹災した私は、畑も田んぼも持ちませんし、住んでいたのが持ち家ではありませんでした。ご好意で避難民の様にして、被災した家で生活をしていたのです。ですから、持ち物は、ほんのわずかでした。身の周りの必要な物を、息子が送ってくれた車に積み込んで、高根沢の倶楽部の二階の客室に避難しました。その俱楽部の責任者のご好意によったのです。

 日本の農村は、今年の大雨の被害と同じで、たびたび洪水に見舞われ、田畑を流され、生活手段を失いました。それで、しかたなく村を去らざるを得ない場合が多くあったのです。

 日本の移民の歴史を見ますと、北米大陸、ハワイ、南米、中国東北部の満洲などに、多くの人たちが移住しています。その移民を決断させた、一つの理由は、その洪水などの天災に遭い、田畑などの生活手段を失ったことだったのです。これまで、カナダのバンクーバーを舞台にした映画、「バンクーバーの朝日」を何度か観ました。移民二世の若者たちが、野球チームを作って、リーグで活躍して行く素敵な物語です。

 “ジャップ"と侮辱される中を、健気に野球を続けていくのです。チームのキャプテン、レジー(礼治)が主人公です。英語を覚えようとも、カナダ人社会に溶け込む努力もしないで、頑なに日本人に固執して、出稼ぎ根性を捨てきれないのがお父さんでした。カナダ人労働者の半分の賃金に甘んじながらも、その収入のほとんどを、本国の貧しい親族へ送金してしまい、家族は大変な生活を強いられます。

 レジーは、製材工場で働き、お母さんが縫い物をし、妹は学校に通いながらお手伝いをしています。投手のロイは、カナダ軍に従軍した父親を、戦争で亡くしていた青年でした。〈出ると負け〉のレジーたちのチームが、這い上がる様にして、バント攻勢などの頭脳プレイをし始めて、勝つ様になっていくのです。《一寸の虫にも五分の魂》で、と言いたいのですが、『野球は楽しいよ・・・野球がやれるんだったり、ここで生まれてよかったと思う!』とレジーが言う様に、みんなは根っから野球が好きなのです。
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 レジーの父親は、『俺たちにはでけんことを、お前はやっちょる!』と新品のグローブを、息子にに買い渡すのです。それは、言葉もできないのに、身ぶり手ぶりだけで、スポーツ用品店で買ったものでした。彼は、『オヤジたちがカナダに来てくれたので、ここにいれることを感謝してる!』と父親に言います。そんな父親からグローブを貰った激励が、レジーのチームの「朝日軍」を優勝に連れて行くのです。

 勝ち進むと、冷ややかな目で見ていた日本人街の人たちの応援が始まって行きます。その年のリーグで、優勝するのです。カナダ人たちも、その「朝日軍」を認めていきます。そんなことのあって、野球を続ける内に、日本軍が中国大陸に進軍し、1941年には真珠湾攻撃が始まり、反日の機運がカナダでも高まるのです。日本人は、〈敵性外国人〉とされ、収容所に送られ、バンクーバーの日本人街は消滅してしまうのです。

 その後、朝日軍は、二度とチームを形作ることはありませんでした。それから、何十年も年月が経った、2003年に、「朝日軍」の果敢な戦いが評価され、カナダ野球の殿堂入りが許されたのです。それは、ほとんどのチームメンバーが、この世を去った後のことでした。

 家内の上の兄は、高校を卒業して、ブラジルに移民しました。日本での話と現地の受け入れ事情とが、随分食い違っていたのだそうです。それでもカナダ移民と同じ様に、歯を食いしばりながら働き、結婚をし、生まれてきた子どもたちを教育させて、苦労の連続でした。義兄は故国に帰ることもなく、現地で亡くなりました。これが日本移民史の一幕なのです。

(「朝日軍」のメンバーと映画化され取りにスチール写真です)

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