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 私の愛読書に、「友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。」とあります。

 人は、父や母、兄弟や姉妹との関わりの外に、「友」を求めます。最初は、近所とか同級生の中から、単純な理由から友だちを作ります。それから趣味を共通にしたり、月刊誌を借りたり、親同士が近い関係にあったりで、友だちになったりします。しばらくすると、違うクラスに親しい友人ができたりして、広がりを持ちます。休み時間になると、廊下や校庭で話し合ったりしたのです。中学生や高校生の頃でした。

 大学に行きましたら、山形や大分や北海道から上京してきた同級生と親しくなり、素晴らしい出会いがありました。横浜からの男と出会って、話が合ってしまって、横浜の繁華街を連れ歩かれた日がありました。どこへ行っても、彼の『オス!』で出入りできたのには、驚かされました。

 運動部に誘われたり、政治的学生運動が盛んになり始める頃でしたが、アルバイトに時間を割いていた4年間でした。アルバイト先では、沖縄や東北地方から来ていた、よその学校の学生との出会いがあって、ちょっと違った刺激が吸収できる好い出会いもありました。沖仲仕、土掘り、看板設置、デパート、東京駅でのビュッへへの搬入、監視員、牛乳工場などで、よく働きました。

 社会に出て、働き始めてからは、上司のおじさんたちの間で過ごす時間が多くなって、友人との付き合いの時間は減り、悪友たちとは距離をおき始めて、やがて結婚し、子育てに専心したでしょうか。

 ミケランジェロの彫刻で有名なダビデと言う人は、好い友を何人も持っていた人でした。自分の命の様に愛する友情を示してくれた人もいましたが、その中で一番は、過ちを指摘し、糾弾してくれる友があったことでした。その友によって、彼は生き方を変えることができたのです。

 私にも、そんな友ができたのです。普通には言えない様な内容でも、何でも話せて、何でも聞いてくれて、叱ってもくれる友です。そんな素晴らしい友と出会えたのは最高なことであります。弱さを知った上で、どんな時にも声を掛けてくれ、些細なことで裏切らないのです。人生に楽しさをもたらすなら《楽友》、人生が戦いであるなら共に戦う《戦友》でしょうか。

 中国語を学んでいて知ったのは、日本でいう「親友」を、「好朋友haopengyou」と言うことでした。13年間の中国での生活で出会った「好朋友」が、私たちにいました。この方が、ご婦人同伴で、家内を見舞いに来てくれたのです。このコロナ騒動の始まる、直前のことでした。この友は、私たちが滞華中に、二度大病の中から生き返った方でした。彼は大変忙しく奉仕されていたのに、日本人の私たちへのわだかまりなど全くなく、交わりを与えてくれました。

 好い友は、国境を越え、イデオロギィーを超え、年齢を越えて、喜びや感謝に満ちた交わりを与えてくれたのです。シャイなアジアの男同士でハグができる人です。自分たちの財を、若者たちの育成のために、惜しまずに使っていました。その奉仕に、時々、私たちを招いてくれたのです。来られた時、京都の友人が、一緒に交わるために、駆け付けてくれました。言葉の助けもしてくれるためでした。

 まさに、「朋あり遠方より来る、また楽しからずや(「論語」の「学而編)」で、彼らの訪問で、家内は見違えるほど元気になってしまったのです。彼の故郷の港町にも出掛けたことがありました。その交わりを楽しんだのです。

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