61歳の学生証を

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 中国へ、留学生として、「漢語」の学びに出掛けたのが、61歳の時、夫婦のセットでの語学留学でした。まず香港で、1週間過ごしたのです。シンガポールで働いていた長女が、通訳者として来てくれました。中国語を学ぶためにでしたが、香港では英語でしたので、説教する機会もあって、その週の間、元看護師や大学教授や医師やビジネスマンの30人ほどの留学生が一緒でした。

 香港の自然の中の施設で、美味しいご馳走や学びもあったのです。娘はシンガポールに飛行機で帰り、私たちは、九龍駅から北京駅までの中国横断の国際寝台列車に乗ったのです。みんな若いイギリス人、ブラジル人などと一緒でした。朝、通路の椅子に腰掛けて聖書を読んでいましたら、5、6人のグループの一人の青年が、『それはバイブルですか?』と聞いてきたのです。それで会話が始まり、台湾から来て、北京に行くと言っていました。台湾系のブラジル人でした。

 私たちのグループにも、ブラジル人がいると言いましたら、『母が、連絡してきて親戚のデニーズが北京に行くそうなんです!』と言ったのです。同行のブラジル人が、デニーズでした。それで彼女をベッドから起こして、『親戚がここにいる様ですよ!」と言ったら、寝ぼけ顔で起きてきて、大喜びで母国語の中国語とポルトガル語でえの会話をし始めたのです。従兄弟だったのです。こんな親族の出会いが、異国の地を走る国際列車の中であるのに、私たちも驚いたのです。

 台湾系のブラジル人たちで、北京で、祈ったり集会を開くと言っていました。私たちは、北京近郊の街から、小型バスの迎えを得て、所定の宿舎に連れて行ってもらったのです。夜が遅かったのですが、もう休める様に準備をして迎えてくれたのです。すでに数年、そこで過ごしておいでのドイツ人の若い夫婦が、暖かく迎えてくれたのです。

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 9月の上旬が、中国の新学年の始まりで、イギリス人と中国人の校長二人で、10人ほどの教師がおいで、語学学校を経営しておいででした。外国人のための宿舎は、自転車で20分ほどに所にあったでしょうか、しっかり管理と監視がありました。まず、自転車を買いに連れて行ってもらったのです。みなさん自転車で、リヤカー付きに自転車もあって、子どもたちを乗せて、学校や事務所を往復していました。

 そこに一年いたでしょうか。楽しいひと時を過ごしたのです。一緒に賛美したり、祈ったり、集会を持ちました。日曜日には、大きな劇場の様なところで、礼拝が持たれていました。パスポートを見せて入場するのです。その街に外国人のためだけの、政府の許可を得た集会場でした。

 ビジネスマンや大学の教師、学生が集っていて、現地人は参加できませんでした。宿舎は、ホテルの様で、七階の部屋が与えられたのです。エレベーターなどなくても、元気に家内も私も、日に何度も降りたり昇ったりしました。近所に「市場shichang」と呼ばれるマーケットがあって、そこで食材とか必要品を買ったのです。

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 同じ宿舎のみなさんを呼び合ったり、学校の担当の教師をお招きして食事会をもったり、家にも招いてくださって、親しい交わりがありました。体の不自由な方に、歩行器や補助車などを作る指導をされていたイギリス人のご婦人が隣人で、時々交わりをしたり、アメリカ人の夫妻、イギリス人の夫妻、ニュージーランドからの夫妻、オーストラリヤ人の男性などとの交流がありました。

 医科大学の教師をされている人たちも、学校か政府が、特別に住まいを提供されているのでしょうか、その様な家にも招いて頂いたこともあったのです。外に住んでいる方たちとの交わりもあったのです。あっという間の濃密な一年を、そこで過ごしました。

 その一年の間に、次男が二度も、老いて隣国に行った両親が、どんなふうに過ごしているかを確かめに訪ねてくれたのです。自分の荷物を持たないで、大きなズタ袋の様な物に、何やら日本で、いっぱいに買い込んで運んでくれたのです。北京の飛行場から、スマホ一台を手に、タクシーに乗ってでした。嬉しい訪問でした。

 それから華南の地に移って、12年間を過ごし、都合13年の隣国の滞在でした。今日、整理していましたら、書類の引き出しの中から、「学生証」が出てきて、それで、その20年ほど前の一年が懐かしく思い出されたのです。とても充実していたからでしょうか、思い出が溢れてきたのです。

(本物の学生証、中文維基百科の現在の九龍駅、天津市五大路です)

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品格や高潔さを吟味しなくては

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 政府の財務省に、新紙幣の肖像画に関する規定があって、次の様に公表されています。

 紙幣の肖像については、近年の改刷では、

(1)偽造防止の観点から、なるべく精密な写真を入手できること、(2)肖像彫刻の観点からみて、品格のある紙幣にふさわしい肖像であること、(3)肖像の人物が国民各層に広く知られており、その業績が広く認められていること、このことを踏まえて、明治以降の人物から選ばれています。

 1958年(昭和33年)に初めて発行された一万円札には、飛鳥時代(593〜710年の118年間)に活躍した人物で、「聖徳太子」が選ばれました。大阪の街中のターミナル鉄道駅で、「天王寺駅」がありますが、その名の寺院を建立した人物だったのです。さらに、「十七ヶ条憲法」をまとめ、国の骨格を定めてもいて、遣隋使を派遣した人でもありました。

 この聖徳太子の肖像で、両手にしている「笏(しゃく)」を見て、『アイスクリームをこんな大きなヘラにつけて食べられたらいいなあ!』と、次女が言ったことがありました。その娘は、今、二児の母として、終盤の親業に励んでおります。

 さらに、1984年(昭和59年)と2004年(平成16年)に発行された時に、「高額紙幣として、品格のある紙幣にふさわしい肖像であり、また、肖像の人物が一般的にも、国際的にも、知名度が高い明治以降の文化人であること。」とされ、それに相応しかったのが、この福沢諭吉でした。

 この福沢は、豊前国(今の大分県に当たります)の中津藩の武士で、幕府の使節として、欧米に派遣された時に、その文化に触れて、あの「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずといへり。」と言う言葉を紹介しています。さらに、「されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり。」と続けています。

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 つまり「学ぶか、学ばないかによって、人の違いが生まれる」ということです。福沢諭吉は、それだけ学びが重要という考えを持っていた人物で、慶應義塾を起こし、教育的な面で貢献しています。

 2024年7月3日に、福沢諭吉の肖像から改刷、発行された新一万円札の肖像は、渋沢栄一でした。「私は、あくまでも尊徳先生の遺されたる4ヶ条の美徳(至誠、勤労、分度、推譲)の励行を期せんことを希(ねが)うのである。」と述べています。さらに、「企業が利益を追求するのは自然なことだが、お金儲けのベースには、常に道徳心がなくてはいけない(「道徳経済合一説」によります)。」とも言ったそうです。

 この人は、近代日本の発展のために尽くしたと言われて、「日本資本主義の父」だと、高く評価されています。これまで、この人は、肖像候補にされたにもかかわらず、没になってきて、やっと令和の世になって、岸田前首相の時代に選ばれているのです。

 「道徳心」の涵養をスローガンに掲げながらも、心を制したり、欲望を統御できずに、多くの妻妾(妻以外に夜伽として囲われる女性を言います)を持った男だったのです。経済発展への貢献は大きかった裏側で、そんな生き方をしていたことの表裏矛盾を、私は、自分の孫たちにどう理解させ、納得させたらいいのでしょうか。

 福沢諭吉が選ばれる基準の「品格」は、それから30年経って、考慮されなくなってしまったのでしょうか。そんなことよりも、経済面や商業面での貢献だけが、岸田政権下で評価されてしまったのは、見境のない時代を反映していたのでしょうか。繁栄だけを求めたり、目標とされることが国家目的で、そんなに誇れない下品極まりない男に、令和の子どもたちのモデルになって欲しいのでしょうか。紙幣を飾る人として、品格や人格の高潔さを吟味する必要がありそうです。

(ウイキペディアの「世界の紙幣」、「アメリカ硬貨です)

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今はひとりぼっちではない

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 ヘルマン・ヘッセが、次の様なことばを残しています。

「人生とは孤独であることだ。だれも他の人を知らない。みんなひとりぼっちだ。自分ひとりで歩かなけねばならない。』

 父と母によって生を受け、この二親の愛によって育てられ、やがて二親から離れて、私は独立しました。天職を得て働き、妻を備えられて、子たちを得ました。彼らを育てて独立させ、再び妻と二人で暮らし、やがて、どちらかが先立って離れて行き、一人になるのでしょう。

 思い返してみますと、激励され、褒められ、叱責され、また助けられて、自分も「一人」の人となりました。それでも、矢張り何時でも「独り」だったのです。二親や兄弟や友達がいて賑やかでも、「独り」という思いを味わったのです。ですから、ヘッセが言う様に、「ひとりぼっち」さを感じております。

 それは、孤立しているのではないのです。父や母におぶってもらった思い出があり、肩を組み合った仲の良い友だちがいて、一緒に生活をした妻がいて、子どもたちをおぶったり抱いたりしたこともあるのです。でも、それは時々の経験で、独り寝をしたり、独り食をとったりしている時、独りでいる様に感じたのです。夜、ベッドの毛布にくるまって寝ている時も、目覚める時にも、やっぱり「独り」なのです。

 「一人」と「独り」とは違います。「一人」は、集団の大人数に対しての単単位で、比較的な表現でしょうか。また「独り」は、「孤独」の様に、ポツンと一人で寂しくいる状態です。「独」の旧字は、「獨」で、「犭」偏に「蜀」の作りの漢字で表していました。「犭」は、犬を意味していて、犬に似た獣や、異民族への蔑称、野獣的な行為などを意味してできた漢字です。「蜀」は、芋虫や青虫、蛾を意味していて、中国の四川省を「蜀の国」と呼んでいます。

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 聖書には、こう記されています。

 『私は再び、日の下にむなしさのあるのを見た。 ひとりぼっちで、仲間もなく、子も兄弟もない人がいる。それでも彼のいっさいの労苦には終わりがなく、彼の目は富を求めて飽き足りることがない。そして、「私はだれのために労苦し、楽しみもなくて自分を犠牲にしているのか」とも言わない。これもまた、むなしく、つらい仕事だ。 ふたりはひとりよりもまさっている。ふたりが労苦すれば、良い報いがあるからだ。 どちらかが倒れるとき、ひとりがその仲間を起こす。倒れても起こす者のいないひとりぼっちの人はかわいそうだ。 また、ふたりがいっしょに寝ると暖かいが、ひとりでは、どうして暖かくなろう。 もしひとりなら、打ち負かされても、ふたりなら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。(新改訳聖書 伝道者4章7~12節)」

 誰も、独りでいるのには耐えられないからです。それで、誰もが「友」を求めるのです。「孤高の人」と言う様な表現があります。人々の間で抜きんじていて、他と違った気高さを感じさせる人を、そう言います。他人に左右されたり影響されないで、独立した人なのかも知れません。一人で生きていける人です。

 それとは違って、協調性の欠けている人を、そう言うこともありそうです。良い意味では、他者に感化されずに、自分一人で立ち続けて、一人で、独りでも生きていける人のことです。

 弟子たちに理解されずに、一人残されたイエスさまは、ひたすら、カルバリーの十字架に向かって進んで行かれました。やがて、ご自分を信じる人たちの救いのために、その孤独な道を歩み続け、救いの道を完成されたのです。

 人には理解されなかったのですが、イエスさまには理解者がいました。

『神が天を堅く立て、深淵の面に円を描かれたとき、わたしはそこにいた。 神が上のほうに大空を固め、深淵の源を堅く定め、 海にその境界を置き、水がその境を越えないようにし、地の基を定められたとき、 わたしは神のかたわらで、これを組み立てる者であった。わたしは毎日喜び、いつも御前で楽しみ、(箴言8章27~30節)』

『今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。(ヨハネ17章5節)』

 父なる神さまこそ、イエスさまの唯一の理解者だったのです。天地の万物が創造された時に、御父の「かたわら」におられたと記されてあります。

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 ところが、

『あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石になった。(マルコ12章10節)』

『すると、みながイエスを見捨てて、逃げてしまった。(同14章50節)』

 イエスさまは、3年半共に歩み、共に生活をした弟子たちに見捨てられてしまいます。

『そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。(15章34節)』

 そればかりではなく、御父に「見捨てられ」てしまうのです。十字架の上で、罪のそのものとなってしまわれたイエスさまから、御父は目を逸らされました。ずっと見続けられ、交わりを持ち続けてきたのに、イエスさまが十字架で罪そのものとなられてしまった時に、その瞬間、御父は罪となられたイエスさまを静視できなかったからです。

 イエスさまは、十字架の上で死なれ、墓に葬られました。ところが蘇られたのです。死と墓とを打ち破られたのです。今は、御父のみそばにおいでです。そこで、私たち信じたものたちのために、執り成しの祈りをしていてくださり、助け主なる聖霊をお送りくださり、私たちを迎える場所を設け、それが用意されたら迎えにきてくださると約束しておられるのです。

 罪のないお方が、罪とされたことによって、人の救いが完成しました。私は、17歳で信仰告白を、22歳でバプテスマを受けましたが、Back slide(脱線)していました。しかし、25歳の時に、聖霊のバプテスマの経験をした時、救いを確信させられたのです。それ以来、八十になった今も、その確信は動じません。

『また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28章20節)』

 私にも友がいます。親友と言う友もいます。しかし、私を、『友よ!』と呼びかけ続けてくださるイエスさまがいてくださるのです。決して裏切らないで、目を逸らしたりしない真正の友です。だから、人に裏切られ、嫌われても、孤独や孤立を経験しても、「ひとりぼっち」ではないのです。

(Christian clip artsのイエスさまのイラストです)

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『いと小き者の一人になしたるは』

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 かつて「東野鉄道」という鉄道会社が、那須地方にあって、旧国鉄の西那須野駅から黒羽(くろばね)駅の24.4kmの軌道を走っていました。主に農業生産物の輸送と、近くにできた陸軍の飛行場へ物資を搬入、人の輸送をするために開通した鉄道だったそうです。1968年には、無用になったのか廃線になっています。

 この東野鉄道の終点の黒羽は、那珂川という河川が近くに流れています。江戸時代には、「黒羽藩」の城下町でした。江戸からは、そう遠くなく、地方の一万八千石の小藩でした。それでも幕末には、藩主の大関氏が、幕府の要職に就き、重要な職務にあたっていたのです。

 この那珂川では、栃木市の巴波川と同じ様に、「舟運(しゅううん)」が行われていたと言われています。黒羽町は、平成の合併で、大田原市に編入されているのです。その大田原市の広報に、次の様にあります。

『近世中期の頃から明治の終わり(鉄道開通)頃まで、那珂川には帆かけ船(小鵜飼船)や筏による舟運が行われた。黒羽の属する東野地方は、利根川水系の文化圏に属し、江戸と結ばれ、奥州街道の開通によって、南奥(白河、会津方面)にまで商圏を拡大していた。輸送の経路は黒羽から常陸の野田や長倉を通じて水戸に入り、更に一部陸送し、北浦を南下し、利根川をさかのぼって江戸へと、廻米等の物資輸送が行われ、常陸、野州、奥州の文化経済交流の役を果たしていた。黒羽には両河岸(上河岸・下河岸)があり、天保4年(1833年)頃の持ち船は46艘を数え、主な輸送物資は、米、酒、しょう油、たばこ、茶、絹糸、木材等で、帰りの荷は海産物が主で、乗合にも利用されていた。現在、下河岸跡には石垣と水神を祀る小祠が老松の傍らに残っている。河原は河川公園となっている。』とあります。

 ここ黒羽は、芭蕉が訪ねた地でもあり、「奥の細道」の行程が、150日ほどでしたが、14日間(13泊14日)も滞在したことになります。禅の修行をした時の恩師が、この地に滞在したことがあったとかで、懐かしさもあったり、また門弟がいたりで、句会を開いたことにより、長期に及んだのだそうです。「那須の黒羽(奥の細道)」の部分です。

 『那須の黒ばねと云所に知人*あれば、是より野越にかゝりて、直道をゆかんとす。遥に一村を見かけて行に、雨降日暮る。農夫の家に一夜をかりて、明れば又野中を行。そこに野飼の馬あり。草刈おのこになげきよれば、野夫といへども、さすがに情しら ぬには非ず。「いかヾすべきや。されども此野は縦横にわかれて、うゐうゐ敷旅人の道ふみたがえん、あやしう侍れば、此馬のとヾまる所にて馬を返し給へ」とかし侍ぬ。ちいさき者ふたり、馬の跡したひてはしる。独は小姫にて、名を「かさね」と云。聞なれぬ名のやさしかりければ、

 かさねとは八重撫子の名成べし  曾良

 頓て人里に至れば、あたひを鞍つぼに結付て馬を返しぬ。』

 この黒羽町のある那須地域は、那須与一に始まり、多くの逸材を生み出し、外部から多くの人たちがやって来て、不毛地の開拓など近代化への事業を残しています。その中でも、この黒羽藩の家老、大関増虎の娘、「和(ちか)」は黒羽で生まれ、長じては近代日本の看護婦会の働きなどを担った婦人でした。亀山美智子の著した「大風のように生きて(ドメス出版社刊)」に、そう記されてあります。

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 和は、幕末の1858年(安政5年)5月23日に生まれ、19歳で、次席家老の息子と結婚し、二児を産んでいます。夫の身持ちが悪く、和から三行半を突きつけて、離婚し、子の養育を母親に託して、明治14年(1881年)に上京し、英語習得のために正美英学塾に通います。その頃、出会った植村正久牧師の勧めにより、同20年1月、桜井女学校(現在に女子学院の前身です)附属看護婦養成所に入学し、その第一期生(鈴木雅など6人)の一人となりました。

 明治21年(1888年)10月26日に看護婦養成所を卒業した和は、そのまま帝国大学医科大学第一医院(現東大病院)の外科の看病婦取締(看護婦長)となりました。明治23年には退職の上、年末、新潟県の高田女学校舎監兼伝道師として同校へ赴任しています。その後、明治29年夏、東京に戻り、秋には東京看護婦会講習所講師となります。植村正久(後の富士見町教会の牧師になっています)と出会い、彼に師事し、バプテスマを受けてキリスト者となります。

 惨めな境遇を生きる婦人たちを解放するための「廃娼」や「一夫一婦」を掲げた、婦人の解放の活動をした、「キリスト教婦人矯風会」の働きにも、和は加わっています。明治の日本女性としては、画期的な歩みをしたことになります。

『なんぢら我が飢ゑしときに食はせ、渇きしときに飮ませ、旅人なりし時に宿らせ、  裸なりしときに衣せ、病みしときに訪ひ、獄に在りしときに來りたればなり」  ここに、正しき者ら答へて言はん「主よ、何時なんぢの飢ゑしを見て食はせ、渇きしを見て飮ませし。  何時なんぢの旅人なりしを見て宿らせ、裸なりしを見て衣せし。  何時なんぢの病みまた獄に在りしを見て、汝にいたりし」  王こたへて言はん「まことに汝らに告ぐ、わが兄弟なる此等のいと小き者の一人になしたるは、即ち我に爲したるなり」(文語訳聖書 馬太福音書25章35-40節)』

 和は、「明治のナイチンゲール」と言われ.たそうです。植村牧師は、いつも泣いては相談に来た和を、「ナキチンガエル」との渾名(あだな)をつけたという逸話も残されています。黒羽で過ごしていた若い頃には、馬に乗って、武家屋敷から出て、原野を走り回るほど、男まさりだったそうです。我が家においでになるご婦人のお母さまは、この黒羽の出身で、那珂川で獲れる鮎の甘露煮をいただいたことがありました。

 明治維新前夜に生を受け、創造者に出会って、信仰者となり、婦人の待遇や評価を高める働きを果たし、自らも職業婦人として生きて、1934年5月23日に亡くなるまで、江戸、明治、大正、昭和を走り抜けて、74年の生涯を終えて、神さまの元に帰っていったのです。2026年の春のNHK朝ドラ「風、薫る」の主人公は、この大関和です。

(ウイキペディアの那須の地の那珂川の航空写真、国立国会図書館デジタルコレクションによる大関和です)

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『春よ来い!』の思いで

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 「あさかぜ」、1960年代の後半のことです、旧国鉄時代に、何度も利用した、東京と博多を走った特急寝台列車の名前です。東京と長崎を走ったのが「さくら」で、これも、博多を通りましたので利用した覚えがあります。大分行きは「富士」でしたが、後に、西鹿児島まで延伸されていて、これは利用したことがありませんでした。

 新幹線の登場で、今では、この寝台特急、「ブルー・トレイン」のほとんどが消えてしまっていますが、寝台に横になりながら、レールの上を走る車輪の音や揺れや停車駅のアナウンスを聞きながら、なかなか寝付かれなかったのですが。二、三度乗車するうちに、その音が子守唄のようになっていったのを思い出します。

 普通寝台の「B寝台」は、2段だったと思いますが、けっこう狭く、列車の車輪とレールの摩擦の金属音が強く、今の様にレールが繋がれていない時代でした。それでも何度か利用するうちに、子守唄の様に聞こえて、熟睡できる様になっていたのです。

 その特急電車には、食堂車がついていましたから、同行した、父の世代の研究員の方と一緒に、車窓から景色を眺め、揺られながら摂った朝食が美味しかったのです。50数年前の懐かしい思い出になっています。

 ある研究団体の職員となった私は、九州地区の研修会、福岡県、熊本県の県単位の研修会に、事務局の係のために出張をした折の出来事なのです。3年間在籍した職場でしたが、なぜか九州に行くことが多かったのです。

 今、東京と出雲の間に、この寝台特急が復活したのでしょうか、「サンライズ出雲」が走り、岡山で、併結されていた「サンライズ瀬戸」と切り離されて、山陽線の倉敷駅から伯備線、山陰本線経由で運転されています。

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 母の故郷ですから、運行が開始されてから、一度乗ってみたいと思いつつ、叶えられずにおります。でも親戚もありませんので、これからも機会があるでしょうか。子どもの頃に、蒸気機関車に牽引された「出雲(優等列車と言われていたそうです)」で、何時間かかったのでしょうか、恐ろしく長くて退屈だった旅をしたのを思い出します。

 福知山駅とか余部(あまるべ)鉄橋などの通過個所の名を覚えています。4人の子どもたちを母は連れてでした、兄たちは、人混みをかき分けて、空いていた車掌室に潜り込んでいたそうです。それでも長旅で、母は、駅弁を買ったり、飲み物を買い与えたり、弟や私をトイレに連れて行ったりの世話をしてくれたのでしょう。まだ母は、若かったのでできた様です。

 あの石炭の燃えた煙と匂いが立ち込めていた、車両の中での匂いや有様が、70数年も経った今でも蘇ってくるのです。今運行されているサンライズ出雲には、簡単に仕切りされていて、横になって休める「ノビノビ座席(簡易寝台)」があるそうです。さまざまな利用ができるような工夫がなされているのです。

 そんな今風の旅を、昔を懐かしみながら利用してみたい願いがありますが、できるでしょうか。よく買って愛読した「時刻表」を、また買い求め、寝転びながら見たら、至福の時となりそうですね。『春よ来い!』の思いでいる私です。

(ウイキペディアのサンライズ出雲、「あさかぜ」、余部鉄橋です)

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楽しく迎えたい思いで

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陽を浴びて まさか夏かと 思いおり 明日に北風 強く吹くかも

 「ふれあい」と言う名をいただいた、市バスに乗って、昨日は買い出しをしたのです。零下5℃もあった一月の最後の日でした。暖房の入った車内は暑くて、運転手さんは、『暑くないですか?暖房切りましょうか?』と言われて、同意をしました。

 窓から入る陽の光が強く、もう車内は春の到来の様でした。『オゾン層がフィルターにならなくなったのでしょう!』と、運転手さんに言いましたら、『そうですね!』との返事が返ってきました。これまで、コロナに罹らなかったこと、インフルエンザに若い頃一度だけかかったことなど、共通に話題で、家族のことまで話し合うのです。

 いつも小型バスは乗客は自分一人、それで、こんな会話が交わされるのが常なのです。プロの観光バスの運転を続けてきて、今は市バスの担当をされているのだそうです。そんな経験まで話してくれる運転手さんなのです。

 けっこう孤独な仕事の様です。利用客が少なくないのは、何かもったいないなと、利用するたびに思うのです。葉付き大根、泥付きネギ、朝ついたお餅、スティック・ブロッコリー、梅干し、おにぎりなどを、道の駅で、買いました。

 帰りも、終点からターンして来た、同じバスに乗りました。東武鉄道の駅前のカーブで、右折しようとしましたら、ご婦人の運転した大きめの乗用車が、カーブミラーで確認しないで、右折方向に突っ込んできて、車の頭を出したのです。本来は、手前で停車して、バスの右折を迎え待たなければならないのです。それが公共バスと行き合う時に、道交法で決められた運転ルールなのだそうです。

 『ご婦人の運転は、だいたいこんななんです!』と、その車をやり過ごした後で言っておいででした。もちろん、この運転手さんも、女性のお母さんから生まれて来ましたが、蔑んで言ったのではなく、傾向や運転の仕方を話しただけでした。それから、「一時停車義務」などの自動車運転の講義をしてくれたのです。

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 話好きで、いつも乗車のたびに、会話を交わすのです。自分が栃木県人ではないこと、家内が病んで、大学病院での入院治療で、この地に住み始めたこと、13年ほどの中国の生活など、聞かれるままに、乗車のたびに話してきているのです。

 もう一人の方と、同じ路線で交代勤務をされていて、その運転手さんは、前職の経験など、どこに住んでるとか、子どもの頃のことなどを話してくれるのです。そう、「袖触れ合うも他生の縁」と言われるのですが、黙って乗っているのではなく、バスの中での交流がなされるほど、時間がゆっくり流れているのを感じる年齢になったからでしょうか。

 昨日は、久しぶりの利用でしたので、ペットボトルのお茶を、差し入れて差し上げました。嬉しそうに感謝をして受け取られたのです。『ご無事で。ありがとうございました!』と言って、イオンモールで下車して、別路線のバスに乗り継いで帰宅しました。

 帰宅して、家内が作ってくれた昼食を食べ終わりましたら、大宮からお客様がおいでになられたのです。家内とよく電話をし合っているご婦人が、突然、車で訪ねて来られたのです。そんな変化のある昨日でした。

 さあ、今日から、「如月(きさらぎ)」、春二月になりました。梅の香りが漂って来そうですが、もう蝋梅が咲き始めたニュースがありました。韓国の大統領の逮捕後の動きに、目が離せませんし、アメリカの新大統領の新施策、新首相に我が国の今後も、何か大変そうです。大風、大嵐が吹くでしょうか。でも、歴史を最終的に支配されるには、天地万物の創造者の神さまです。

 ロウバイから始まって、これから開花のニュースを聞きつつ、迎える春を、今を楽しく迎え過ごしたい思いでいっぱいです。

(ウイキペディアの蝋梅、栃木市営バスです)

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