「あさかぜ」、1960年代の後半のことです、旧国鉄時代に、何度も利用した、東京と博多を走った特急寝台列車の名前です。東京と長崎を走ったのが「さくら」で、これも、博多を通りましたので利用した覚えがあります。大分行きは「富士」でしたが、後に、西鹿児島まで延伸されていて、これは利用したことがありませんでした。
新幹線の登場で、今では、この寝台特急のほとんどが消えてしまっていますが、寝台に横になりながら、レールの上を走る
車輪の音や揺れや停車駅のアナウンスを聞きながら、なかなか寝付かれなかったのですが。二、三度乗車するうちに、その音が子守唄のようになっていったのを思い出します。
普通寝台の「B寝台」は、2段だったと思いますが、けっこう狭く、列車の車輪とレールの摩擦の金属音が強く、今の様にレールが繋がれていない時代でした。それでも何度か利用するうちに、子守唄の様に聞こえて、熟睡できる様になっていたのです。
その特急電車には、食堂車がついていましたから、同行した、父の世代の研究員の方と一緒に、車窓から景色を眺め、揺られながら摂った朝食が美味しかったのです。50数年前の懐かしい思い出になっています。
ある研究団体の職員となった私は、九州地区の研修会、福岡県、熊本県の県単位の研修会に、事務局の係のために出張をした折の出来事なのです。3年間在籍した職場でしたが、なぜか九州に行くことが多かったのです。
今、東京と出雲の間に、この寝台特急が復活したのでしょうか、「サンライズ出雲」が走り、岡山で、併結されていた「サンライズ瀬戸」と切り離されて、山陽線の倉敷駅から伯備線、山陰本線経由で運転されています。
母の故郷ですから、運行が開始されてから、一度乗ってみたいと思いつつ、叶えられずにおります。でも親戚もありませんので、これからも機会があるでしょうか。子どもの頃に、蒸気機関車に牽引された「出雲(優等列車と言われていたそうです)」で、何時間かかったのでしょうか、恐ろしく長くて退屈だった旅をしたのを思い出します。
福知山駅とか余部(あまるべ)鉄橋などの通過個所の名を覚えています。4人の子どもたちを母は連れてでした、兄たちは、人混みをかき分けて、空いていた車掌室に潜り込んでいたそうです。それでも長旅で、母は、駅弁を買ったり、飲み物を買い与えたり、弟や私をトイレに連れて行ったりの世話をしてくれたのでしょう。まだ母は、若かったのでできた様です。
あの石炭の燃えた煙と匂いが立ち込めていた、車両の中での匂いや有様が、70数年も経った今でも蘇ってくるのです。今運行されているサンライズ出雲には、簡単に仕切りされていて、横になって休める「ノビノビ座席(簡易寝台)」があるそうです。さまざまな利用ができるような工夫がなされているのです。
そんな今風の旅を、昔を懐かしみながら利用してみたい願いがありますが、できるでしょうか。よく買って愛読した「時刻表」を、また買い求め、寝転びながら見たら、至福の時となりそうですね。『春よ来い!』の思いでいる私です。
(ウイキペディアのサンライズ出雲、「あさかぜ」、余部鉄橋です)
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