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私は、「落語」が好きで、学校に行けないで、ラジオに育てられたので、この落語をよく聴きました。みなさん話術、間の取り方に長けておいででした。惜しくも早く亡くなられた、若い頃に聞いた金原亭馬生、兄貴的な立川談志、古今亭志ん朝などの噺は、極めて優れていると思っていました。廓噺(くるわばなし)や、呑み助の噺が多いのですが、人を、思わず吹き出させるほどに、屈託なく笑わせる話術は芸術の域なのです。
とくに、金原亭馬生と古今亭志ん朝の兄弟、あの志ん生の息子たちの落語は、素晴らしいと思っています。志ん生が、満州に兵隊さんの慰問に、2年も出かけていたからでしょうか、家庭を顧みない残された家族は極貧だったそうです。その様子を、馬生が、次の様に思い返しています。
『幼いころ家が貧しかった。寒さで夜、眠れない自分のために、母は近所の人から古い湯たんぽをもらってきてくれて、「おそば屋さんに行ってお湯をもらっておいで」といった。不慣れなそば屋に入りそびれ、外で震えていると、通りがかりの男の人が声をかけてくれた。そば屋の人に、お湯を頼んでもくれた。店には天ぷらそばをうまそうに食べている客がいて、馬生少年は思わずジーッと見入ってしまう。すると、その客は店の人に怒鳴った。「おいこのガキに早く湯をやれ、そばがまずくなっちまうよ」。馬生は帰りの夜道を湯たんぽを抱いて、泣きながら歩いたという(「わたしとおそば」から)』
この「貧しさ」が、この人の噺(はなし)に味を添えていたのでしょう、渋い味が人情噺にあったのです。一芸を為す人には、貧しい経験が、益になるのでしょうか。野球だって同じです。苦労人という人がいたのです。稲尾和久というピッチャーがいました。こんな話を残しておいでです。
『薄い板一枚隔てて、下は海。いつ命を落とすか分からない小舟に乗る毎日だったが、おかげでマウンドでも動じない度胸がつきました!』とです。また、強靭な下半身は、この漁の手伝いによって培われたわけで、276勝もした名投手でした。性格も穏やかで、多くのフアンがいて、慕われていたのです。
『苦労は買ってでもしろ!』、わが家の4人の子たちに、安易に生きるよりも、苦労をすることを願って育てたつもりですが、つらかった話を、ぽつりぽつりと話してくれる年齢に、彼らがなってきたようです。
三年ぶりに帰って来た長女と、県北の那須地方に、彼女の運転で、家内と三人で旅行をしました。家内の恩師が中心になって始めた「アジア学院」を訪ねたのです。何もなかった原野を切り拓いて、農業指導者の養成を、五十年続けてきたと、案内をしてくださった職員の方がおっしゃっていました。
国内外、とくに東南アジアからみなさんが多く、有機農法で、穀物や野菜や果物、養豚や養鶏をされてきておいでです。広い敷地の、門のそばに、稲の田植えを終えた田んぼが広がっていました。その田んぼに鴨が泳いでいたのです。これも農薬を使わない農法の一つで、聞いてはいましたが、実際に鴨の泳ぐ姿を見て、感動的でした。巴波の流れを泳いで、観光客に餌をねだるのとは段違いだったのです。
地域のみなさんとの軋轢もあったり、資金繰りもあって、その五十年の運営は苦労が多かったのでしょう。自然農法を実践する真摯な農業人がいて、目の青い欧米人の指導者やボランテアのみなさんが、イキイキと働いておいででした。出来上がった米や小麦粉で作った醤油や煎餅やクッキーを買い求めて、帰って来ました。
ここにも「苦労」を、苦労としない人たちの夢や理想の跡が見られて、素晴らしい時でした。栃木に来て以来、家内の願いが叶えられて、長女の運転のレンターカーでの訪問でした。そういえば、その「那須野が原」は、人の住めない原野だったのが、入植して水路を開き、開墾し、青々とした田んぼや牧場が、今家広がっていました。明治人の強靭な心や肉体、そして開拓魂が感じられたのです。
(「アジア学院」の看板と咲く菖蒲の花です)
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