[街]浜北市(浜松市浜北区)

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 遠江浜北、今では、浜松市に合併されていますが、結婚した頃から、何年か続けて正月を、そこで過ごした思い出の地なのです。回り道でしょうか、逃げていたのでしょうか、《捕まえられた》のです。それが一番的確に、そのことを表していると思われます。首根っこを摘み上げられて、この世から、「神の国」に移された経験、イエスが「キリスト」であることを、分からされた日から、教会の日曜ごとの礼拝や季節ごとの聖会に、忠実に集い始めたのです。

 それまでは、信仰告白をし、バプテスマを受けたのですが、back slide していた時期に、九州の久留米に、上の兄を訪ねた日から、まるで cage の中に、ニワトリが〈追い込まれる〉かのように、私は追い込まれた素敵な世界でした。私の日常が変わっていき、悪い生活習慣から離れさせていただき、嘘のように変えられて生き始めた epoch  (基点)、さらに通過点の街なのです。

 JR浜松駅から、遠州鉄道で、西鹿島駅で降りた辺りが、浜北でした。東名自動車道のバス停で下車して、行ったこともありました。その近くに結婚式場があって、そこを会場に開かれた「聖会」に出掛けたのです。元旦に母教会で礼拝があって、新しい年を始め、その流れで、宣教師仲間の諸教会が、九州、愛知、東京、地元の静岡から、やってきて、そこで三泊四日ほどの会期で行われた「聖会」でした。

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 あの遠州の正月の空の青さ、空気のにおい、宣教師夫人の声掛けで、女性陣が食事を作ってくださって、会場や脇部屋や廊下の床に、シートやゴザを敷き、貸布団で寝ながらでした。宣教師のみなさんの友人や、母教会からの牧師や兄弟たち日本人の牧師や伝道者たちが、聖書からお話をしてくれたのです。みんな若かった!

 休み時間には、芝生の上でバレーボールをしたり、近所を探検、散歩をしたのです。街の様子は、ほとんど知りませんでした。その会場の結婚式場が閉鎖されてから、訪ねることはありませんが、ああ言った交わりに、圧倒され、祝された街でした。思い出の中に色濃く、強烈の残っております。福岡県の久留米市、そしてこの浜北市は、記念的に、特別に記憶されているのです。

 あの聖会を主催してくださった宣教師さんは帰天され、切り盛りしてくださった奥さまは、今年100歳になられ、アメリカのお子さんの家で、今も創建で過ごしていらっしゃいます。

(「青い空」、お土産に買った「うなぎパイ」です)

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苺落とし

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 仙台の青葉城を訪ねたことがありました。耳鼻科の名医がいると紹介され、鼓膜の再生手術を受けるために、四日ほど、市内の病院に入院したのです。聞きしに勝る手術の上手なお医者さんでした。そこを退院後に、この城を見学したのです。城跡に、独眼竜と呼ばれた伊達政宗の銅像がありました。

 武士の世界には、「元服(げんぷく)」という節目の儀式がありました。これは、「成人式」で、中国伝来の大人となる儀式でした。この政宗は、十一歳で「元服」をし、焚天丸(ぼんてんまる)から、「伊達藤次郎政宗」(だてとうじろうまさむね)と改名したと伝えられています。当時、元服年齢には、決まりがなく、各家よって異なっていたそうです。

 嬉々として遊び回りたい年齢の十一歳で、大人扱いをされては、随分と、こども時代が短かかったのではないでしょうか。武家の家では、それだけ、家督を継いだり、父の職を継いでいくことが重んじられ、「家制度」、とくに嫡男の男の子には責任が課されていたのです。

 それは、「自立」への大きな一歩であったのです。自分一人の力で生きていくことを言っているのが、自立、独立でしょうか。親の援助なしで、結婚し、家を構えるなら、それこそが自立です。それまでの親の援助に感謝して、生き始めたのが、22才でした。26才で結婚しました。それまで、家に「食い扶持(くいぶち)」を入れたのですが、父は大変喜んで、それを受け取ってくれました。

 最初に母親に渡した翌日、自分は飲まないビールを買っ来て、食卓に置いてくれました。それを夕食に添え、一緒に飲んでくれたのです。嬉しかったのでしょう。精神的な自立というのは、経済的財政的な自立こそが、実際的なことのでしょう。

 熊の世界に、「またぎ(東北地方・北海道で厳しいしきたりを守りながら集団で狩猟を行う人を言います)」がいますが、この方が言われる「苺落とし」という儀式があるのだそうです。

 野生の熊が、生きていくのは厳しいことですから、母熊は、人生の厳しさを教えるのです。冬眠中に出産して子育てを終えると、山の中に子グマを連れて行き、餌取りを教えるのです。この熊の大好物は、「苺」だそうです。新潟県の「エコミュージアム」の会報に次のようにあります。

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 『新潟県魚沼地方の里山も初夏の装いとなり、アザミの花や美味しそうな桑の実で彩られています。また定点観察地点(エコミュージアム園内ではありません)のオニグルミの実も写真の通り順調に推移しています。オニグルミの青い(緑色の)実はツキノワグマの大好物ですが、里山や河川敷、農道、人家周辺にある「桑の実(クワイチゴ)」もまた子グマの大好物です。ツキノワグマの親子(母グマと子グマ)は出産から約1年半の間行動を共にしますが、子グマが1歳の初夏の頃に「親離れ・子離れ」を迎えます。子育てを終えたメスグマはこの直後にオスグマと交尾し、秋以降の摂食状況(餌資源の獲得量)に応じて子宮内へ受精卵が着床するかどうかが決定されるようです。

 野イチゴが実る初夏の時期は「親離れしたばかりで警戒心の少ない子グマが観察(発見)されやすい季節」でもあります。「野イチゴの盛期」と「ツキノワグマの親離れ・子離れ(ひとり立ち)」を関連付けて、東北のクマ猟師の方々は「母グマが子グマに野イチゴの場所と食べ方を教え」「子グマが野イチゴの美味しさに夢中になっている間に母グマはそっとその場を去り」「初夏にツキノワグマが親離れ、子離れの時期を迎える様子」を、「クマの苺落とし」として情感たっぷりに捉えています。』

 熊の出没が、私が時々行く大平山にもあったと、この冬にニュースが伝えていました。もともとは、熊の棲息域だったのに、そこに人間が入り込んだのだと考えると、熊にとっては迷惑なのでしょうか。大きな音が嫌いな習性がるそうで、人に方が彼らを遠ざける努力をしたらいいかなあって思っています。熊だって生きていくのは厳しいわけで、子熊に生きる術を教え、生きていくための母熊の突き放し、一才半ほどの独立の促し、子熊にとっての「自立」は、親心、やさしさかも知れません。

 次女は、十五才でハワイの高校に入学するために、出かけて行き、親元を離れて行きました。その長男が、今秋大学に入学すると知らせてきました。家を出て、教会の dormitory で生活を始めていくようです。home school で学び終えて、これから家を出ていく息子を見送るのですが、母親は、どんな思いなのでしょうか。川を挟んだ隣町にある学校と教会に行くのです。教会の dormitory は、次女も生活した所です。この自立への一歩を祝福する祖父母の私たちです。

(「オニグルミの実」、「月輪熊」です)

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山上の垂訓を講ずる

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 内村鑑三が、奥羽街道の宿場町であった、栃木県氏家を訪ねています。東北本線の氏家駅で下車した近くの狭間田を訪ね、聖書研究会を開いたことがありました。この地の出身の青木義雄が、在京中に、内村の集会に出ていました。この青木は、実業家・銀行家・政治家で、故郷伝道に内村を招き、内村が聖書から話をしたようです。

 この二人の交流の様子がうかがえる、さくら市の青木義雄生家に、内村からの書簡、書など400点余が遺されているようです。栃木県下の日光、塩谷への内村の旅行、宇都宮での交流があり、内村と栃木の関わりや、青木義雄との公私にわたる深い交友を伝えています。

 「山上の垂訓(マタイの福音書)」から、「聖書の読方」と題して話され、その原稿が残っています(「青空文庫」)

 『聖書は来世の希望と恐怖とを背景として読まなければ了解(わから)ない、聖書を単に道徳の書と見て其言辞(ことば)は意味を為さない、聖書は旧約と新約とに分れて神の約束の書である、而して神の約束は主として来世に係わる約束である、聖書は約束附きの奨励である、慰藉である、警告である、人はイエスの山上の垂訓を称して「人類の有する最高道徳」と云うも、然し是れとても亦(また)来世の約束を離れたる道徳ではない、永遠の来世を背景として見るにあらざれば垂訓の高さと深さとを明確に看取することは出来ない。

「心の貧しき者は福(さいわい)なり」、是れ奨励である又教訓である、「天国は即ち其人の有なれば也」、是れ約束である、現世に於ける貧(ひん)は来世に於ける富(とみ)を以て報いらるべしとのことである。

 哀(かなし)む者は福(さいわい)なり、其故如何? 将(ま)さに現われんとする天国に於て其人は安慰(なぐさめ)を得べければ也とのことである。

 柔和なる者は福(さいわい)なり、其人はキリストが再び世に臨(きた)り給う時に彼と共に地を嗣ぐことを得べければ也とのことである、地も亦神の有(もの)である、是れ今日の如くに永久に神の敵に委(ゆだ)ねらるべき者ではない、神は其子を以て人類を審判(さば)き給う時に地を不信者の手より奪還(とりかえ)して之を己を愛する者に与え給うとの事である、絶大の慰安を伝うる言辞(ことば)である。[中略]

 而して今時(いま)の説教師、其新神学者高等批評家、其政治的監督牧師伝道師等に無き者は方伯等を懼れしむるに足るの来らんとする審判に就ての説教である、彼等は忠君を説く、愛国を説く、社交を説く、慈善を説く、廓清を説く、人類の進歩を説く、世界の平和を説く、然れども来らんとする審判を説かない、彼等は聖書聖書と云うと雖も聖書を説くに非ずして、聖書を使うて自己の主張を説くのである、願くば余も亦彼等の一人として存(のこ)ることなく、神の道を混(みだ)さず真理を顕わし明かに聖書の示す所を説かんことを、即ち余の説く所の明に来世的ならんことを、主の懼るべきを知り、活ける神の手に陥るの懼るべきを知り、迷信を以て嘲けらるるに拘わらず、今日と云う今日、大胆に、明白に、主の和らぎの福音を説かんことを(哥林多後書五章十八節以下)。」

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 内村には、数多くの信仰の弟子が、全国にいたのです。彼は教団や教派などの組織を作りませんでしたし、その頭につくこともありませんでした。形式を嫌い、強制も避けました。内村の信仰の感化力は、今にまでも及んでいるのです。

 《二つのJ 》、Jesus Japan I for Japan ; Japan for the World ; The World for Christ ; And All for God.

 これを掲げて、イエスさまと日本に、自らをささげたのです。このような愛国者がいたこと、しかも、そう公言してやまなかった、正直さこそが、内村の良さなのでしょうか。

 日本という組織は、彼には手厳しく望みましたが、多くの魂を、天地の創造主、全能の父なる神と救い主イエスに導いたのです。その結果、日本の各分野で活躍する有名無名の信仰者を生み出し、育てたのです。悲哀を知り尽くした人でもありました。私たちを導いた宣教師のみなさんに、何か通じるものが感じられるのです。

(さくら市狭間田近辺にあった喜連川人車鉄道の路線図、写真です)

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梅花下野とブーゲンビリア

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 散歩の途中に、この五月になって、ハナミズキの咲き終わってからですが、それに似た白いな花をつけた木をよく見かます。「梅花下野(バイカシモツケ/利休梅とも言います)とも言うそうで、ここ栃木は、下野国ですから、この地に咲いてきた花なのでしょうか。でも伝来は、明治になってからですから、茶道の祖の千利休とは関係がなさそうです。

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そういえば、華南の街では、もう「叶子花 yezihua/ブーゲンビリア)が、街のそこかしこで咲いてうるのでしょう。学校の campus でも、道路の脇でも、低木の垣根の植え込みには、今は盛りの咲っぷりなのではないでしょうか。

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聖書の感化力(山室軍平の講話)

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 ある時一人の上手な掏摸(スリ)があり、東海道から東北にかけ、おもに汽車の中にて仕事をしておったが、それでも「猿も木から落ちる」習い。都合十三度捕らえられて刑務所に入れられたのである。

 十三度目に神戸にて捕えられ、まだ未決に居る間に、はからずも一人の商人と同室することとなった。ところがその商人というのは、あまり大した犯罪をしたわけでもなかったので。もし宅から関係所願を取り寄せて弁明すれば、きっと無罪になるであろうと。

 刑務所から書類をみとめてその妻に送り、『書類を差し入れるように』というてやったところが、妻は一文普通(読み書きができないこと)の女ゆえ、手紙を近所の代書に持って行って読んでもらうと。

 どうした間違いか、「書類」というのを「書物」と読み違えた。そこで妻が思うには、これは刑務所の中で退屈ゆえ、本を読んで気を紛らわそうとするのであろうと。その夜神戸市の夜店をひやかして歩き、無筆(文盲の

意味)のことであるから、ただ紙数が多くて値段の割合安いものをとたずねまわったあげく、なんの書物とも知らずに買い求めたのが、一冊の新約聖書であったのは、不思議というも愚かなことである。

 さてその商人は、そに差し入れられて、意外の思いをなし。『書類をよこせというのに、こんなもになど差し入れて、一体なんの書物でしょうか』と、そばにおる例の十三度のスリに尋ねたのである。

 スリはもとより新約聖書がなんだか知らないけれども、「耶蘇(ヤソ)」だの、「基督(キリスト)」だのと、いうことが沢山書いてあるから。「これは耶蘇の書物に相違ないよ」といいながら退屈しのぎに、マタイ伝の始めから、これを読んでみたが、さっぱりその意味がわからない。

 なおもだんだん読んでいくと、その第九章十二節以下、「健康なるものは医者の助けを求めず、唯病ある者之を需む。我が来るは義(よ)き人を招く為に非ず。罪ある人を招きて悔改めさせんが為なり。」という一句に至り、彼はたちまち電気に打たれるごとく覚えた。而(しか)して思う様、何でもこれは一人の偉いお方があって、自分どものごとき罪深い者を済度(さいど/救うの意味)する為に、この世にお降りなされたということに相違ないと。

 以来、しきりにそのことを思いめぐらし居ると、一方の商人は間もなく愈々(いよいよ)無罪と決まり、その聖書を持って出ていってしまった。あとでスリは、なおも右新約聖書の続きが読みたくてたまらず。「なにとぞお預けした金の中から、一冊の聖書を買うて戴きたい」と願い出ると。

 教誨師のお坊さんが来て、「耶蘇は国賊であるから、そんな書物を読むより御経でも読め」といわれ。また看守が来て、「耶蘇教の本なんか読むより、法律でも調べろ」と叱られるのを。「何が何でも新約聖書を買ってくだされ」と願出たので、終に刑務所に会議にかけられ、その結果ようやく許されて、これを手に入れることができた。

 その後、同人は刑務所に、頻(しきり)にその一巻の新約聖書を読み、放免になって出てきた時には、十数人の仲間の者が、はるばる東京横浜あたりから迎えに来て居ったのを、好加減においかえしてしばらく宿屋に泊まり。種々思案をこらした後、ついにある牧師を訪ねて、耶蘇の救いのお話を聞き。以来心を改めて真面目な基督者となり。それより三十年後の今日は、自分で釈放者保護の事業を経営するほどになったのである。

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喜ぶ者といっしょに喜び

 『喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。(ローマ12章15節)』

 新しい風景が、客間、食堂、そして来客時の寝室になる部屋に見られています。

 イスラエル建国記念で、choir の一員として、その祝賀の集いに参加された若き友人から、お土産にと戴いた、《祈りのショール》です。家内は祈りの時に、ショールをしませんのでを壁に掛けたのです。ヘブライ文字も読めませんが、配色も素晴らしく、部屋が一層引き立っています。

 1948年に建国されて、74年の記念の集いで、世界中から、主に若者が集って、建国の祝いをしたのです。異邦人の参加は、日本人は珍しく、ヘブライ語で、イスラエルの歌を歌う日本からのクワイヤーに、大変感謝されたそうです。

 Zionism という民族の内側から湧き上がる、『約束の地、Zion に帰ろう!』との想いが、世界に離散していたユダヤ人たちの心に、同時に湧き上がって、父祖アブラハム、イサク、ヤコブの信仰の継承の地は、彼らの「故郷」で、そこに帰って来て、国家が再建されたわけです。

 訪問団の旅行中の様子を撮ったビデオが送信されてきて、その熱狂に驚かされました。流浪の民のイスラエル人って、すごい power  なのです。

 ポーランドのAuschwitz(アウシュビッツ)にも、足を伸ばされて、Holocaust の記念施設を訪ねられ、やはり衝撃を受けたのだそうです。平和な時代がやってきても、民族として忘れられない、重い出来事だったからです。頂いたチョコレートが、心なしかホロ苦かったのは、気のせいでしょうか。

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昨日今日の花など

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 ベランダや散歩の途中の垣に咲いていた花、先日、種を発芽させて、植えた朝顔が大きくなって・双葉がでてきています。今年も楽しめそうです。一番下の花は、「梅花下野(リキュウバイとも言います)」です。ベランダがいっぺんに賑やかになってきました。いいなの春真っ最中、もう初夏かなの五月末です。

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真似を継承するのか

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 『天よ。喜び歌え。地よ。楽しめ。山々よ。喜びの歌声をあげよ。主がご自分の民を慰め、その悩める者をあわれまれるからだ。(イザヤ4913節)』

 小学校の何年生だったかの記憶がないのですが、その頃のことです。私たち四人の男の子たちの父親は、お酒を飲まない代わりに、食通だったのでしょうか。若い頃は、羽振りが良かったのでしょう、大島紬の和服を数着持っていて、羽織には〈家紋〉が付いていました。

 良い物好みで、持ち物は多くは持ちませんでした。物を大事にする人でした。昔の人が、そうだったのでしょう、良い物をわずかに持ち、和服の洗い張りとや縫い直しとか、Yシャツの襟の裏返をして、衣替えすると大事に保管もし、襟などの汚れた箇所は、母にシンナーで拭かせていました。靴など、母がピカピカに磨き上げ、クリーニングに出したYシャツを着て、いわゆる dandy で、颯爽として東京での勤めに出ていました。

 そんな父が、渋谷に連れ出してくれて、『こんなの初めて!』と言う黒パンと子牛の料理とデザートをご馳走してくれたことがありました。子どもたちには、そんな豪華な目を見張るようなものはご馳走したことがない私なのです。父に真似られない懐事情だったこともあります。

 そんな父親に真似た点だってありました。勤め始める私に、次兄が、背広を誂えて、就職祝いをしてくれたのです。それに見合うようにYシャツを誂え、メーカーの名前を忘れた名靴を履き、父のように背筋を伸ばして、颯爽と通っていました。少なくとも5年間は、父似の dandy な青年でした。

 自分なりに夢を持って生き始めて、けっこう順調な始まりだったと思うのです。ところが、キリスト教伝道者になるように迫られて、その夢を替えました。退職して、宣教師と共に出かけて行くまで、母教会の信者さんの経営する、鉄工所で、溶接工として働かせてもらい、大きな自動車工場の溶鉱炉の中でも、煤で真っ黒になりながら働いたのです。

 その方のお嬢さんの家庭教師をしながら、出かけるのを待機していたのです。その職場の同僚が、『キリスト教って、教師を辞めるほど、収入が多いんですか?』と聞かれたのです。だいたい転職の動機は、待遇の良い職種や職場に移って行くのが常なので、そう、聞いてきたわけです。『ええ!』と答えたのです。

 それで、母教会から、1時間半ほどの街に出かけたのです。そこには、父の知人がいて、この方の紹介で、青果の卸商の荷運びの手伝いを、地元の青果市場で始めたのです。ネコという台車で、同じ年齢の青果商が競り落とした蔬菜や果物を運んで、大きな車の荷台に積み上げて行く仕事でした。学校時代に、青果市場で働いたことがありましたから、なんの苦もなかったのです。

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 そこでの奉仕や生活に、母教会の助けや激励がありました。そして、卸商の方が、優しい人で、野菜や果物を、『これ食えし!』と言っては、いつも分けてくれたのです。数年経った頃でしたが、東京に用があって行って、母を訪ねたのです。新しい地での生活を心配して、訪ねると言った母と一緒に、特急電車に乗ったのです。

 その同じ車輌に、後に校長になられる、社会科の主任の先生が乗っていたのです。あちらは気付かなかったのですが、意気揚々と退職した職場の主任に、弟に貰ったズボンとジャンパー姿で、颯爽として働いていた頃とはだいぶ違った自分を、初めて恥じたのです。クルッと顔の向きを変えてしまいました。

 献身の生活は、自分持ち物も少なく、貧乏臭く見えたのでしょうか、母が、とても心配してくれました。それ以来、隣国に行っても、月々、母は天に帰る少し前まで、援助し続けてくれたのです。家内はパートで働くと言ってくれ、子育てしながら、喜んで続けてくれたのです。豊かではなかったのですが、足りないことも、人に物やお金を乞うことはしないで、生きてこれました。それは今に至るまで同じなのです。

 イエスさまは、アッシジのフランチェスコのような乞食のような身なりはなさらなかったのです。人に、哀れを感じさせるような、みすぼらしさなどはありませんでした。ローマ兵が、十字架に行くイエスさまの服をくじ引きにした記事が、聖書にあります。皇帝に養われていたローマ兵が、くじ引きするほどに、イエスさまは良い物を身につけておいででした。決して惨めな風体ではなかったことになります。

 母国の団体や幾つもの教会から援助されている宣教師さんたちとは違い、私たちの宣教師さんたちは、個人の立場で、家族や友人たちの support  で日本伝道をされていました。大きな家にも住んでおいでの北欧からの宣教師さんたちが、保養地に別荘を持っていたのに、私たちの交わりの宣教師のみなさんは、そう言った生活をされませんでした。

 ある宣教師さんの家に行くと、いつもスパゲッティが出て来たそうです。それだけしか出せなかったのです。その方のお父さまは、母国の教会の牧師さんでしたが、母国の諸教会に手紙一本出すことも、援助の要請もしなかったのです。送られてくる愛心で生活をし、奉仕をしておいででした。その5人のお子さんたちの4人が伝道の働きをし、3人は日本で伝道しておいでです。残りのお嬢さんも、留学生のお世話をしながら伝道をし、一番上のお嬢さんのご主人も教会の役員をされています。

 疲れてしまった私を、その方は、教会に、家族で招いてくれました。まだ学んでいた最中のお子さんたちは、私たちに部屋を三日ほど提供し、どこかの隅で寝ていたのです。そんな彼らは、豊かには見えませんでしたが、説教の謝礼と言って、けっこう高額な献金をいただいて、帰宅したのです。この方が、理解者でいてくださったことが、今日がある所以です。

 『ユリ、準は大丈夫だからね!』と、夫を助けていきなさいと、家内に言ってくださったそうです。今も、満ち足りる喜びで、ゆっくり静かな時季を、巴波川のほとりで過ごしています。時々、息子たちが、様子を見に来たり、助けに来てくれています。『お父さんたち大丈夫なの?』などと、親が言ってきたことを、〈鸚鵡返し〉に言ってくれます。感謝な日々であります。

 

 

ベーグル誕生の記

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バターを塗ったり、たっぷりのクリームチーズとスモークサーモンをのせたりしたベーグルは、今や米国の朝食の定番になっている。2020年だけでも、2億200万人の米国人がベーグルを食べた。だが、ベーグルは元々ユダヤ教徒の食べ物だった。ここでは、ベーグルがどのように生まれ、独自の進化を遂げつつ定番メニューとなるに至ったのかを振り返ってみたい。

[ベーグルの誕生]

ベーグルの誕生にまつわる神話はいくつかある。良く知られている言い伝えでは、1683年のオスマン帝国によるウィーン包囲の撃退に貢献したポーランドのヤン3世ソビエスキに敬意を表してパン職人が作ったパンが始まりだという。また、9世紀にプロセインかポーランドに住んでいたユダヤ人パン職人が、反ユダヤ政策によってパンを焼くことを禁じられていたため、パン生地を茹でることを思いついたという話もある。

しかし、ベーグルの歴史に詳しいマリア・バリンスカ氏は、著書『The Bagel: The Surprising History of a Modest Bread(ベーグル:控えめなパンの意外な歴史)』のなかで、どちらの話も事実ではないと主張する。

バリンスカ氏によると、ベーグルの起源はウィーン包囲よりもはるかに古く、13世紀に、現在のポーランドがある東ヨーロッパに住んでいたユダヤ人パン職人にまで遡るという。当時、主にユダヤ教徒とキリスト教徒を分離するために、ユダヤ商人たちの活動を細かく規定した反ユダヤ政策があった。そんななか、パン職人には少しばかり自由が多く与えられ、ユダヤ人だけでなく近所に住むキリスト教徒のためにもパンを焼くことが許されていた。

なかでも特に人気だったのは、低脂肪の生地を輪の形に成型して茹でた「オブワルザネク」と呼ばれるパンだった。その起源はドイツだと考えられているが、四旬節の間、脂肪分の多い食べ物を控えていたキリスト教徒が、これを好んで買い求めた。また、ユダヤ人向けにはそれよりも小さく、1人分の大きさに作ったものを、日常的に食べるパンとして販売していた。こちらは、ポーランド語でバイゲル、イディッシュ語でベイガルと呼ばれていた。

やがてポーランドのユダヤ人社会は、ベーグルに様々な意味を込めるようになる。新生児を保護する風習の一環として、産後の母親に食べさせたり、弔いの儀式に使われたりした。そのうちキリスト教徒も、オブワルザネクではなく、普段食べるパンとして、ユダヤ系のパン屋からベーグルを購入するようになった。こうして、東ヨーロッパの都市化と近代化に伴い、ベーグル人気は拡大していった。

[移民とともに米国へ、労働者たちが立ち上がる]

19世紀、ヨーロッパからのユダヤ移民とともに、ベーグルも米国へやってきた。当初、ベーグルはユダヤ人の居住区内でのみ食べられていたが、やがてユダヤ人以外にも知られるようになり、労働者運動の高まりとともに重要な役割を担うようになる。当時、移民労働者は室温が高く害虫がはびこるパン工房で低賃金の長時間労働を強いられていた。1907年、この状況を改善しようと、ニューヨークのベーグル職人が国際ベーグル職人組合を結成した。

全員ユダヤ人で構成された組合は、ベーグルの作り方に関する知識を固く守り、ユダヤ人の客に対しては、移民を搾取するパン屋ではなく組合所属のパン屋で買い物するよう働きかけた。組合は、20世紀を通して何度かストライキを起こして成果を上げ、急成長していた米国労働者運動において最も成功した組合の一つとして知られるようになった。しかし、ベーグル製造機が普及し、ユダヤ人社会以外にもベーグルが広がると、組合は次第に影響力を失っていく。

1964年9月18日、米ニューヨーク州ヘンプステッドのパン工房で、沸騰した湯にベーグルの生地を入れるベン・ゲルステイン。ベーグルは、先に茹でてからオーブンで焼く。

1918年にカナダのパン職人、マイヤー・トンプソンが発明したベーグル製造機は、1960年代に米国に持ち込まれた。トンプソンの息子のダニエルは、この技術の使用許可を、コネチカット州ニューヘイブンでパン工房を経営していたマリー・レンダーに与えた。レンダーは売り上げを増やすために機械を導入し、今では当たり前となった半分にスライスされた冷凍ベーグルや、プレーン味と塩味以外の味付きベーグルを開発した。

[1960年代には米国で人気に食べ物に]

1965年になると、ベーグルはすっかり米国で人気の食べ物になっていた。ベーグル信奉者は、別の移民食であるスモークサーモンをベーグルと合わせるという新しい食べ方を発見した。食の歴史家は、この組み合わせは少なくとも20世紀初頭には存在していたと考えている。当時、ユダヤ人経営の総菜屋が、スカンディナビアからの移民のレシピで作ったサーモンを売り出していたためだ。間もなく、スモークサーモンとクリームチーズはベーグルに合わせる代表的な食材として人気を博し、朝の食卓の定番となった。

ロサンゼルスの「ブルックリンベーグルス」で、出荷される前のベーグル。この工場は、20世紀初頭のニューヨーク市で影響力があったベーグル職人組合をルーツとし、現在は南カリフォルニアで人気。

こうして、ユダヤ教徒の伝統的なパンと移民の創意工夫が融合したいかにも米国らしい朝食が誕生した。とはいえ、現在多くの米国人がクリームチーズと一緒に楽しんでいるベーグルは、その昔ポーランドのユダヤ人パン職人が作っていたオブワルザネクとは全く違う食べ物のように見えるかもしれない。

歴史家のマシュー・グッドマン氏は、ベーグル製造機の登場でベーグルの作り方が大きく変わったと記している。生地改良剤や保存料が加えられ、お湯で茹でるという工程が、オーブンで蒸すという工程に取って代わられた。

「そもそも、ベーグルは小さく、風味豊かで、どっしりとして、皮がカリカリしていたが、今は全く正反対の、巨大で味気のない、枕のようなふわふわしたパンになってしまった」と、グッドマン氏は書いている。

ベーグルの大量生産は、パンの製造者にとって新たな境地を切り開いたかもしれない。だが同時に、ユダヤ教の伝統と、組合所属の小さな町のパン屋さんというルーツが失われてしまった。それでも私たちは、穴の開いた丸いパンを一口かじるごとに、数百年におよぶ意外なベーグルの歴史と物語を噛みしめることができる。(転載記事)

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 このベーグルは、次男が、〈ユダヤ社会発祥〉と言って好きだったので、よく買ってきてくれて食べました。とくに洪水の後に、疎開させていただいた高根沢の教会の近くのモールの中に、パン屋さんがあって、そこで買ったベーグルは美味しかったのです。しかも安かったのです。

 一般的に、一個300円近くもするので、最近は手が出ません。製造工程が大変なのでしょうか。でももう少し安かったらいいのにと思います。家内は、小麦アレルギーだと思って、敬遠していたのですが、「アレ検」で、そうでないことが分かってからは、国産小麦にこだわって、パンを食べますが、Gluten free  の米粉パンを、よもぎ粉を入れたりして、自分で焼き始めています。

 ほとんどこだわらない私ですが、小麦粉は、子ども時代のコッペパンを食べていた頃から食べ続けていて、昨日は、四つ葉生協のパンで、サンドイッチを作って、お昼にしましたら、デーサーヴィスから帰ってきた家内が、お腹が減ったのでしょうか、『美味しい!』と言いながら食べてくれました。最近、ベーグルにはご無沙汰です。

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夏到来

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 在華中の借りていた家で、突然停電になったことがありました。朝の食事に、食パンをトーストをし、毎朝飲むアールグレイの紅茶を入れ、食べ終わった直後でした。また、洗濯機も回し、洗い終わって干した後だったのです。その日は、お昼を招かれて出かける予定でした。

 停電とか断水の時には、「通知」が張り出されるのですが、見落としていたんだと思って、そのままバスに乗って師範大学前のバス停で降り、若い友人のお宅にお邪魔したのです。ご主人が、お母さまから受け継いだと言う地元の料理を主に作ってくださり、何と7種類もの料理を、汗まみれになって作って、もてなしてくれました。

 その年の秋には、小学校3年に進級する息子さんが、ご両親の掃除を手伝ってくれて、歓迎の手伝いをしてくれたのだそうです。自分の両親が招いたことの意味を知って、心からの歓迎をしてくれたのです。この子は、お母さんのお腹の中にいた時に、出会ってからのお付き合いでした。

 お母さんは、大学の日本語科の教師をし、お父さんも同じ大学の情報科学の教師なのです。自分が生まれる前から、親の知人だということも、この子の歓迎の理由だったのでしょう。茶菓を、この子が進めてくれ、その可愛らしさに目を細めてしまいました。『この地でよく食べられているのです!』との郷土料理は、実に美味しかったのです。

 食事が終わった時、この子のお母さんの親族の方が訪ねて来られました。東京の江戸川区に息子家族がおいでで、ご本人も若い日に日本に留学したことがあり、帰国後は、ほとんど日本語を使わなかったそうですが、よく日本語を覚えておいででした。小学生のお孫さん二人の日本での生活に心配なことがあって、そんなことが話題で、とても良い時を持って、私たちは帰宅したのです。

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 『帰ったら電気が来てるよね!』と期待しながら帰ったのですが、まだ停電中でした。ちょっとおかしいので、上階の方にお聞きしたら、『停電ではありません!』と言うのです。わが家だけが停電だったのです。それで友人に電話をしたら、すぐに来てくださって、問題をチェックしてくれたのです。

 夜中の11時半まで、友人の友人と、家内の日本語クラスの生徒のお父さんと三人で調べてくれたのです。『明日にしよう!』とのことで帰られました。配線にトラブルがあるそうで、その晩は、ローソクの光で過ごし、エアコンなしで休んだのです。

 翌朝、二人の方が来てくれ、別の電線を繋いでくれて、通電する事ができました。暑い中、大汗をかいて修理交換をしてくれたのです。家内のクラス中に電気が通じて、エアコンを入れることができました。丸一日、24時間に及ぶ停電で、日頃感謝の少ない電気のありがたさと、篤い友情とを味えた一日だったのを思い出しています。

 良い人たちに恵まれて感謝なことが多い、13年でした。そうしましたら、大家さん(房東fangtong)」がいとこを連れて、仕上げの仕事をしてくれました。それで、冷房の効く部屋が戻ってきて、みなさんの愛に感謝したのです。   

 先ごろ、夏に備えて、エアコンの掃除をしたので、停電の全くない日本の生活を感謝したところです。先ほど、雷がなって強い雨が降り始めました。停電がない代わりに、地震が多く、日本中で頻発している昨今です。あの息子さんも、もう高校生になっていて、オーストラリアに、お母さんの妹がいて。留学をしたと聞いています。ここにも夏が来て、停電の一日を思い出したところです。雷鳴は、夏到来のしるしなのでしょう。

( ”いらすとや“ のイラストです)

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