おかあさん

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 西条八十の作詞、中山晋平の作曲の「おかあさん」は、理屈なく母親が、「おかあさん」であることを伝えています。同じく「カタタタキ」もありました。

おかあさん おかあさん
おかあさんてば おかあさん
なんにもご用はないけれど
なんだか呼びたい おかあさん

おかあさん おかあさん
おかあさんてば おかあさん
なんべんよんでもうれしいな
おへんじなくても うれしいな

 「肩たき」をしたりしたことあったかな、と思い返しています。オンブはしたことがあったのです。私たちの母は、兄二人を産んだ後、女の子が欲しかったのに、また男の子の私が生まれ、その後に、また男の子を産んでいます。戦時下、三人の男の子を産んだ母は、表彰者だったでしょうか。

 今や83 才、82才、78才、76才の後期高齢者の群の中に、四人ともいて、自分は父なし児、義父母に育てられ、義父は夭逝し、義母一人の手で、母は育ったのです。『兄弟姉妹が欲しかった!』と話してくれたことがありました。

 幼な友だちに誘われて、カナダ人宣教師の教会に行くようになり、そこで母が信じた神さまが、「父(ギリシャ語のabba、アラム語のabba )」であることを知って、自分が父なし子ではないことが分かってから、この父親のもとで、本物の父子関係を持つことができたのです。

 主イエスさまは,15回ほど、祈りの中で神を「父」と呼んでいらっしゃいます(マルコ1436)。この祈り以外にも、神さまを「父」と100回は呼んでいるのです。親愛の情を込めて、父親を呼ぶために、日常語であったアラム語の[abba]を使われたわけです。

 それは、主イエスさまは、父なる神との特別で、親密な関係をお持ちだったからです。ですから初代教会のクリスチャンたちは、神さまを「アバ」と呼ぶようしていたようです。またパウロも、その書簡の中でこの語を2度(ローマ815節、ガラテヤ46節)ほど用いてえいるのです。

 ですから私たちも、主イエスさまによって、神を「アバ,父」と呼べるのです。それは、ちょうど日本語の「おとう」、「お父ちゃん」、「ちゃん」といった親愛の呼び方です。人間をアバと呼ぶだけではなく,天におられる神さまを、「アバ」と呼ぶ信仰が与えられているわけです。

 「アバ」でいらっしゃる神さまに、母は必死に祈りながら、育ててくれたのです。学校に呼び出されては、息子の問題行動を、どう聞いて、どう接したのでしょうか。家に帰って来て、叱ることはなかったのです。そんなで、『よく立ち直りました!』と言う、私の担任のことばを、母はどう聞いていたのでしょうか。

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 学校を終えると、兄弟たちは、父母の元を離れて行きましたが、私は、結婚するまで親元にいたのです。忠実に教会生活をし始め、クリスチャンの妻をもらおうとした時、父は、「ビルマの竪琴」を書いた、竹山道雄の仏教の勧めのような本を買って来て、『読め!』と言って手渡しました。私は読まないままにしていたのですが、父の方が、兄の勧めで信仰告白をして救われたのです。

 祈る母、聖書を読む母、礼拝を守る母、献金をする母、証しする母が、男五人の荒れた家庭の中にいたことの祝福こそが、私たちの幸の礎であったに違いありません。この日曜日は、「母の日」です。いろいろと母や、母の話してくれたことば、作ってくれた食べ物など、懐かしく思い出しています。

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あの経済成長期を越えての今

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 戦後、平和の時代が来て、戦地に行っていたお父さんたちが復員して来て、いわゆる baby boom で、子どもたちが産まれてきたのです。1946年に生まれた方たちからでしょうか。その時の子どもたちが、中学校を卒業して、京浜、中京、阪神の工業地帯で働き始めて、戦後の未曾有の経済成長期の担い手となります。お父さんは、鉄砲を担いで出て行ったのですが、その親の子たちは、ハンマーやドライバーを手にしたり、営業車を運転し、鞄を引っ提げて、いわゆる「企業戦士」になっていきました。

 1964年の秋に行われた、東京オリンピックの開催の準備のために、押し寄せてくる観光客を受け入れるためのインフラ( infrastructure /鉄道網、道路網、空港整備、ホテル建設など)の整備、増強がなされていき、われわれ世代の父や兄の世代は、その働き手でもありました。

 敗戦の廃墟の中にたたずんでいたのも束の間、朝鮮戦争の戦争特需、その後のヴェトナム戦争の戦争特需の中で、懸命に働いてくれた世代でした。われわれの父の世代は、スタルヒン(父の少し後に世代人)・栃木山・初代吉右衛門(歌舞伎俳優)、私たちは、川上・千代ノ山・古橋広之進(水泳選手)、その後の子どもたちは王・大鵬・卵焼き、息子たちの世代は、掛布・SMAP、今は大谷翔平・井上尚弥・シホンケーキでしょうか、どうでしょう。世代世代のスターや選手や歌手がいたし、今でもいるのです。

 その戦後のbaby boomer の世代の子どもたちが、第二次の baby  boomer になったのです。教会のそばに中学校があったのですが、校舎の隅にプレハブ校舎が建てられ、一学年1315学級もある時期を迎えていました。今や、彼らのお父さんやお母さんが、定年を迎えて、家に帰ってきて、すでに七十代、今や朝夕は、day care の送迎用のライトバンが、路上を東奔西走して、彼らを乗せています。退院後の家内も、そのバンに乗って、週一回の行われる、AEON mall に出かけているのです。

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 世の中は、景気後退ですが、福祉の世界は盛況です。ただ過当競争でしょうか、思ったほどの収益のあがる事業ではなくなってきているそうです。公費の福祉費の援助で経営が成り立っているのです。この業界に、初期に参入していた人たちの右肩上がりの好機は過ぎたのでしょう。

 人への福祉が、儲けの世界にすり替えられてしまってはいないでしょうか。残念なことです。福祉や社会事業に対する社会的な責任を果たしたり、基本的には人への労りではない事業者が、その意味や意義を失わせているのだと言われています。そんなおかしな時代に、ブレーキは効くのでしょうか。お金で、問題を解決していく行政に、納得できないのは、お金の価値が分かっている、一生懸命に働いて来た頑張り世代であったからかも知れません。

 我慢や責任を学び取らされた世代が、その影響力をなくしてしまう時代に起こっているのでしょう。成長と衰微も一対の出来事なのかも知れません。

(テレビ、冷蔵庫、洗濯機を「三種の神器」と言われたのです)

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