[memory]Costa さん。

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 Costa’s memory

 婚約式を、1970年の秋に、母教会で行いました。その直前に、一人のニューヨークの聖書学校で教えている教師が来られたのです。アフリカ宣教に出掛けた教え子たちを訪問し、激励する旅の途上に、羽田空港に降り立ったのです。ところが入国査証なしでしたので、出入国管理事務所に留め置かれていたのを、迎えに行った兄が、どう交渉したのか、監督責任付きで連れ出して、教会にお連れしたのです。

 特例だったのか、たまにはそんなことが許された時代だったのでしょうか。アラブ人とギリシャ人の血を引くアメリカ人で、母教会を始められた宣教師と同じ教会、conference のメンバーでした。元ボクサーだとかで、初対面で打ち解けてしまうようなタイプの人でした。この人が、Mr.Costa で、私たちの婚約式で、メッセージをしてくれたのです。

 そんな出会いがあって、彼は、どうも私を連れてアフリカに行きたかったのだとかで、私たちの宣教師は、それを許しませんでした。それを機に、何度か来日してくださったのです。コンパクトなノートに、聖書の教えのエッセンスを、小さな字で書き込んで、大切にされていたのを、覗き込んで見てから、それを真似して、小さなノートを作って、学んだこと、主から示されたこと、気づいたことなどを書き込んできたのです。

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 このCosta さん(私たちの宣教師のみなさんは、〈先生〉とか〈兄弟〉という呼称で呼ばれるのを好まないで、どの人も〈さん〉呼びをしていました)のお母さんがクリスチャンで、文字が読めないのですが、いつも聖書を持っていたそうです。バスに乗ると、隣席の人に、その聖書を渡して、『この箇所を読んでください!』と頼むのだそうです。

 聖書に通じていたお母さんの《伝道方法》だったという話を、説教の中でされていて、昨日聞いたように、よく覚えているのです。direct に、聖書を読ませてしまうのは、すごい知恵に満ちた方策だったのです。実に魅力的なおじさんで、聖書のみことばを歌う、chorus(コーラス)で賛美し、その翻訳版が、よく歌われていきました。

 一昨日の夕食は、「カジキマグロの餡かけ」を作りました。片栗粉をまぶしたカジキを、オリーブオイルでフライにしたのです。それが、Costa さんの好物だったのを思い出したのです。彼も、そして宣教師さんたちも、さらに一緒にテニスの打ち合わせを、八ヶ岳や山中湖でした牧師さんたちの多くの方々、、今や天に帰って行かれてしまいました。あの日々があって、今があるのです。感謝な人、日々、交わりでした。

(ギリシャ語の「新約聖書」です)

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