あの味をもう一度

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 古い商業の街で、近所は老人ばかりを見掛ける街になっています。元気かと思っていたら、救急車で運ばれたり、胃癌が見つかって、『来週手術です!』と、また『検査入院しなくては!』、そんな話ばかりになってきている、ラジオ体操や散歩仲間の昨今なのです。いつの間にか、自分も、その仲間に突入してしまっていて、もう他人事ではなくなってしまい、まさに当事者になりました。

 一緒に駆け回った友人たちも、同じように老境に届きつつあって、あの溌剌たりし日々が、もう遠くに行ってしまったのを覚えてしまっているのでしょう。何キロも何キロも走り、ダッシュしては流して、またダッシュを繰り返しても、45分経つと、荒い息が収まってしまった高校時代が、昨日のように懐かしく感じられます。

 住んでいる地域のせいとか、塾に行っているのかと思いきや、日本中に、子どもの姿が見られないのではないでしょうか。遊んでいる様子もないし、喧嘩や争う声の叫びもないのです。時々、マフラーに細工したバイクが、爆音を上げながら表通りを疾走していきます。それを追いかける白バイやパトカーのサイレンが、たまに聞こえてくるのです。

 それでも、うずま公園では、お父さんと男の子の遊ぶ姿が見られることもあり、公園の遊具に繰り替え愛繰り返し乗るのを競争する姿が見られると、なんともホッとさせられるのです。それと同時に、この季節、巴波川の両岸に、千匹以上の鯉のぼりが吊るされて、風に泳ぐ姿が見られるのです。まるで、『子どもたちよ、帰っておいで!』と、呼び水を注ぐような、大人たちの精一杯の demonstration が見られます。

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やねよりたかい こいのぼり
おおきいまごいは おとうさん
ちいさいひごいは こどもたち
おもしろそうに およいでる

 男の子四人を育てた父と母は、男の子の節句だからとか、何だとかの伝来の行事に疎かったのですが、柏餅とか買ってきてくれ、干しておいた餅を、油で揚げてくれました。またカルメ焼きなどは、火鉢の上に、金属製のお玉を乗せて、ザラメの砂糖に水を加えて、割り箸でかき回し、その箸に先に重曹をつけて膨らませて作っては食べさせてくれたのです。

柱のきずは おととしの
五月五日の 背くらべ
粽(ちまき)たべたべ 兄さんが
計ってくれた 背のたけ
きのうくらべりゃ 何(なん)のこと
やっと羽織の 紐(ひも)のたけ

柱に凭(もた)れりゃ すぐ見える
遠いお山も 背くらべ
雲の上まで 顔だして
てんでに背伸(せのび) していても
雪の帽子を ぬいでさえ
一はやっぱり 富士の山

 父の家の柱に、兄が記してくれた背丈を記した跡が、残されていて、一年に10cm 以上も伸びた背丈が記録されていたのです。その柱のある家が、中央自動車道の計画路線での退去になってしまい、父から請け負って、弟たちの協力で更地にした時に、それを確保しておかなかったのを、後になって悔いたのです。

 そう言えば、母の郷里から、この時季に、笹の葉の包まれた「粽」が毎年送られてきました。《おばあちゃんの味》で、米粉を練って、笹の葉で包んで、蒸して、それを小包にして郵便で送られていいたのです。母が、砂糖醤油を作ってくれ、蒸した粽につけて食べました。素朴な田舎の味に、みんな兄弟たちは満足だったのです。

 きっと、この栃木の地でも、そう言った下野伝来の粽が伝えられてきているのでしょう。美味しい米が作られ、宇都宮藩の耕地が、西方という地にあって、有名だったそうです。それで、わざわざ買い出しに出掛けるほど、越後のコシヒカリに負けないほどの米自慢なのです。そんなことを記してきましたら、「粽」が食べたくなってしまいました。強く、そして優しく育て、子どもたち!
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