写真撮影の趣味人とは

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 『普段の生活の中で、日常の場からスマホをかざして、数枚の写真を撮るのです。日常から、心的に、倫理的に、時間的に、そして距離的にかなって撮った写真に意味があります!』、これが私の写真撮影の倫理規定なのです。

 廃線や廃業、仕方なく営業できなくなってしまう電車やバス路線や年を経た建物、また風景、人を惜しむ思いから、その記憶を留めておきたくて、写真撮影に出向く人がおいでです。みなさんが規則を守っているとは限らないのだそうです。

 私たちに住んでいる家の隣に、一軒の写真屋さんがあります。今は息子さんに譲って勇退しておいでの片岡惟光(よしみつ)さんは、北関東最古の写真館の四代目で、私たちのラジオ体操仲間なのです。

 代々、日光東照宮の警護をされていた武士で、明治維新前に、初代の片岡如松(じょしょう)氏が、『東照宮を撮影するために訪れた、日本商業写真の先達であった下岡蓮杖(れんじょう)の弟子・横山松三郎が日光山内の社寺建築を撮影した際、手助けをしたことから、写真技術を学び、道具一式を譲り受けた。(産経新聞)』、それで、写真術を修業されて、日光市に開業し、維新後の明治二年(1869年)、栃木県庁のあった栃木市に、明治四年に移転し、写真館を始められたそうです。

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 先日も、体操の帰りがけに、『いろいろとお聞きしたいのですが!』と、四代目にお話をしたのです。いつかコーヒーを飲みながら、お話が聞けたら嬉しいと思っております。2020年の正月、私たちの家族が、全員集結したのを機に、この写真館で家族写真を撮っていただいたのです。たっての家内の願いによってでした。

 写真撮影は、ある瞬間を捉えるのがいいのです。その瞬間との出会いが大切で、それが写真の撮影技術の難しさ、奥深さなのではないでしょうか。雲の動き、日の光、日影の動き、風の吹き様、人や動物や植物の表情を捉えられたら、素敵な写真が撮れるのでしょう。

 次男が、けっこうよいカメラを手に入れて、それを手にしながら、休みの日には、あちらこちらと撮影に出向いている様です。先日は、静岡の旅行先で撮影した写真を送ってくれました。木村伊兵衛、土門拳、ロバート・キャパなどの著名な写真家がいますが、誰に評価を得はしなくとも、一人一人が、瞬間を捉えた一様に写真には、人の生き様の一場面が映し出されるのでしょう。

 人の撮影を邪魔したり、運行のバスや電車の前面を静止を、制止を無視して横断してしまい、ゴミを捨て置木、駐車違反などの問題が取り上げられています。

 趣味が、規則を守って行われるなら、それは自他ともに素晴らしいことに違いありません。写真には、撮影者の心の動機は写らないのですが、その辺のことが考えられて、撮影が行われるなら、それこそが、本物の写真趣味人なのでしょう。
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惣社町のLupinus

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 雨の日が続いていた快晴の昨日、栃木市惣社町に咲く、ルピナスの花を観ました。街の〈郷づくり実行委員会〉のみなさんが、春先に植えつけたルピナスの花が、きれいに咲き誇っていました。” LOVEGREEN “ に次のようにあります。

 『ルピナスは秋に種をまき、翌年または翌々年の春に花を楽しむ一、二年草です。ルピナスの花色は赤、ピンク、オレンジ、黄、青、紫、白など様々。冷涼で乾燥した気候を好むので、蒸し暑い日本ではほんとんどが一年草になりますが、原産地など気候があう場所では多年草とされています。日本でも冷涼な北海道ではルピナスの群生が観光名所となっているも場所もあります。

 品種によっては1m以上に育つこともあり、空に向かって長く伸ばした花茎に鈴なりの花をつけます。ルピナスは、藤(ふじ)に似た花が上向きに咲くことから、「ノボリフジ(登り藤)」「サカサフジ(逆さ藤)」の別名もあります。また、葉の形がうちわに似ているので「ハウチワマメ(葉団扇豆)」と呼ばれることも。ルピナスはマメ科の植物なので、花の後は枝豆によく似たサヤが育ちます。同じくマメ科の植物特有の根粒菌を根に付着させているので土壌が肥沃になります。』

 この花は、地中海沿岸地方と南北アメリカ、南アフリカなどに200種以上が分布しているそうです。日本の土、下野の野に植え付けられて、開花し続けています。出逢って三年目の春のルピナスは、実に素敵です。

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愚直の努力をする

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 『外であなたの仕事を確かなものとし、あなたの畑を整え、そのあとで、あなたは家を建てよ(箴言24・27)』

 「愚直の努力」、しなければならないことを、手を抜くことなく、マニュアル通りに、基本に従って、繰り返していく職人気質を、そう言うのだと思います。頑固なおじさんは、見習い工の時に、手をとって教えられることなどありませんでしたから、先輩たちの仕事の仕方を盗み取ったのだそうです。そうして身につけた手法を、踏襲して堅持するのです。若い時に叩き込まれたことを、疑うことなく1つのことにこだわりながら、すべきことをして来たのです。

 鍋の穴をふさぐ、「鋳掛屋」のおじさんが、子どもの頃に何ヶ月かに一度、自転車で回って来ました。『邪魔だ、あっちへ行け、小僧!』なんて言われませんでした。興味津々に覗き込んでいる私に、仕事振りを見させてくれたのです。世の中で鋳掛屋の職人なんてたいしたことはないかも知れません。

 でも鍋が、どこのスーパーでも売っているような時代ではなかったので、実に貴重な存在だったのです。それにしても随分と安い仕事代だったのを覚えています。それでも、仕事に誇りを持って、精一杯仕事をしておられた姿は、われわれハナ垂れ小僧に、『仕事とは何か?』を教えてくれたのだと思うのです。

 そう言った職人さんとか、職工さんが、製造業でも加工業でも、どこにも、どの部門にもいました。私が、学校に行っていました頃、毎年夏に、ある牛乳工場でアルバイトを2ヶ月ほどさせていただきました。製造のラインでも、出来上がった製品のビンの入った箱を冷蔵庫に積むのでも、それを出荷するのでも、頑固なおじさんが、どこにも必ずいたのです。『もっと工夫すれば、楽が出来るのに!』と若くて生意気なわれわれは思ったものです。

 ところが、決められたとおりにすることを、彼らは要求するのです。言われたことに『はい!』と従う時、彼らはニコニコと微笑んで、『うん、うん!』とうなずきながら、われわれの仕事振りを眺めていました。

 一日の仕事が終わると、明日の作業ために、時間をかけて準備をするのです。掃除や後片付けをするわけです。新製品を開発する研究部門が、学歴や実績のある人たちによってなされている背後で、脚光を浴びない裏方が、どうでも良いように思われる愚直な作業を続けていたのです。

 それがあって、社会で評価される製品が流通して行くわけです。奄美大島から出て来たり、秋田弁をしゃべる若い社員の中に混じって、仕事をして、多くのことを学ばせてもらったのです。つまらないように見える仕事を、意味あるものとするプロ意識の中に見えたのが、この「愚直の努力」でした。若い人の『無駄だ。もっと省力化を図らねば!』と言った考え方に、それは警鐘を鳴らしている生き方、仕事の仕方に違いないのです。

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 『漫才の天才!』と言われた人に、横山やすしがいました。彼が、自分と同年であった事を知った時から、彼の生き方に強い関心を向けたのです。同じ時代の流れや風の中を、生きて来た者として、とても親近感が湧いて来たからです。『ほんまに稽古嫌いだった!』と、相方の西川きよしが、先日、そう話しているのを聞きました。1つの演目を演じるのに、その稽古嫌いのやすしをなだめすかして、稽古に連れ出したのは、きよしでした。なんと40回も稽古をしていたそうです。

 アドリブだとばかり思われていたのに、アドリブを入れるためには、積まれた山のような稽古があることを知らされて、一朝一夕には名人には、なれないのだと言うことを知らされたわけです。やすしの破天荒な生き方は理解できるのですが、自分の仕事に対して、いやいやながらでもし続けた、見えない裏の部分があったのだと言うことを知らされるわけです。

 冷蔵庫で牛乳の箱を積む作業の合間に、誰かが、裕次郎の「赤いハンカチ」を歌っていました。バイトが終わったら、北海道にでも行ってみたいような漂白の思いに誘われたのが、昨日のことのようです。「一事専心」、大切な教訓でした。

(「らくごはじめのぶろぐ」から修理屋さんたちです)

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Aspergillus

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 天津にいた一年の冬場には、ちょっと誇張かも知れませんが、外に出ると、埃だけではなく、あらゆる物を舞い上げた寒風が吹いていたのだと思われます。驚いたことには、女性が、ストッキングのような、網目の細かい布で顔を覆っていたことでした。道端にはゴミが散乱していて、黄砂風も砂漠地帯から吹いてき、それに中国五千年の間に堆積された埃も舞っていたように感じたのです。

 それが苦手で、華南に移ったのかも知れません。そこは、日本と同じで、65%以上の樹木の緑の割合の多い地だったのです。それでも学校の寮(旧ホテルを利用した古い建物でした)から出て、住み始めたのは、大学の教員住宅でした。アルミサッシではなく、ガタピシの木製の窓で、煉瓦の古建築なので、隙間が多く、歴代の住民の生活の埃も、ネズミのフンも多く、土間もあった家でした。

 木と草と紙で出来た日本住宅の中で育った身には、なかなか馴染めなかったのです。朝になると、家への階段の登り降りの踊り場には、朝になると何匹ものゴキブリがひっくり返っていたのです。衛生管理の徹底までの途上国での生活が長かったのを思い出しています。

 帰国して、五年目を迎え、目下の生活上の心配は、細菌、黴(かび)で、中国から帰ってきてから、とくに気を付けているのです。体調を崩した家内の「アレルギー検査」を、先週、大学病院ではなく、近くの街医者でしていただいたのです。その結果、食べ物のアレルギーは、家内が思い込んでいた小麦、乳製品、海老、蟹などは 全くhit しませんでした。

 hit  したのは、〈house dust 〉、〈ダニ〉、初めて知った〈アスペルギルス(Aspergillus、これはどこにでもあって免疫力低下時に肺の中に取り込まれるのだそうです〉の3つでした。これは、隣国への悪口ではありませんのでご承知ください。外国生活の長さによって、体の中に持ち込まれたさまざまば物質(黴やダニの影響力)によって、過敏症の家内の身体に仕舞い込まれてきたのじゃあないかなって、素人判断ですが、今思い返しているのです。

 それと共に、〈大辛のカレイ(加齢)〉によるものなのかも知れません。今日は、この四年間、今は五年目を診ていただいてる大学病院の三ヶ月ぶりの通院日です。アレルギー検査で見つかった物質って、どんな影響をもたらしてきたのでしょうか。net で調べても、やはり素人判断ですから、専門医に聞くべきなのでしょう。専門知識には長けている現代医学で、総合的な診断が必要なのでしょう。そんなことを、門外漢ながら感じております。

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喜ぶ者と共に喜び

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 『エルサレムの平和のために祈れ。「おまえを愛する人々が栄えるように。 (詩篇1226節)』

 「ブリッジ・フォ・ピース( Bridge for Peace )」からの今朝届いたメールが、次のように伝えてきました。

 『イスラエルは、国中が喪に服すメモリアルデー「ヨム・ハジカロン」です。昨晩の日没から始まり、イスラエルを守るために命を落とした兵士、テロ犠牲者を偲び国中が、亡くなったイスラエルの息子と娘たちを自分の家族のように追悼します。メモリアルデーには、追悼のサイレンが国中に鳴り響きます。人々は立ち止まり、車を停止し、車外に出て哀悼の意を表します。』

 イスラエルは、1948514日(ユダヤ暦の5078年イヤール5日)に、ダヴィド・ベングリオンによって、テルアビブで、独立が宣言されています。今夕の日没から、75回目の「イスラエル独立記念」の式典が行われます。日本からも、《Blessing Zion クワイヤー》の三十数名のみなさんが式典に参加されます。私たちの友人も参加しておいでです。式の祝福と、旅の無事をお祈りします!

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(「イスラエル独立宣言」、参加の「クワイアーのみなさん」です)

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[人]リヴィングストン

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 『それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。 信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。 信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、 蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」(マルコ161518節)』

 『遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。(ロマ1015節)』

 ロンドンに、「ウエストミンスター(Westminster)宮殿」があります。この街の象徴であり、いえ、イギリスの誇りと言ったほうがいいかも知れません。今は、イギリスの国会が行われるための国会議事堂に用いられていますが、元々はGreatBritain の国王の宮廷でした。

 この王宮に隣接して、イギリス国教会の「ウエストミンスター寺院(Westminster Abbey)」が、西側にあります。この5月6日に、チャールズ新国王の戴冠式が行われようとしています。また、ここには諸代の王や英雄や国家貢献者たちが埋葬されてもいるのです。

 その中に、デーヴィッド・リヴィングストン(David Livingstone)も葬られています。

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 「暗黒大陸」と呼ばれたアフリカに渡り、奴隷解放運動に尽力し、イギリス紙幣の10ポンド紙幣の肖像にもなっている人です。彼は、史上始めてアフリカ大陸を横断し、貿易ルートを開拓した人でした。

 『私の探検の 目的は、どん欲で利己的な 人たちに アフリカの扉を 開いて 不公平に 利用され、荒れ果てさせることでは ありません。アフリカ全土に 福音を伝えられるように、宣教師たちのための道を 開拓したいのです。私の 求めているのは、ダイヤモンドでは なく、 人間の 永遠の魂なのです!』と、リヴィングストンは語りました。

 後の10ポンド紙幣の肖像にもなった彼は、史上始めてアフリカ大陸を横断し貿易ルートを開拓しました。しかし探検中、感染症にかかりジャングルの中で亡くなりました。同行していたアフリカ人の従者のスーシとチューマは、この尊敬する主人をなんとか本国に還そうと遺体をミイラ処理にし、途中10人もの仲間を犠牲にしながらもなんとかイギリスへ届け遺体はウェストミンスターに葬られました。

 私の母は、昭和初期に、カナダからやって来られた宣教師の教会に導かれて、十代の初めに信仰を持ちました。そこは、日本中の神が、神無月には参集すると言われてきた出雲でした。宗教の強固な地での宣教は大変だったに違いありませんが、福音に力があり、人々に受け入れられていきました。95歳で帰天するまで、母は信仰を持ち続けたのです。

 義母も、戦後の混乱期に、マッカーサー司令官の派遣養成に応用して、来日した宣教師の配布した、「約翰伝」の分冊を読んで、その、伝道の中で、救われています。福岡で生まれ、東京で学び、結婚をして東京に住み始めて、そこで宣教する宣教師に導かれたのです。101歳で帰天するまで、信仰を守り通しました。

 「救い」とは、イエスを「主」、「キリスト(救い主)」と信じ、告白することによります。それは「聖霊の働き」によります。

 『ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません。 1コリント123節)』

 イエスを信じて救われた人の中で、ある人は、宣教に召されるのです。神に遣わされた人たちによって、人は、イエスを主、救い主と信じるのです。リヴィングストンも、母を導いたカナダ人宣教師も、義母を導いたアメリカ人宣教師も、みな遣わされて、「福音」を宣べ伝えたのです。

 幕末から明治にかけて、そして第二次世界大戦の後に、欧米諸国から、教会の主でいらっしゃる、キリスト・イエスさまの「宣教命令」に従った、多くの宣教師が来られました。日本のキリスト教会の礎は、そのみなさんによって据えられているのです。

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LGBTを考えるために~向き合いたい三つのこと〜

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 キリスト教性教育研究会 会長をなさっている水谷潔氏が、次のようなことを書き記しておいでです。私たちが、どのように、LGBTのみなさんに接したらよいか、素晴らしい提言ですので、ここに転載してみます。

 『20年ほど前から、同性愛傾向に葛藤を覚えるクリスチャンや関係者から相談を受けてきた者として、私見を記します。今回は、同性愛を考えるときに、向き合っていただきたい三つのことを、ご提案いたします。 

信:聖書に向き合う

 まず、確認したいことがあります。聖書が言及しているのは、厳密にいえば「同性愛」ではなく「同性愛行為」、言い換えるなら「同性間の性的結合」です。ですから、「傾向」と「行為」は分けられるべきです。同性愛傾向を持つだけの方が、断罪的な言葉を受けて教会を去っていくようなことは、本来、あってはならないことでしょう。

 では、同性間の性的結合はどうでしょう。創世記1、2章によれば、神様は人を男と女に創造し、結婚関係において異性間での性的結合を定められました。神様の秩序からの逸脱という意味において、同性間の性的結合は、結婚外の性関係と同様、御心ではないと言えるでしょう。また、紙面の都合上、詳細な考察は割愛しますが、他の聖書箇所でも、一読する限りは、同性愛行為は否定的に記されています。

 一方で、同性愛行為を他の罪とは別格のものと考えるのは聖書的ではありません。聖書は多くの場合、同性愛行為を他の罪と同列で記しています。ソドムが滅んだのは、同性愛行為が原因でしょうか。創世記19章以外でソドムに言及している聖書箇所を読めば他の罪も原因だとわかります。また、レビ記2013節では、男性間の同性愛行為は死刑に値すると記されていますが、前後を見ると他の性的罪、あるいは性的でない罪も死刑相当です。さらに、ローマ人への手紙1章でパウロは「同性愛行為を行う者は滅びる」ではなく「滅びに向かう者は結果として同性愛行為に至る」という趣旨を記しています。もしかすると、原因と結果を取り違えて読んではいないでしょうか。そして、1章29節以降には、やはり同性愛行為と並列して、一般的な罪がリストアップされています。

 どうでしょう。同性愛行為を特別に邪悪な罪と考え、結婚前に性関係を持つ求道者はOKで、LGBTNGとするような思いはないでしょうか。「聖書的だと信じてきたこと」は「聖書が記していること」でしょうか。一度、思い込みをわきに置いて、聖書に向き合っていただければと願います。

知:事実に向き合う

 もし自分が通っている教会にLGBTの方はいないと決めつけるなら、それは偏見に基づいた事実誤認かもしれません。一定の確率で、教会の中にもLGBTの方はいらっしゃいます。私が相談を受けてきた当事者の多くはクリスチャンホームで育ってきた方です。どうかその「見えざる事実」「知られざる苦悩」を想像してみてください。

 典型的な事例を紹介しましょう。LGBTの傾向を自覚する中高生は、親にも指導者にも打ち明けられぬ一方「同性愛は罪」と聞きながら育ちます。本当の自分は受け入れらないと考え、自死を考えます。うつ病を発症します。教会を去り、ゲイコミュニティーに集う青年もいます。親も指導者も、この現実に気が付きません。親友だけが知っています。これが現実です。自分の家族や教会の仲間がそうだったらと考えてみることをお勧めします。

愛:当事者に向き合う

 イエス様は遊女など、性的罪人を受け入れられました。LGBTの方々が人間としての尊厳を持ち、愛すべき隣人であることを忘れてはなりません。残念なことに、キリスト教会は、長い歴史において聖書を根拠に差別をしてきました。ユダヤ人差別、黒人奴隷の正当化、ハンセン病差別、アパルトヘイトなどは、その代表例でしょう。そうした過去への真摯な悔い改めをもって、LGBTについて考えたいものです。

 今、日本の教会でも、LGBTの新来会者、教会員のカミングアウトが増えています。ヨハネの9章において、弟子たちは生まれつき目の見えない方を前に議論しましたが、イエス様はその方に語り掛け、愛を注ぎました。私たちもLGBT当事者を前に、弟子のように議論するのか、イエス様のように愛するかが問われます。

 私自身は、聖書を基準に同性愛行為を罪だと判断していますが、その判断は、差別や排除ではなく、愛と受容に向かってこそ、聖書的だと考えています。聖書的価値転換や愛の実践は、決して容易ではありませんが、LGBTは、この時代にあって、日本の教会が取り組むべき課題の一つでしょう。そのために、三つのものに向き合うことが、神様が望まれる信と知と愛を獲得する一助になればと願っています。

   LBGTとは:レズピアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーを代表とする性的少数者の総称。

 水谷潔氏 1961年生まれ。小さないのちを守る会 元代表。春日井聖書教会 協力牧師。「世の光・ジェネレーションX」ラジオパーソナリティ。

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朋、エドより来たりて

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 『あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が命じられたとおりに。それは、あなたの齢が長くなるため、また、あなたの神、主が与えようとしておられる地で、しあわせになるためである。(申命記516節)』

 『あなたの父と母を喜ばせ、あなたを産んだ母を楽しませよ。 (箴言2325節)』

 友人が、ご夫人と、97歳になるお母さまとご一緒に、昨金曜日に訪ねてくれました。お母さまは、大正の最後の年に、九州の大牟田でお生まれになられたそうです。女学校をおえられて、久留米の洋裁学校で学ばれ、二十歳ごろには、満州に一人旅をされ、ソ満国境の街まで行ったとお話しされておいででした。

 家内の母親が、その久留米の出身だとお話をし、私の父が、満州の奉天(今の瀋陽です)に若い頃にいたと言いましたら、目を丸くされて、会話が弾んだのです。汽車を追いかけて走ったりした通学の様子や、名士のお父さまのことなども、懐かしそうにお話くださったのです。

 親孝行をする息子と、お嫁さんの姿も立派でした。自分の二親は、すでに召されていますから、十分に果たせなかった身には、ちょっと羨ましさを感じたのです。時々、温泉地などに連れ出されていると言っていました。明日は、足利市にある」” Flower park ” に、満開の藤の花を観に、お母さまをお連れするそうです。

 『あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。 (ヤコブ514節)』

 若い頃からの主にある兄弟は、家内にオリーブオイルを注いで祈ってくれました。単純な信頼でなされる祈りには、主の驚くほどの祝福があります。私たちの帰国のたびに、会社のゲストルームを使わせてくださり、さまざまに物心両面で支えてくれてきた兄弟姉妹です。おかげさまで、人形町の銭湯にも浸かることができ、隅田の流れの界隈、江戸の名残を残す下町を、自転車をこいで流すことができました。

 お父さまの事業を継ぎながら、伝道と牧会をしているのです。『朋あり、遠方より来る。また楽しからずや。』な心境であります。

(あしかがフラワーパークの藤、オリーブオイルです)

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永生の望みの中にあるから

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『人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。(ヨハネ15章13節)』

 私の家内が学んだ学校の玄関の前に、浮き輪の形をした池があるのです。以前、病中の恩師を見舞う家内を、車に乗せて、この学校にお邪魔した時に、彼女から、その池の建設までの経緯や背景を聞いたのです。そんなに大きいもではなく、何の変哲もない池でした。しかし、それは一人の宣教師の「隣人愛」の死を記念して、教職員や卒業生の寄金によって作られてものだそうです。

 1954年(昭和29年)9月のことでした。台風15号が、勢力を増して北上していました。函館港から出港した青函連絡船の洞爺丸が、数キロの海上にあった時、突風を受けて転覆してしまったのです。海難事故としては、あのタイタニック号の座礁事故の次にでしょうか、犠牲者が多かったと言われいます。乗客乗員合わせて1175人の方が亡くなられ、わずか163人だけが生存された事故でした。

 その亡くなれた方の中に、少なくとも二人のクリスチャンがいらっしゃいました。一人は、YMCAで奉仕をされていたアメリカ人のディーン・リーバー氏(33才)で、仙台の奉仕に向かう途次でした。もう一人は、農村伝道神学校の校長をされていたアメリカ人のアルフレッド・ストーン氏(52才)で、道内で農村伝道での奉仕を終えて、長野県に向かうところだったと言われています。お二人とも、日本と日本人を愛して福音宣教のために来てくださった方々だったのです。

 沈没しつつある間に、泣き叫ぶ乗客を励ましながら、救命胴衣の着用を手助けした二人の宣教師は、最後に自分の救命胴衣を日本の若者に与え、召されたのです。リーバー氏は恐怖に逃げ惑う子連れのお母さんに、ストーン氏は若者に、彼らの救命の浮き輪を渡して、亡くなられたと伝えられています。

 聖書が説き、そしてイエスさまがお話になられた、「人が、その友のために命を捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません(ヨハネ15・13)」とのことばを、驚くほどの「愛」をもって実践されたことになります。ですから、その池は、「救命の浮き輪」を表していて、ドーナッツのような形をしていました。ですから、ただの池ではなかったわけです。

 そのストーン宣教師が校長をされていた学校に、保育科があって、家内は、そこに学んだのです。彼が、校長をしていた当時は、東京都下の日野市に学校があり、子どもの頃に、私が遊びまわった野原の近くにあったのを、後になって知りました。あの勇名をはせた大規模の公団住宅が建設された土地だったのです。

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 都市型の伝道が人気なのですが、農村復興を掲げて、農村にも福音を伝達し、そこにキリスト教会を建て上げようとしたビジョンに感動させられるのです。いつでしたか、この学校の卒業生と同席したことがあります。週日は、ダンプの運転をされて走り回りますが、土曜日に仕事を終えると、教会の掃除をし、日曜日の朝には、背広にきちんとネクタイをして、教会堂の扉を開き、礼拝を守るためにやって来る3~4人のおばあちゃんの前に立って、奥さんのピアノの伴奏で賛美歌を歌い、説教をするのだそうです。

 地道な伝道が、今日でもこの国の中でなされています。教会成長などと言った世界とは、程遠い所で小さな群れが、礼拝を忠実に守っているのです。きっと、日本の霊的覚醒(リバイバル)は、こう言った山村や漁村の僻地から、名もない働き人によって起こってくるのだと信じてやまないのです。

 ストーン宣教師やリーパー宣教師は、死を恐れずに、人を生かそうとした生き方で、人生を終えています。極限の状況下で、そう言った選び取りをした決断に、イエスさまの十字架の死を信じた者の信仰が感じられるのです。そのような信仰を継承して、今を生きる人がおいでです。永生の望みの中にあるからでしょうか。驚くことに、リーバー宣教師が亡くなられた後、三男が誕生しています。

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