疎開やパンのことなど

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 2019年の秋に、19号台風の襲来で、住んでいた家が床上浸水にあってしまいました。その家の管理をされていたご方の友人の教会が、宇都宮市の隣町にあって、そこに急遽連絡をとってくださって、3週間ほど、〈令和の疎開〉をさせていただいたのです。

 疎開と言うのは、戦時下に、空襲を避けるために、学齢期の児童を田舎に移動させた、〈学童疎開〉がありました。主に首都圏の東京から、近県の栃木、群馬、山梨、長野に、お寺などに集団疎開がありました。第一陣は、19448月に、板橋区の学童が、群馬県に疎開しています。その他には、親戚や知人を頼ってなされた〈縁故疎開〉があったようです。親元を離れた集団生活の話を、何人かの方から聞いたことがありました。

 避難でしょうか、疎開でしょうか、そこは、教会の二階のゲストルームでした。教会のみなさんが、秋の果物やお米などを差し入れしてくださって、実に親切で快適な時を過ごさせていただいたのです。避難生活というよりは、なにかホテル住まいをしたようでした。あのご好意が忘れられません。

 その近くに、御料牧場があるのだと、最近聞ききました。天皇ご一家が、ひさしぶりに、そこを訪ねられたそうです。美味しい野菜や果物や卵や肉が収穫されるのでしょう。

 そう言えば、お隣の国でも、中央の党の幹部のためには、特別栽培や飼育の農園や牧場があって、何千人もの人によって従事されていて、幹部の家族を養っていると聞きました。地方の省や市や村も、同じなのでしょう。ですから党員になる人が多いかと言うと、誰でもがなれるのではなく、推薦されるのだそうです。知人には、それに見向きもしないかたが多くいました。

 美味しい物や安全な物を食べても、病む人は病んでしまいますし、健康な人は健康なのです。一度くらいは、そんな食材ののった食卓についてみたいものです。舌が肥えていない自分には、その違いが分かりそうもありませんが。

 

 『一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。(箴言171節)』

 いつ失脚するか分からないような社会で、地位を追われるかも知れないと、オドオドして美味しいものを食べるよりは、平和な内にオジヤやスイトンを食べていた方が、きっと幸せに違いありません。

 お殿様が美味しかった庶民の味、〈目黒の秋刀魚〉ではありませんが、長く過ごした華南の街から遠く離れた海浜の村で食べた、中華鍋で焼いた薄皮の麺に野菜や肉片の入った伝統食が美味しかったのです。日本円で30円くらいの村人の名物でした。あれを、父や母に食べさせたいと思ったものです。元気だったら満面笑みをたたえながら喜んでくれたことでしょう。

 母は、子どもの頃に、オジヤを散々食べたそうで、唯一嫌いな食事だったのを思い出します。もう一度母のかた焼きそば、父の約束不履行の駒形のドジョウ鍋を食べてみたい、春の今日この頃です。

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