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こんな句が残されています。
風車 風が吹くまで 昼寝かな
オランダの象徴のように、風に身をまかす「風車」が、風の起こるまで、じっと待っている姿が、見て印象的だったのでしょう。左遷され、不遇な時期に、オランダの風車を眺めたからでしょうか、ジタバタしたり、悔やんだりしないで、読書に専念していた頃に、第32代総理大臣を務めた廣田弘毅が、「かざぐるま」と詠み始めた句なのです。このお方の生き方そのものだったようです。
江戸期の幕藩体制化、筑前国に、黒田氏の治めた「黒田藩(福岡藩の俗称でそう呼ばれています)」がありました。この藩士たちを、「黒田武士」と呼び、明治維新後、この黒田の武士たちによって、欧米の植民地化されていたアジア諸国の解放を旗印に立て上げた政治団体に、「玄洋社」がありました。
この団体は、ただの〈右翼〉では片付けられない、明治維新政府の偏向を正す意味でも、その主張や動きや存在に、大きな意味があった、と見ていいのではないでしょうか。後に、外務大臣、総理大臣に就任する若き日の広田弘毅は、父と共に、この玄洋社に関わっていたのです。
この父子は、日宋貿易の商取引の中心地の博多の出身でした。そこで、お父さまは、農民野出で、丁稚奉公をし、石屋の養子とされた勤勉な石工をされていたのです。ただの石工ではなく、政治的にも目の開かれていた人でしたので、その親を見て育った広田弘毅も、父の信念に従ったのだろうと思われます。この方の半生を見た時に、いわゆる極右であったとは言えません。
福岡の名門の修猷館(しゅうゆうかん)中学校から、一高、東大に学んだ優秀な学徒で、外交官試験に合格し、外交官となって、国に仕えようとした人でした。不遇時代に、苛立ったり、悔やんだりするのではなく、風が吹き始めるまでは、読書三昧で過ごし、日本の行くべき道筋に思いを向けていたのです。人は屈んでいる時に、力を蓄えられるのかも知れません。
平和な時代に、生きることを許されず、大国主義の日本の怒涛のようなうねりの中で、終戦を迎えます。戦後処理の「極東軍事裁判」で戦犯として処刑されて、その生涯を終えてしまった、実に惜しい器だったのです。平和な時代に生きて、穏やかな日本に、良き導きをして欲しかった器でした。
その東京で開廷された、日本の戦争責任を問う裁判の折、法廷に立つ被告たちの裁判に不利にならないように、自らの弁明を引っ込めたのです。二・二六事件後に、軍人畑でなく、名門出でもない廣田弘毅が、首相に就きます。また盧溝橋事件後に、外務大臣に就き、和平工作に広田弘毅は励のでですが、それを阻まれます。
その首長在任中の南京陥落、南京虐殺、さらに太平洋戦争開戦時の外務大臣時、さらに総理大臣時の責を負っても、自己有利な証言をせずに、断頭台に上がったのです。戦争には、直接関わらなかった非軍人に、死刑を宣告した東京裁判にも、大きな問題が残るにではないでしょうか。でも、広田弘毅の「潔さ」は、あの責任回避、責任の擦り合いのさなかで、際立っていたのではないでしょうか。
要職にあった時、地元に道路を敷いたり、橋を架けたり、工場を誘致したりなどの、故郷への貢献などは、全くしなかった人だそうです。ただ、古里の若い人を激励したり、育てたりした人でした。また、東京に連れて行こうとしても引き返すお母さんをおぶって、家に連れ帰ったりした、市井の人だったのです。それで、私のpen name は、この方の名に因んでいるのです。
『廣田弘毅ばよか男やけん!』、この人のような政治家を、今の時代こそ必要としているのですが、どこかに隠れて、風車を見ているのでしょうか。次の日曜日は、わが県議会の議員選挙の投票日です。
(オランダの風車のイラスト、博多湾全景です)
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