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初めての南米、アルゼンチンの「ブエノスアイレス(Buenos Aires)」の飛行場に降り立った時に、『40年前に、もしこの街に出かけて来て生活をしていたら、どんな生活をしていただろうか?』との思いでいっぱいにされたことがありました。初めての訪問で、珍しさで興味いっぱいなことは、常にあるのですが、このブエノスアイレスの街への訪問は違っていたのです。
それは初めての訪問地なのに、《懐かしい感情》があったのです。十七の私は、気が多かったのか、放浪癖の思いがあったのか、南半球の街に行ってみたい思いが、強烈にあったのです。南十字星の神秘的な輝きを見上げてみたかったり、ヨーロッパ人が入植して造った国の街に行ってみたかったのです。
イタリヤやスペインからの移民が、大西洋を航海して着いたのが、「ボカ(Barrio la Boca)」という港町でした。移民した人たちは、故郷の国を感じたくなると、この港にやって来て、来た方に、いつまでも目を向けていたそうです。帰る術のない人たちが、船が着岸した箇所で、故郷を偲んだわけです。その一廓に、カミニート(Caminito小道の意)があって、そこで音楽が奏でられ、踊りがなされて、アルゼンチンタンゴが誕生したと聞きました。
ちょうど横浜や神戸や函館のような港町なのでしょうか。曽祖父以来、海と関わって来た父の出だからでしょうか、海への郷愁が、私の内にはあるのかも知れません。潮騒が、無性に聴きたくなって、車を飛ばして海に出かけたことが、若い日にあったりでした。岸に打ち寄せる波が、砂浜で砕け散る潮の音が、子守唄のようだったのでしょう。
官能的な響きの中には、故郷回帰の思いが駆り立てられたに違いありません。でも、街中のレストランに入ると、ウエイターの接客術が実に素晴らしかったのです。誇りを持った professional な意識で仕事をされるみなさんを見て、テーブルに運ばれて来た料理が、さらに美味しかったのです。
首都の、街を出ると延々たる〈パンパ〉と呼ばれる大草原が広がっていたのです。その写真を見てから、その地の上に立ってみたかったのです。さらにその草原を越えて、アンデス山脈の麓にあるメンドウサという街があって、それも気になっていたのです。メンドウサには行けなかったのですが、自分が生まれた故郷が、葡萄の産地で、葡萄酒の産地でしたから、そこに似た街にも行ってみたかったのでしょう。
街の道を行く男性たちは、しっかりと背広を着ておいででした。しかし、経済的に難しい状況下で、着ていたのは着古した物だったのです。それでも背筋をピーンと伸ばして、彼らは紳士でした。
アルゼンチンの人たちは、日本のことを知っていて、『狭い日本に、アルゼンチン人が住み、広大なアルゼンチンに日本人が交代して住んだらいいのではないか!』と言うほどでした。日本人の移民に歴史もあり、移民初期のみなさんは、その白人優先社会で、なかなか苦労をされたそうで、クリーニングや花屋をされながら生計を立てて、移民二世を育てられたのです。
(ブエノスアイレスのカミニート、初夏の街中に咲く「ジャカランダ」の花です)
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