どう生きる

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 『自分の思い通りに生きたかどうかが大事。』、ある人が、ご自分の人生を、こう言って生き、立派な業績を残され、賞賛を受けられたのですが、病に倒れて亡くなりました。

 ところが聖書は、次のように記しています。

 『まことに主は、イスラエルの家にこう仰せられる。「わたしを求めて生きよ。(アモス54節)』

 『そのころ、ヒゼキヤは病気になって死にかかっていた。そこへ、アモツの子、預言者イザヤが来て、彼に言った。「主はこう仰せられます。『あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。直らない。』」 そこでヒゼキヤは顔を壁に向けて、主に祈って、言った。「ああ、主よ。どうか思い出してください。私が、まことを尽くし、全き心をもって、あなたの御前に歩み、あなたがよいと見られることを行ってきたことを。」こうして、ヒゼキヤは大声で泣いた。 そのとき、イザヤに次のような主のことばがあった。 「行って、ヒゼキヤに告げよ。あなたの父ダビデの神、主は、こう仰せられます。『わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ。わたしはあなたの寿命にもう十五年を加えよう。 わたしはアッシリヤの王の手から、あなたとこの町を救い出し、この町を守る。(イザヤ3816節)』

 病気になったユダ王国のヒデキヤ王に、預言者のイザヤは、「病は治らずに、死ぬ!」と、主からのことば告げました。病気になった時に、ヒデキヤは自分の生涯を振り返って、大声で泣いて訴えたのです。時は、アッシリアの猛攻を受けて、国家的な困難な状況下にありました。憐れみ深い神さまは、彼の生涯に「十五年」を加えられたのです。それでも、彼は最終的には死んでしまいます。
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 人は、願わない「死」を避けることができないのです。みんな、『あのことも、このこともしたかった!』と思いながら志半ばで、その時を迎えねばなりません。彼の死を知らされた人は、『もっと生きて、もっと素敵な働きをして欲しかった!』と、その死を惜しむのですが、人の願いの届かないところに、人の一生があるのでしょうか。

 どうも人は、〈思い通り〉に生きて、〈何をしたか〉によって測られるのでしょうか。業績主義のこの社会の中では、そうに違いありません。『あのダムは、お父さんが作ったんだよ!』も、『このスリッパはお父さんが作ったの!』とは、双方の子どもにとっては、自慢のお父さんの仕事によるので同じです。ところが履き古して一年でダメになるものと、半世紀以上も貯水と発電の働きをするものでは、貢献度が違うわけです。でも一事に全情熱をかけているなら、同じなのです。

 思い通りに生きた人が、翻って自分の来し方を振り返ってみるなら、果たして、思い通りであったかは確かではなさそうです。でも悔いのない一生を生きるとするなら、例えば、正しい動機で生きた一生は、素晴らしいに違いありません。パウロが、『こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。(1コリント10章31節)』と、コリントの教会の信仰者たちに勧めたことばは、万金に値します。

 人が、自らを創造した神のいますことを認め、神の栄光のために生きるなら、それに優った一生は他にありません。そのような人に、『よくやった。良い忠実なしもべだ。』と、主人(神)に言われるなら、それこそが、最善な私たちの生き方に違いありません。そう、神さまの評価を得られる一生を生きたいものです。

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