聖書の感化力(山室軍平の講話)

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 ある時一人の上手な掏摸(スリ)があり、東海道から東北にかけ、おもに汽車の中にて仕事をしておったが、それでも「猿も木から落ちる」習い。都合十三度捕らえられて刑務所に入れられたのである。

 十三度目に神戸にて捕えられ、まだ未決に居る間に、はからずも一人の商人と同室することとなった。ところがその商人というのは、あまり大した犯罪をしたわけでもなかったので。もし宅から関係所願を取り寄せて弁明すれば、きっと無罪になるであろうと。

 刑務所から書類をみとめてその妻に送り、『書類を差し入れるように』というてやったところが、妻は一文普通(読み書きができないこと)の女ゆえ、手紙を近所の代書に持って行って読んでもらうと。

 どうした間違いか、「書類」というのを「書物」と読み違えた。そこで妻が思うには、これは刑務所の中で退屈ゆえ、本を読んで気を紛らわそうとするのであろうと。その夜神戸市の夜店をひやかして歩き、無筆(文盲の

意味)のことであるから、ただ紙数が多くて値段の割合安いものをとたずねまわったあげく、なんの書物とも知らずに買い求めたのが、一冊の新約聖書であったのは、不思議というも愚かなことである。

 さてその商人は、そに差し入れられて、意外の思いをなし。『書類をよこせというのに、こんなもになど差し入れて、一体なんの書物でしょうか』と、そばにおる例の十三度のスリに尋ねたのである。

 スリはもとより新約聖書がなんだか知らないけれども、「耶蘇(ヤソ)」だの、「基督(キリスト)」だのと、いうことが沢山書いてあるから。「これは耶蘇の書物に相違ないよ」といいながら退屈しのぎに、マタイ伝の始めから、これを読んでみたが、さっぱりその意味がわからない。

 なおもだんだん読んでいくと、その第九章十二節以下、「健康なるものは医者の助けを求めず、唯病ある者之を需む。我が来るは義(よ)き人を招く為に非ず。罪ある人を招きて悔改めさせんが為なり。」という一句に至り、彼はたちまち電気に打たれるごとく覚えた。而(しか)して思う様、何でもこれは一人の偉いお方があって、自分どものごとき罪深い者を済度(さいど/救うの意味)する為に、この世にお降りなされたということに相違ないと。

 以来、しきりにそのことを思いめぐらし居ると、一方の商人は間もなく愈々(いよいよ)無罪と決まり、その聖書を持って出ていってしまった。あとでスリは、なおも右新約聖書の続きが読みたくてたまらず。「なにとぞお預けした金の中から、一冊の聖書を買うて戴きたい」と願い出ると。

 教誨師のお坊さんが来て、「耶蘇は国賊であるから、そんな書物を読むより御経でも読め」といわれ。また看守が来て、「耶蘇教の本なんか読むより、法律でも調べろ」と叱られるのを。「何が何でも新約聖書を買ってくだされ」と願出たので、終に刑務所に会議にかけられ、その結果ようやく許されて、これを手に入れることができた。

 その後、同人は刑務所に、頻(しきり)にその一巻の新約聖書を読み、放免になって出てきた時には、十数人の仲間の者が、はるばる東京横浜あたりから迎えに来て居ったのを、好加減においかえしてしばらく宿屋に泊まり。種々思案をこらした後、ついにある牧師を訪ねて、耶蘇の救いのお話を聞き。以来心を改めて真面目な基督者となり。それより三十年後の今日は、自分で釈放者保護の事業を経営するほどになったのである。

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