背負子を負いつつの今

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 先日のメールで、鋼のような強靭な体を持っていた弟が、自分を、〈サビ鉄〉だと言ってきました。刺身に添える「山葵(わさび)」の〈サビ〉のことではなく、「錆」の〈サビ〉なのです。

 学校に行っていた頃は、登山が好きで、富士山や奥多摩の山小屋で、〈背負子(しょいこ)〉を負って、麓から資材や食料を運び上げ、山で病気になった人を担いで、麓まで下山したり、プロ並みの「強力(ごおりき)」のアルバイトをしたりしていました。体育教師になりたくて、体育学部のある大学に進学し、アイスホッケー、少林寺拳法、柔道と、なんでもこなしていたのです。

 卒業した後に、推薦があって、ある職場に就職をしたのですが、自分には相応しくないと判断して辞めて、翌年、高校時代の恩師の紹介で、都内の女子高校の教師になりました。ところが、母校から招聘があって、そこで定年退職まで働いたのです。退職後は、自分のデスクを構内に持って、若い教師の指導や相談をしていました。

 彼の転職で不思議なことがあったのは驚きました。私と親しくしてくださった、某大学の先生が、『君に紹介したい人がいるのだけど、東京に出てきませんか?』と言ってきたのです。それで所定の時間に、帝国ホテルに行ったのです。話をしていると、もう一人の教師を招こうと交渉中とのことで、誰だか知らされていなかったのですが、話によると、どうも弟ではありませんか。弟は母校ですが、私は外部者なのに、同じ時に誘いがあったので、一番驚いたのは理事長さんでした。

 課外では、警視庁の少年課のスタッフと一緒に、盛場を徘徊したり、家出している中高生たちの街頭指導をずっと、彼はしてきています。今も現役なのです。ところが先日、体調を崩して入院をしてしまいました。それで、自分に〈サビ〉が出てしまったと言ったわけです。講道館では赤帯を許された猛者なのにです。

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 先週の兄弟たち三人へのメールでは、〈ボロ鉄〉だと言ってきました。しっかりした信仰をもって、キリスト教主義の幼稚園から、高校まで、帰国子女を含めた学園で、大勢の子どもたちを教えてきたのです。ある夏、クラブの合宿で、千葉の海にいた時に、生徒たちが三人が、「ミオ」と恐れられる波にさらわれてしまったのです。遊泳禁止中でしたから泳がずに、砂浜を歩いていた時でした。二人を荒海に入って救助したのですが、三人目を助けに入ろうとしましたら、地元の漁師たちに羽交い締め(はがいじめ)されて、『一緒に溺れてしまうのでやめて!』と、強引に阻止され、涙ながらに断念したのです。

 それは、教師としては、極めて痛恨の経験でした。水難事故の時期になると、弟は、必ずこの浜を訪ねて、思いを新たにしてきたのです。それから、髭を生やし始めたでしょうか、これ髭がない方が優しい顔なのに、気を引き締めるためか、いつまでも忘れないためか、教えや指導に対する一つの決心をしたのでしょう。

 鋼鉄のごとき身体も、やはり衰える時が来るのでしょうか。でも精神は、まだまだ強いのです。私が父に叱られて、家を出されると、幼い弟は、いじめていた兄の私なのに、一緒に泣いて、外に出てくれたのを、昨日のように覚えています。まだまだ三人の子や孫たちの、相談相手でいて欲しいものです。あの背負子に、食料や資材を担ぎ上げ、病気をした病人を負って麓まで降りたように、多くの教え子(責任)を負いながらここまで仕事をしながら生きてきた弟です。彼自身は、救い主に背負われながらの七十年になります。まだまだ元気でいてほしいと願う不才の兄であります。

(「背負子」、母の故郷に近い奥出雲の「たたら製鉄」の炉鉄風景です)

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