人の言葉と預言者のことば

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 日本で、本格的な国語辞書として、19555月に、岩波書店から、「広辞苑」が刊行されています。戦争前に、「辞苑」という辞書がありましたが、それを基に、新村出の努力によって、出版刊行されています。何と、語彙数は、20万語もあったのです。

 まだ小学生の私に、父が、漢和辞典の「字源」と対で買ってくれたのだと思って、独占して使い始めたのです。各語には類似語があって、それを次々に引いていくのが面白しかったのを思い出します。多分、四人の兄弟の中では、自分が一番多く使ったと思います。使い古して、引っ越しの時にでしょうか、どこかに行ってしまったのは残念でした。

 国語辞典とか百科事典で有名なのは、「ブリタニカ」や、「ウエブスター」があります。それには及びませんが、「センチュリー大辞典」と言う辞書が、発刊されました。その一冊を、癌を患っていて死期の迫っていた、あの尾崎紅葉が買い求めたのだそうです。「言語」に対する思いの強さに、驚かされます。

 江戸の芝中門前町の商家に生まれ、府立二中(東京の名門の日比谷高校の前身)から、東京帝国大学国文科に入学しますが中退、文筆活動に入り、江戸の井原西鶴を思わせる文章を著して、文壇に名を馳せたと言われています。

 その「センチュリー大辞典」ですが、その逸話を、東京都中央区の観光協会が、次の様に伝えています。

 『その紅葉と日本橋の丸善を結ぶ逸話が、内田魯庵(1868-1929)の『思い出す人々』に描かれています。魯庵は評論家、翻訳家、小説家として活躍した人ですが、当時丸善本社に書籍部顧問として入社、PR誌「学鐙」の編集や洋書の販売に尽力していました。

 明治の文壇にあって一世を風靡し、広汎な読者を獲得した紅葉ですが、若くして不治の病におかされ、余命三月を宣告されます。やせ衰えて丸善に来た紅葉は、『ブリタニカ』を注文しますが、品切れのため代わりに『センチュリー』を百何円の大金を手の切れるような札で買っていきます。紅葉は決して豊かではなかったそうです。魯庵は、死の瞬間まで知識の欲求を忘れず、豊かでない財嚢から高価な辞典を買うことを惜しまなかった紅葉に讃嘆します。

 魯庵は紅葉や硯友社の作品については批判的で、二人の仲も疎遠だったようですが、このときの「小一時間の四方山話」では、わだかまりもなく打ち解けることができたと書いています。そして誰も知らない「この紅葉の最後の頁を飾るに足る美くしい逸事」を後世に伝えるのだと言っています。「紅葉は真に文豪の器であって決してただの才人ではなかった。』

 文豪の尾崎紅葉の文章には、驚くほどの美しい言葉が用いられていて、日本語への飽くことのない愛があった様に感じられます。

 『未(ま)だ宵ながら松立てる門は一様に鎖籠(さしこ)めて、真直(ますぐ)に長く東より西に横はれる大道(だいどう)は掃きたるやうに物の影を留めず、いと寂くも往来(ゆきき)の絶えたるに、例ならず繁(しげ)き車輪(くるま)の輾(きしり)は、或(あるひ)は忙(せはし)かりし、或は飲過ぎし年賀の帰来(かへり)なるべく、疎(まばら)に寄する獅子太鼓の遠響(とほひびき)は、はや今日に尽きぬる三箇日(さんがにち)を惜むが如く、その哀切(あはれさ)に小さき膓(はらわた)は断たれぬべし。』

 これは、名作で、歌にも歌われた、「金色夜叉(こんじきやしゃ)」の冒頭の原文に、ふりがなが振ってあります。この作品は、1897(明治30)年11日~1902(明治35)年511日まで、読売新聞に掲載された小説でした。120年前の日刊紙に、こんな文体で、毎朝の新聞に目を通して、愛読の読者がいたのです。それでもしゃべり言葉は、次の様に、これもふりがなを振りました。

 「何だ、あれは?」、「それはどうも飛でもない事を。外(ほか)に何処(どこ)もお怪我(けが)はございませんでしたか」、「唯今(ただいま)絆創膏(ばんそうこう)を差上げます。何しろ皆書生でございますから随分乱暴でございませう。故々(わざわざ)御招(おまねき)申しまして甚(はなは)だ恐入りました。もう彼地(あつち)へは御出陣にならんが宜(よろし)うございます。何もございませんがここで何卒(どうぞ)御寛(ごゆる)り」

 会話の様子は、口語体で書かれています。江戸期にも、喋り言葉は、今と同じで、ことば数は、外来語も含めて多くなってきていたのです。近代日本語を、作り上げた一人が夏目漱石(1867~1916)だだったのですが、この漱石は、江戸落語の三遊亭圓朝(18391900年)の寄席に通って、しきりに耳を傾けたのだそうです。

 「その圓朝の芸風は、夏目漱石が、高く評価していて、『その工(たくみ)が不自然でない。』、『余程巧みで、それで自然!』と言っています。まさに圓朝の噺は至高の芸だった様です。高度な表現技術を持ち合わせながらも、それを感じさせないごくごく自然な語り口で、しかも情味にあふれる芸風となっていたのである。」と評されています。それにしても、35歳で亡くなっているのは、惜しまれた死であったのです。

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 人の言葉の美しさを思う時、今、順次読んでいる「イザヤ書」の文体は、翻訳の日本語でも、美しく詩的であります。なおのこと文語訳聖書の表現が、個人的に自分は好きなのです。神からのことばを、掲示されて記したイザヤは、「主の救い」という名を持つ人でした。イスラエルの預言者として、ユダ王国(BC930年頃〜586年)の後期に活躍して生涯を送ります。

 3000年の昔に、こんな文学性を持った預言者がいて、「神のことば」を取り継いだわけです。明治期の文学の世界で、高く評価されて高名を得た尾崎紅葉の流麗な日本語も、「神のことば」には、比肩することはできません。神の愛に溢れる「ことば」には、いのちが溢れ、人を生かし、人を悔い改めさせ、永遠のいのちに至らせることができるのです。

(紅葉の生まれた芝周辺の古地図、預言者イザヤです)

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