ただ感謝あるのみ

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 『天よ。喜び歌え。地よ。楽しめ。山々よ。喜びの歌声をあげよ。主がご自分の民を慰め、その悩める者をあわれまれるからだ。(イザヤ4913節)』

 小学校の何年生だったかの記憶がないのですが、私たち四人の男の子たちの父親は、お酒を飲まない代わりに、食通だったのでしょうか。若い頃は、稼ぎが良かったのでしょう、大島紬の和服を数着持っていて、羽織には〈家紋〉が付いていました。

 良い物好みで、持ち物は多くは持ちませんでした。物を大事にする人でした。昔の人が、そうだったのでしょう、良い物をわずかに持ち、和服の洗い張りとか縫い直しとか、Yシャツの襟の裏返をして、衣替えすると大事に保管もして来季に備え、襟などの汚れた箇所は、母にシンナーで拭かせていました。

 靴など、母がピカピカに磨き上げ、クリーニングに出したYシャツを着て、いわゆる dandy で、颯爽として都内に勤めに出ていました。ある時、渋谷に連れ出してくれて、青山だか六本木だったでしょう、『こんなの初めて!』と言う、柔らかな子牛と豆と黒パンの料理とデザートをご馳走してくれたことがありました。私は、子どもたちには、そんな豪華な目を見張るようなものはご馳走したことがなかったのです。父に真似られない懐事情だったからでした。

 そんな父親に真似た点だってありました。勤めを始める私に、次兄が、背広を誂えて、就職祝いをしてくれたのです。それに見合うように シャツを誂え、メーカーの名前を忘れた名靴を履き、父のように背筋を伸ばして、颯爽と通っていました。少なくとも5年間は、父似の dandy な青年でした。

 自分なりに夢を持って、社会人として生き始めて、けっこう順調な始まりだったと思うのです。ところが、キリスト教伝道者になるように迫られて、その夢を替えました。その職場を退職して、宣教師と共に出かけて行くまで、母教会の信者さんの経営する、鉄工所で、溶接工として働かせてもらい、大きな自動車工場の溶鉱炉の中で、煤で真っ黒になりながら働いたこともあったのです。

 その方のお嬢さんの家庭教師をしながら、出かけるのを待機していたのです。その職場のおじさんが、『キリスト教って、教師を辞めるほど、収入が多いんですか?』と聞かれたのです。だいたい転職の動機は、待遇の良い職種や職場に移って行くのが常なので、そう、聞いてきたわけです。『ええ!』と答えた私でした。

 それで、母教会から、1時間半ほどの街に出かけたのです。そこには、父の知人がいて、この方の紹介で、青果物の卸商の荷運びの手伝いを、地元の青果市場で始めたのです。ネコという台車で、同じ年齢の青果商が競り落とした蔬菜や果物を運んで、大きな車の荷台に積み上げて行く仕事でした。学校時代に、青果市場でアルバイトをしていたことがありましたから、なんの苦にもなかったのです。

 それでは、家族を養うには、足りませんでしたので、母教会が、長い間助けてくれたのです。そして、卸商の方が、優しい人で、野菜や果物を、『これ食えし!』と言っては、いつも分けてくれたのです。数年経った頃でしたが、東京に用があって行って、母を訪ねたのです。新しい地での生活を心配して、住んでいた家を訪ねると言った母と一緒に、特急電車に乗ったのです。

 その同じ車輌に、後に校長になられる、私の勤めた学校の上司、社会科の主任の先生が乗っていたのです。あちらは気付かなかったのですが、意気揚々と退職した職場の主任に、弟に貰ったズボンとジャンパー姿で、颯爽として働いていた頃とはだいぶ違った自分を、誇らなければならないのに、初めて恥じたのです。クルッと顔の向きを変えてしまいました。

 献身の生活は、持ち物も少なく、貧乏臭く見えたのでしょうか、母が、とても心配してくれました。それ以来、隣国に行っても、月々、母は、遺族年金から、天に帰る少し前まで、大金ではありませんでしたが、援助し続けてくれたのです。家内はパートで働くと言ってくれ、乳酸菌飲料の配達などを、子育てしながら、喜んで続けてくれたのです。足りないことも、人に物やお金を乞うことはしないで、生きてこれました。それは今に至るまで同じなのです。

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 イエスさまは、アッシジのフランチェスコのような乞食のような身なりはなさらなかったのです。フランチェスコは履物を脱いで裸足で歩き、皮のベルトでなく縄を腰に巻いた姿で歩いた人だったそうです。奇行などではなく、物の豊かさや華美に生きることもなかったのが、イエスさまでした。人から哀れさを感じさせるようなことはありませんでした。ローマ兵が、十字架に行くイエスさまの服を、くじ引きにした記事が、聖書にあります。皇帝に養われていたローマ兵が、くじ引きするほどに、イエスさまは良い物を身につけておいででした。決して惨めな風体ではなかったことになります。

 また、母国の団体や幾つもの教会から援助されている宣教師さんたちとは違い、私たちの交わりの宣教師さんたちは、個人の立場で、家族や友人たちの support  で伝道されていました。大きな家にも住んでおいでの欧米からの宣教師さんたちが、保養地に別荘を持っていたのに、私たちの交わりの宣教師のみなさんは、そう言った生活をされませんでした。

 ある宣教師さんの家に行くと、いつもスパゲッティが出て来たそうです。それだけしか出せなかったのです。その方のお父さまは、母国の教会の牧師さんでしたが、母国の諸教会に手紙一本出すことも、援助の要請もしなかったのだそうです。送られてくる愛心で、生活をし奉仕をしておいででした。その5人のお子さんたちの4人が、今は伝道の働きをし、3人は日本で奉仕しておいでです。残りのお嬢さんも、留学生のお世話をしながら伝道をし、一番上のお嬢さんのご主人も教会の役員をされています。奥さまは、ご主人を天に贈られて45年の経った今年、100才になられます。

 どういうわけか、疲れてしまった私と家内を、その宣教師さんは、ご自分の教会に、家族で、きっと招いてくれたのです。まだ、家で学んでいたお子さんたちは、私たちに部屋を三日ほど提供し、どこかの隅で寝ていたのです。そんな彼らは、豊かには見えませんでしたが、説教の謝礼と言って、けっこう高額な献金をいただいて、帰宅したのです。この方が、理解者でいてくださったことが、今日がある所以です。

 『ユリ、準は大丈夫だからね!』と、夫を助けていきなさいと言ってくださったそうです。今は、満ち足りる喜びで、今はゆっくり静かな時季を、巴波川のほとりで過ごしています。時々、息子たちが、様子を見に来たり、助けに来てくれています。『お父さんたち大丈夫なの?』などと、親が言ってきたことを、〈鸚鵡返し〉に言ってくれれいます。感謝な日々です。

 三年ぶりに、帰省してきた長女が、二週間の滞在中に、家事をしてくれています。ちょっと痩せてきている家内に、美味しいものを食べさせようとしてくれているのです。この土曜日には、姉に会いたくて、昼過ぎに次男が、家内と姉の好物、新宿のデパ地下で買ってやって来ました。夕方には長男家族が訪ねて来たのです。二人だけの家が、急に賑やかで笑い声が溢れました。ちょとお風邪気味の私の方を、嫁御が揉んでくれ、孫たちと談笑しながら食事をしたら、頭の痛いのが飛んでいきました。

 これまで歩んできた一日一日に、主の守りと祝福がありました。「人生の秋に」生きている私たちですが、為すべきことがあって、それに忠実でありたいと思う日々です。感謝のほか何もありません。

(ダンディー親爺、団欒のイラストです) 

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