スケープ・ゴート

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” Scape goat “、という言葉があります。これは、よく言われている様な「いじめ」とは違います。ユダヤの古書の中に、これについての記事が、次の様にあります。

「彼(アロン)はまた、イスラエル人の会衆から、罪のためのいけにえとして雄やぎ二頭、全焼のいけにえとして雄羊一頭を取らなければならない。
アロンは自分のための罪のためのいけにえの雄牛をささげ、自分と自分の家族のために贖いをする。
二頭のやぎを取り、それを主の前、会見の天幕の入口の所に立たせる。
アロンは二頭のやぎのためにくじを引き、一つのくじは主のため、一つのくじはアザゼルのためとする。
アロンは、主のくじに当たったやぎをささげて、それを罪のためのいけにえとする。
アザゼルのためのくじが当たったやぎは、主の前に生きたままで立たせておかなければならない。これは、それによって贖いをするために、アザゼルとして荒野に放つためである。

アロンは生きているやぎの頭に両手を置き、イスラエル人のすべての咎と、すべてのそむきを、どんな罪であっても、これを全部それの上に告白し、これらをそのやぎの頭の上に置き、係りの者の手でこれを荒野に放つ。
そのやぎは、彼らのすべての咎をその上に負って、不毛の地へ行く。彼はそのやぎを荒野に放つ。」

 この荒野に放たれた山羊を、「スケープ・ゴート」と言います。この言葉を聞くと、一人の政治家を思い出してしまうのです。三重県から選出され、将来、トップの座を嘱望された国会議員に、藤波孝生という方がいました。ロッキード事件があって、その裁判が行われた時、官房長官として事件に連座した藤波氏が、裁判で有罪判決を受けます。その後日譚で、次の様に、ご自分の秘書に語ったそうです。

 『中曽根政権のときの問題は官房長官だった自分が責任を取ることが大事だ。田中角栄さんが捕まった、今度は中曽根さんが捕まったとなれば、日本の首相は終わった後、逮捕されるといわれてしまう。そんな国にしたくないだろう!』とです。ご自分の意思で、罪を負われたのです。それで将来の首相の機会を捨ててしまいました。

 先日亡くなった、中曽根元首相の罪を、自ら負った藤波氏の様なあり方は、もう流行らないのでしょう。大方、人は、自分の罪を他者になすりつけて、『大義のために仕方がなかった!』と考えがちです。これこそ政治の裏面にある出来事、悪弊です。どれだけの「秘書」が、そうなって表舞台から消えていったでしょうか。「悔し涙」を流した人は多そうです。

 その年のイスラエル人の全ての罪を告白され、負わされて、荒野に放たれる〈アザゼルの山羊〉は、荒野で狂い死にするのだと聞きました。そういう使命を担わされて生まれ、クジによって選ばれ、死んでいく山羊は、人の罪の重さ、厳粛さを示しています。「大贖罪日」の喜びの日に、その隠された裏側で、こんな理不尽な死があったことに、もっと人は注目しなくてはなりません。

 軍隊の内務班で、銃の解体掃除の時に、ネジをなくした兵士がいて、『誰か?』と責められ、臆して出られませんでした。その戦友に代わって、『私です!』といって前に出て、殴打制裁された人がいたと聞いたことがあります。内務班全員が、連帯責任を取らされるのを避けるためでもあった様です。そんな風に、私の根っからの罪を、身代わりに、負ってくださって死なれた方がいたのです。それで今があります。

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生活に美を見る

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 図書館で借りた本の中の記事の一部です。

 『単に陶器に限らず、広く美術作品についてもいえることだが、「生活から見る」ーこの鑑賞態度を私は提唱したい。美術展などに並んでいるすばらしい作品だけがすばらしいものを持っているという一般の概念には、もういい加減におさらばして、各自が自分たちの生活から物を見てもらいたいものである。

 なるほど美術館や展覧会には、ちゃんとたれかに選ばれた優れた美術品がならんでいる。しかし、わざわざ美術館や展覧会場にいかねば美しい作品を見らねぬと思い込んでいた従来の鑑賞態度は、何よりもまずあまり知的であったという譏(そし)りを免れぬと思う。

 大部分の人たちが知識で鑑賞しているのである。「生活で見よ」ということは、よそ行きの心や態度を棄て、もっと自分たちの生活の中に、対象を選べという意味である。美しいものは、ひとり美術館におさまっているのではない。われらの身の周囲に、食卓の上に、台所にいくらでもあるはずである。それらを探し楽しむ態度こそ、真の正しい鑑賞の態度であろうと思う。

 しかし、かかる態度は近来ほとんど顧みられていない。早い話が三度三度自分が使用している茶碗の模様や、その色彩を意識的に知っている人は、案外少ないのではないかと思う。もちろん感覚的には知っているだろうが、はっきり意識ている人は、まずたくさんはないと思う。これではうそだ!

 自分の生活に中に美しさを発見し、それを楽しむ喜びこそ、新時代の観賞の出発点でなければならない。美とは所詮生活に中において、ありとあらゆる物と事の中からお発見する喜びであらねばならぬ。従って美に対するかかる考え方から出発すると、昔からの有名なものに、必ずしも美があるとはいえず、従来たれも認めなかったもの、必ずしも美がないとはいえない。

 かかる態度に立った観賞態度が練られ、深められて行くに従い、その人の見方は万人に通ずる高さまで到達すると思う。再びいう「生活からものを見よ!」ー。

 知識や観念や概念で見ず、生活から見てこそ、はじめてこちらの純粋の喜びと、対象の持つ美との間に、共感するものが火花の如く散るのである。しかし、この「生活から見る」ということは、必ずしも新しいことではない。われわれの先祖たちは、すでにこれをやっていたのである。



 たとえば、朝鮮人の飯茶碗の中に大名物を作っているし、また茶人たちが雑器を取り上げているのもこの一例である。かかる点では、昔の茶人たちは、多くの功績を持っているが、しかし、ここおで考えねばならぬことは、彼らが発見した喜びは、むしろ茶というものを土台にした喜びであるという一点である。今日われわれは、むしろ茶というものを土台にした喜びと美の創造に当たらねばならない。

 もちろん喜びを発見するといっても、対象の選択ということが大切である。その選択の三大条件は、健全であること、質素であること、国民的であることーこの三つであると私は思う。抹茶にゲンコツをはった茶碗とか、わざと曲げた茶碗などをいいという人があるが、これは喜びではあるが、対象の選択において間違っている。

 不必要な技巧をこらしたものは、健全とも質素ともいえないと思う。また最近多くみる非常に繊細で神経質な模様、あるいは実用にもなりそうもない極端な薄手のものなどは、いずれも健全でも質素でも国民的でもない。

 私は先年、東北地方を旅行して、子供が履いている藁靴を見て、その美しさに驚いたことがある。それはもちろん手製のものであるが、装飾ではなく、ある箇所を特別強めるための、立派な構造上の根拠を持っている。しかもそれは見て非常に質素な美しさに溢れ、しかも父母のわが子に対する愛情までが輝いているように思えた。これこそ真の生活の中にある喜びであり、美であると思った。

 生活的にものを見て、生活的に喜びを発見し、生活的に物を取り入れてゆきたい。ここに次の世代の輝かしい生活の創造があると思うのである。一方製作者も、技術的な、あまりにも技術的な近来の傾向を反省し、無駄な技巧を排し、新時代の日の想像に邁進せねばならぬと思う。』

 (昭和56年5月10日発行 河井寛次郎著「手で考え足で思う」から)

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浅間山

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 信州長野の小諸地方に、「小諸馬子唄」という民謡があります。碓氷峠の馬追いが馬をひきながら唄ったものです。「馬追い歌」とか「馬喰節(ばくろうぶし)」とも言われていたそうです。

小諸出て見りゃ 浅間の山に
今朝も三筋の 煙立つ

小諸出抜けて 唐松(地名)行けば
松の露やら 涙やら

田舎田舎と 都衆は言えど
しなの良いのが 小室節

さした盃 眺めてあがれ
中に鶴亀 五葉の松

祝い目出度の 若松さまよ
枝も栄える 葉も繁る

小諸通れば 馬子衆の歌に
鹿の子振袖 ついなれそ
(以下省略)

 最初の歌詞に、浅間山が歌われていました。1972年2月19日に、この民謡に歌われた浅間山のちかくにあった、河合楽器の保養所の「浅間山荘」を、連合赤軍が人質を取って籠城した、「浅間山荘事件」が起こり、日本中を震撼とさせました。

 70年安保闘争が終わった時期でした。その学生運動の流れの中で、再組織された一団、「新左翼派連合赤軍」が、運動資金という名目で銀行強盗や、銃砲店襲撃などを繰り返していました。警察に追われた連合赤軍は、群馬県の山岳に身を潜めます。そうする内、仲間内の自己批判や相互批判が、いわゆる仲間割れが起こり(〈内ゲバ〉と言われていました)、2ヶ月の間に、12名もがリンチの末、殺害されたのです。この組織は、一致できずに崩壊していきます。

 そん中で、浅間山荘に、管理人の婦人を人質に、その一団の5人が立て籠もったのです。28日に、警視庁の突入部隊によって、事件は終わります。この事件の顛末は、テレビ中継がなされ、報道番組としては未曾有の高視聴率を記録しています。当時の事件への関心の強さがうかがわれます。けっきょく死者3名、重軽傷者27名を出してしまいました。
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 5人の立て籠もり犯は、裁判にかけられ、坂口弘は死刑、吉野雅邦は無期懲役、加藤倫教(逮捕時19歳)は懲役13年とそれぞれ判決が確定します。加藤弟(逮捕時16歳)は中等少年院送致となりました。なお、坂口の場合は、結審まで、事件が始まってから21年の歳月を要したのです。坂東國男は、クアラルンプール事件で釈放されたまま逃走し、国際指名手配中で、今では生死は不明とのことです。

 同じ目的で集められたメンバーですが、仲間内の出身大学間の優位競争の〈力学〉が働いていたことも確かなことだった様です。階級闘争をした者たちの内でも、有名大学、今でいう偏差値の高い難関大学の在校生、退学者が、発言権があって、幹部として幅を効かせていたわけです。

 70年安保の前後の時期、私は社会人として働き、この事件が起こった年の5月に、長男が生まれました。自分の生まれ育った国の中に見られる様々な矛盾や不公平を、暴力を辞さないで変えようとする暴力革命者たちがいました。彼らの青年期に、剥き出しにしていた牙や爪を隠して、その後、政治の世界に進出し、「民主」を掲げて政治家になって、今でもテレビのニュースに顔を見せている残党を見るにつけ、過去の未精算の部分をぼかしながら、政治活動を導いているのには、〈怖い思い〉がしてしまうのは、私だけではなさそうです。

 暴力に訴えて活動し、しかも仲間割れした者たちが、時間の経過と共に、果たして一つになることができるのかが、一番危惧することなのです。そんな背景の人たちが、この国の発言者であっていいのかを疑います。小さく、平凡な日常の事ごとを、忠実にしていかないで、急激な変化を遂げようとするなら、決して成功しません。小事忠実の積み上げだけが、社会を、少しずつ変えて行くに違いありません。

(〈日本経済新聞〉による噴煙を上げる浅間山、山荘です)

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快挙

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 太平洋戦争、日中戦争が終わった日、私は生後7ヶ月でした。山奥の神社参拝客の旅館の離れを、宿舎に借り上げていて、そこで生まれました。村長さんの奥さんの手で、母の胎から取り出されたそうです。世は食糧難の時代でしたが、30代の半ばの父は、軍需工場の責任者で、村の人たちからも差し入れがあって、食料に窮することなく、わが家は生活できていた様です。

 戦後は、戦時中に山の中の石英の搬出に使っていた策動で、父は、払い下げられた県有林の材木を伐採し、京浜地帯に向けて卸す木材業をして、糊口をしのいでいました。男の子4人の将来を考え、教育のために、東京に越すことに、父は決めたのです。

 新宿駅の南口に家を見つけたのですが、東京きっての繁華街が近いので、これから育って行く男の子たちが生活するには相応しくないとのことで、東京都下に家を買って住み始めたのです。ご承知の様に、高度成長期前の日本は、まだ貧しく、敗戦の痛手で一億自信喪失の時代でした。

 そんな時に、肺炎で死にかけた病欠児童は、強くなりたい、喧嘩に強くなりたい願望の私でした。そんな頃、この胸を踊らせる様な出来事がありました。干物と味噌と漬物と麦飯を食べてきた日本人が、ボクシングで世界チャンピョンになったのです。

 1952年5月19日、旧後楽園球場に、特設リングを設けて、白井義男が、世界フライ級チャンピオンのダド・マリノに勝ったのです。日本人として初めて世界のタイトルを手にしたわけです。それは一億日本人に、夢と勇気を与えた衝撃的な勝利でした。虚弱小坊の私も、拳を握りしめて白井義男を応援したのです。28歳、遅咲きのチャンピオンでした。
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 後日、白井義男は、『生まれたのは旧三河島六丁目です。第一峡田小学校に入って、五年生の時に第六峡田小学校というのが出来て、そこに移り、第一荒川高等小学校に進みました。小学校五年までは本当に弱虫でした。』と、いじめられっ子だったと言っています。

 さらに、『同じクラスに強いのがいましてね。いつも何かを買って渡さないといじめられる。だんだんお金がなくなって、仕方ないから先生に訴えたら、その先生が「男なら闘ってみろ!」という感じで、けしかけるわけですよ。もう一人弱虫がいたのですが、二人もいて一人に対抗できないのか、という意味だったのでしょうね。つまり、けんかの勧めです。昔は剛毅な先生がいたものです。ある日の放課後。その「決闘」は学校近くの野原で行われました。相手は二人一緒でも構わないといった態度だったのですが、男らしくというので、まず僕が挑戦しました。「闘えるだけ闘おう!」と捨て身の挑戦でした。無我夢中でぶつかって左四つになり、やあっと声を発したら、相手が足元に倒れていました。結局、その相手とは仲良くなりましたが、その時に、闘いに対する自信が生まれました。そして、運動嫌いの僕が相撲、野球、剣道とスポーツを始めるようになったのです。』と続けています。
 
 白井義男は、ボクサーを目指して銀座のジムで練習していました。そこに、GHQに勤務する生物・生理学者でボクシング指導者のカーン博士来ていて、白井の素質を見いだします。このカーン氏の指導を受けると、さらに力を増したのです。フライ級、バンタム級の二つの日本タイトルを獲得、そして、世界チャンピオンとなりました。四回防衛しましたが、今度はベレスに敗れ、1955年(昭和30年)に引退しています。

 《快挙》という言葉が、小学校二年生の私にも、何となく理解できたのです。負け犬の様な生気をなくしてしまった日本と日本人に、喝を入れ、自信を与えたという意味で、白井義男の快挙は、絶大な意味があったのでしょう。

 学校が好きなのに、微熱が出ては休んで、隣町の国立病院に通院し、粉薬や水薬をもらい、それを来る日も来る日も、食後に飲んでは、一日中、床に伏せていなければならない病欠児童の私に、《強さ》、《強くなれること》を、白井義男は示してくれたのです。この人は、虚弱児に希望を与え、《特技がケンカ》の少年にしてくれたのです。もうしませんが。

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若い日に

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 若い頃に起こった衝撃的な事件がいくつかあります。その一つは、三島由紀夫の自刄事件でした。あの大戦が終わって25年経った1970年11月25日に、市ヶ谷の自衛隊駐屯地で、起こった事件なのです。

 当時、私は、学校の教師をしていました。水曜日の午後は、「研修日」という半日休暇の日だったでしょうか。学校の近くの食堂で、お昼をとっていた時に、テレビで、その事件を現場中継で放映していたのです。大きな衝撃を覚えつつ観たのです。

 作家である三島由紀夫は、「楯の会」を結成します。この会は、民間防衛を目的とし、日本を侵略戦争から守ろうと、若者たちに呼び掛けて結成していました。万葉集に、「今日よりは 顧みなくて 大君の 醜の御楯と 出で立つ吾は」とある防人の歌から命名した会でした。自衛隊への体験入隊などを繰り返して準備していたのです。

 その会の5人の会員と共に、市ヶ谷駐屯地の東部方面総監と面会をします。要求が入れないのを知ると、突然、総監を人質にとって、自衛隊の本丸に篭城してしまいます。それからバルコニーに立って、自衛隊員の決起を呼びかけるのです。ところが聞き入れられないのを知って、三島は割腹自殺をしてしまうのです。三島由紀夫、45歳でした。

 この三島の心の動きや生育歴を、上智大学の元教授の福島章は、次の様に記しています。幼少期の三島は、病弱でした。それで、祖母は、近所の悪戯小僧との遊びを禁じて、三人の女の子との遊びだけが許されて、子ども時代を過ごしています。母親ではなく、祖母の手で育てられ、産みの母親の乳房や膝の上での時間を奪われ、老女と過ごす時間が多かったのです。

 三島の著述から、性的倒錯の背景を、福島章は読み解いています。男性性の弱かった三島は、剣道に打ち込んだり、肉体改造のためにボディビルディングをして、たくましく筋骨隆々とした外観を作り上げていきます。きっと、ノーベル文学賞に近い作家になれた人だったかも知れませんが、その辺に三島の強烈なコンプレックスがありそうです。

 理想的に生長する人は、ほとんどいないのですが、人は誰もが、どこかで修正したり、補ったり、捨てたりしながら、正常を保って生きて行くのでしょう。三島の様な幼児期、少年期を過ごした人が皆、倒錯するわけでもありません。どこかでスイッチが入れ替わってしまうのでしょうか。

 私は三島の文学フアンではなかったので、彼の作品は一冊も読んでいませんが、この歳になると、彼の行動の中に、異変や異常がみられるのに気付きます。三島由紀夫の理想や夢に傾倒し、共に自害した青年が一人いました。私より一学年下の早大卒の森田必勝です。

 左翼も右翼も、暴力や武力で、国を変えようとしていました。ついには裏切りや騙しごとが溢れて、真に一つとなれなかったのです。主導権争いや利権が働き、みんな挫折してしまうので、世の中に「平和」をもたらすことができずじまいでした。

 私の愛読書に、『あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。』とあります。国を変える前に、《自分が何者であるか》を知らなければなりません。

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名月

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 今月昨夜、同じ月の「月」なのに、次男が撮った月と、私の撮った月との違いです。古来、中秋を飾る名月は、やはり名月、美しいものです。取って、手にしてみたいほどです。長女が、ロサンゼルスで撮った月(真ん中の写真です)を追加します。同じ月を見たという共通点があります。

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大岡越前守忠相

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 江戸南町奉行であった大岡越前守忠相(ただすけ)の「お裁き」を、講釈師の村井貞吉が書き上げてたものに「大岡政談」があります。これは史実ではなく創作で、「講談」という話芸で語られたものす。その中に、「子争い」言う出し物があります。

 『ある時、大岡越前の所に、ふたりの女がひとりの子を連れてやってきました。ふたりの女は共に、「自分こそこの子の本当の母親です」と言って譲りません。そこで、大岡様はこう言いました。「子の腕を持て。お前は右じゃ。そちは左を持つがいい。それから力いっぱい引き合って勝ったほうを実母とする」女たちは子供の腕をおもいきり引っぱり始めましたが、子供が痛がって泣くので、一方の女は思わず手を放しました。勝った女は喜んで子を連れて行こうとしましたが、大岡様は、「待て。その子は手を放した女のものである」 と言うのでした。勝った女は納得できず、 「なぜでございます。勝った者の子だとおっしゃられたではありませぬか」 と激しく抗議しました。そこで大岡様はおっしゃった。「本当の母親なら子を思うものである。痛がって泣いているものをなおも引く者がなぜ母親であろうか」と。』

 この話は、中国宋代、紀元1200年頃の「棠陰比事(とういんひじ)」の出典だと言われています。『兄と弟の妻が同時に妊娠した。兄の妻は自分の子が生まれる前に死んでしまったことを隠し、無事に生まれた弟の妻の子を自分の子だと主張する。跡継ぎがいなければ財産を相続できないからだ子をめぐって2人の女は争い、裁判に。判事は子を奪い合わせ、勝った方を母親と認めるとした。兄の妻は子の足が折れるほど強く引っ張り、弟の妻は子がかわいそうで力を入れられない。それを見た判事は、子を弟の妻のものとした。』という話です。

 ところが、この話にも出典があるのです。遥か、紀元前900年代のイスラエルに、ソロモンという王様がいて、二人の母親の子をめぐる争いを裁いた「ソロモンの裁き」に酷似しているのです。この話では、王がこの子を切り裂いて分けようとしたのですが、一人の母親は、『自分の子を哀れに思って胸が熱くなり、王に申し立てて言った。「わが君。どうか、その生きている子をあの女にあげてください。決してその子を殺さないでください。」』と言います。それでこの女が、実の母親であると分かり、ソロモン王は、その一件を落着させたのです。

 一つの話が、イスラエルから中国の宋の時代に、そこから江戸(もしかしたら明治にはいってかも知れませんが)に伝わったのは、そう言った人情派、正義派の話を、洋の東西、時の今昔を問わないで、人々が好むからなのでしょうか。それにしても、実に賢い裁きではないでしょうか。

 この大岡の功績は、「目安箱」を江戸の街角においたことでした。江戸庶民の不満を、江戸の治世に生かしたそうです。また、「小石川療養所」を開設し、治療代の払えない貧しい人たちに、治療を提供しています。また、飢饉対策で、「サツマイモ」の栽培を奨励しています。ちょうど今の東京都知事の様な仕事をしていた、「名奉行」の誉が高かった人でした。

 大岡は、地方の行政責任者ですが、目利きの鋭い大岡の様な、「政(まつりごと)」を、国政に当たる、第99代内閣総理大臣の菅首相に期待したいものです。芝居や映画の様なものではない、今の時代の抱えている問題を、偏らずにお裁きしてほしいものです。

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銀漢

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   「中秋月」  蘇軾

暮雲収盡溢清寒
銀漢無聲轉玉盤
此生此夜不長好
明月明年何處看

「日本語の読み]
暮雲収め尽くして清寒溢れ
銀漢声無く玉盤を転ず
此の生、此の夜、長くは好からず
明月、明年、何れの処にて看ん

[意訳]
日暮れ方、雲がなくなり、さわやかな涼気が満ち、
銀河には玉の盆のような明月が香もなくのぼる。
この楽しい人生、この楽しい夜も永久に続くわけではない。
この明月を、来年はどこで眺めることだろう。

 この詩は、中国宋代の詩人、蘇軾の作です。この人は、蘇東坡とも呼ばれていて、「唐宋八大家」の一人に数えられています。22歳で弟の蘇轍と共に「科挙(官僚登用試験/日本の国家公務員試験に似ていますが、蘇軾の時は、3人だけの合格でした)」に合格したほど優秀でした。

 国政の混乱の中、二度も左遷させられる様な憂き目にあった人でもありました。そんな事態を生き抜くことができる、天性の楽天的なものの考え方のできた人だったそうです。だから、後代に、詩を多く残せたのでしょう。

 「天の川」を、銀河というのは知っていましたが、「銀漢」と呼ぶのを知ったのは、葉室麟が書き表した、「風の峠〜銀漢の賦〜」を読んだ時でした。地の上のやかましい人の声とは真反対に、中秋の名月も天空に広がる銀漢も、語りかける声もなく煌いているだけなのです。

 そんな静けさの中に、蘇軾は生きていたかったのかも知れません。現代人だって、やかましい人の声を避け、思いの内に湧き上がってくる邪念を打ち払って、明鏡止水の心境に入りたいのかも知れません。秋の夜長は、そんな願いが一番相応しそうです。

 とは言うものの「食欲の秋」でもあります。美味しい「月餅」を、友人が華南の街から持ち帰って来てくださると約束して、帰って行かれました。手広くパン店を経営して、この時節の「月餅」の製造販売が、会社経営の大きな事業時期なのです。人に任した事業のテコ入れに戻って、辣腕を奮って、月餅の製造に拍車をかけたことでしょう。間もなくお仕事を終えて、日本に戻って来られるでしょう。その時、きっと銘菓をいただける、そんな楽しみが待っていそうです。

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今季最終

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 五月に種を蒔いて、プランターに苗を植えて、今朝、一輪の朝顔が咲きました。6ヶ月にわたる生育と開花を楽しんできたことになります。10月1日、多分、最終の朝顔かと思われます。毎年毎年、小学生がする様に、植物実験を繰り返して来ています。華南の街では、バス通りに面した7階のベランダで咲いていました。

 色とりどりの花を、朝ごとに咲かせて、楽しませてくれたことに感謝でいっぱいです。この月曜日に、家内と長男とで、獨協医科大学病院に出掛け、4週ごとの診察を受けてきました。経過は良好でした。服用しています薬も、徐々に少なくなって来ています。みなさんの応援のおかげです。ありがとうございます。

 図書館に出かけたり、買い物に行ったり、人を訪ねたりして、日を過ごしています。前回の血液検査で、腫瘍マーカーの数値が大きく上がっていましたが、今回の検査で、元の低さに戻っていました。子どもたちも一喜一憂していますが、感謝な日々を過ごしています。

 先週は、家内の発案で、炊事洗濯などの家事から、私を解放させたいと、日光にある、スポーツ用品会社の保養所に出かけて、3泊四日を過ごしました。会社から出向されている方が案内してくださって、鬼怒川大橋を見学させてくれました。帰りにご婦人たちが運営している蕎麦屋さん行き、昼食を摂りました。

 温泉にも浸かることができ、支えられ、守られて過ごしております。みなさんの祷援や、激励のおかげです。ありがとうございます。この欄で、感謝しつつ、経過報告をいたします。

 コロナ禍ですが、爽やかな秋がやって来た様です。みなさんのご健康を、心から願っております。

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ズボン

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 行きつけの医院に行った時のことです。いつものように、同世代の医師が、この過ぎた4週のことを聞いてくれ、看護師が血圧と体重を測ってくれ、けっこう世間話とか、これまでの経験とかを聞かれたり、個人的なことまで立ち入って聞かれる、気さくな方なのです。

 頭髪のハゲ加減は、医師の方が後退していて、こちらの勝ち。若く見える度も、『年齢としては若いですね!」と、毎回の様に言われるので勝ちなのです。ところが、履いているズボンが、違うのです。こちらは、スーパーの衣料品売り場に吊るして売ってる、1980円の少々寸足らずなのに、先生の方は、宇都宮のデパートででも、奥様が買ったのでしょうか、2、3万円はする様な代物(しろもの)なのです。

 収入の度合いの違いで仕方がありません。帰国してから、もう2年近くなるのですが、下の兄が奔走してくれて受給できた、わずかな年金と、家内のお見舞いにいただいたり、友人たちや兄弟姉妹たち、華南の街の倶楽部が支えてくれたものとが、まだ底をつくことなく残っているのです。その他に、子どもたちが心配してくれて生活しているのです。ですから先生との違いは歴然としています。

 どなたかが、『ボロは着てても 心は錦 どんな花より・・・』と、昔歌っていた歌手がいましたが、家内も私も、ボロなど着ることなどありませんし、“ go to Nikkou ” で、3泊4日も温泉のある保養所で過ごすことができて、文化的な生活が過ごせています。私たちは、人に物をねだることをせずに、今日まで生きてこれました。
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 華南の街で生活を始めた頃、中国の友人たちは、豊かな国から、豊かな援助を得て来ているのだと思っていた様です。ところが、いつだったでしょうか、帰って行く家が日本にはなく、帰国のたびに違った所に居候していることを知られてしまいました。また、日本の少数の友人たち、家族が援助して来てくれてることを知って、私たちのことを感謝してくれたのです。

 大学の外国語学部の講師として働くことができ、70歳で退職後は、倶楽部のみなさんが、毎月援助してくれたのです。初めお断りしたのですが、『あなたたちは私たちの家族ですから!』との善意をお受けしたのです。そんな中、家内が病んで入院した時、入院費や治療費、帰国の飛行機代なども払ってくれました。そして、信じられないほどの助けをいただき、帰国後は、遠路を、何組もの方がお見舞いにまで来てくれたのです。

 溢れるほどの恵みをいただいて、老いを、しかも病の中を生かされております。「敬老の日」には、孫たちが長寿を愛でてくれ、生かされている喜びを感じる今日この頃です。ズボンの値段や質などは、問題ではありません。そろそろ夏物から、秋冬物に、ズボン替えの時期の様です。

 今日は10月1日、中国では、「中秋節」で、「国慶節」でもあります。一個一個の「月餅」を、人数分に切り分けて、少しずつ分け合って、食べた日々が懐かしいのです。

(標準的な「月餅」です)

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