『単に陶器に限らず、広く美術作品についてもいえることだが、「生活から見る」ーこの鑑賞態度を私は提唱したい。美術展などに並んでいるすばらしい作品だけがすばらしいものを持っているという一般の概念には、もういい加減におさらばして、各自が自分たちの生活から物を見てもらいたいものである。
なるほど美術館や展覧会には、ちゃんとたれかに選ばれた優れた美術品がならんでいる。しかし、わざわざ美術館や展覧会場にいかねば美しい作品を見らねぬと思い込んでいた従来の鑑賞態度は、何よりもまずあまり知的であったという譏(そし)りを免れぬと思う。
大部分の人たちが知識で鑑賞しているのである。「生活で見よ」ということは、よそ行きの心や態度を棄て、もっと自分たちの生活の中に、対象を選べという意味である。美しいものは、ひとり美術館におさまっているのではない。われらの身の周囲に、食卓の上に、台所にいくらでもあるはずである。それらを探し楽しむ態度こそ、真の正しい鑑賞の態度であろうと思う。
しかし、かかる態度は近来ほとんど顧みられていない。早い話が三度三度自分が使用している茶碗の模様や、その色彩を意識的に知っている人は、案外少ないのではないかと思う。もちろん感覚的には知っているだろうが、はっきり意識ている人は、まずたくさんはないと思う。これではうそだ!
自分の生活に中に美しさを発見し、それを楽しむ喜びこそ、新時代の観賞の出発点でなければならない。美とは所詮生活に中において、ありとあらゆる物と事の中からお発見する喜びであらねばならぬ。従って美に対するかかる考え方から出発すると、昔からの有名なものに、必ずしも美があるとはいえず、従来たれも認めなかったもの、必ずしも美がないとはいえない。
かかる態度に立った観賞態度が練られ、深められて行くに従い、その人の見方は万人に通ずる高さまで到達すると思う。再びいう「生活からものを見よ!」ー。
知識や観念や概念で見ず、生活から見てこそ、はじめてこちらの純粋の喜びと、対象の持つ美との間に、共感するものが火花の如く散るのである。しかし、この「生活から見る」ということは、必ずしも新しいことではない。われわれの先祖たちは、すでにこれをやっていたのである。
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たとえば、朝鮮人の飯茶碗の中に大名物を作っているし、また茶人たちが雑器を取り上げているのもこの一例である。かかる点では、昔の茶人たちは、多くの功績を持っているが、しかし、ここおで考えねばならぬことは、彼らが発見した喜びは、むしろ茶というものを土台にした喜びであるという一点である。今日われわれは、むしろ茶というものを土台にした喜びと美の創造に当たらねばならない。
もちろん喜びを発見するといっても、対象の選択ということが大切である。その選択の三大条件は、健全であること、質素であること、国民的であることーこの三つであると私は思う。抹茶にゲンコツをはった茶碗とか、わざと曲げた茶碗などをいいという人があるが、これは喜びではあるが、対象の選択において間違っている。
不必要な技巧をこらしたものは、健全とも質素ともいえないと思う。また最近多くみる非常に繊細で神経質な模様、あるいは実用にもなりそうもない極端な薄手のものなどは、いずれも健全でも質素でも国民的でもない。
私は先年、東北地方を旅行して、子供が履いている藁靴を見て、その美しさに驚いたことがある。それはもちろん手製のものであるが、装飾ではなく、ある箇所を特別強めるための、立派な構造上の根拠を持っている。しかもそれは見て非常に質素な美しさに溢れ、しかも父母のわが子に対する愛情までが輝いているように思えた。これこそ真の生活の中にある喜びであり、美であると思った。
生活的にものを見て、生活的に喜びを発見し、生活的に物を取り入れてゆきたい。ここに次の世代の輝かしい生活の創造があると思うのである。一方製作者も、技術的な、あまりにも技術的な近来の傾向を反省し、無駄な技巧を排し、新時代の日の想像に邁進せねばならぬと思う。』
(昭和56年5月10日発行 河井寛次郎著「手で考え足で思う」から)
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