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信州長野の小諸地方に、「小諸馬子唄」という民謡があります。碓氷峠の馬追いが馬をひきながら唄ったものです。「馬追い歌」とか「馬喰節(ばくろうぶし)」とも言われていたそうです。
小諸出て見りゃ 浅間の山に
今朝も三筋の 煙立つ
小諸出抜けて 唐松(地名)行けば
松の露やら 涙やら
田舎田舎と 都衆は言えど
しなの良いのが 小室節
さした盃 眺めてあがれ
中に鶴亀 五葉の松
祝い目出度の 若松さまよ
枝も栄える 葉も繁る
小諸通れば 馬子衆の歌に
鹿の子振袖 ついなれそ
(以下省略)
最初の歌詞に、浅間山が歌われていました。1972年2月19日に、この民謡に歌われた浅間山のちかくにあった、河合楽器の保養所の「浅間山荘」を、連合赤軍が人質を取って籠城した、「浅間山荘事件」が起こり、日本中を震撼とさせました。
70年安保闘争が終わった時期でした。その学生運動の流れの中で、再組織された一団、「新左翼派連合赤軍」が、運動資金という名目で銀行強盗や、銃砲店襲撃などを繰り返していました。警察に追われた連合赤軍は、群馬県の山岳に身を潜めます。そうする内、仲間内の自己批判や相互批判が、いわゆる仲間割れが起こり(〈内ゲバ〉と言われていました)、2ヶ月の間に、12名もがリンチの末、殺害されたのです。この組織は、一致できずに崩壊していきます。
そん中で、浅間山荘に、管理人の婦人を人質に、その一団の5人が立て籠もったのです。28日に、警視庁の突入部隊によって、事件は終わります。この事件の顛末は、テレビ中継がなされ、報道番組としては未曾有の高視聴率を記録しています。当時の事件への関心の強さがうかがわれます。けっきょく死者3名、重軽傷者27名を出してしまいました。
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5人の立て籠もり犯は、裁判にかけられ、坂口弘は死刑、吉野雅邦は無期懲役、加藤倫教(逮捕時19歳)は懲役13年とそれぞれ判決が確定します。加藤弟(逮捕時16歳)は中等少年院送致となりました。なお、坂口の場合は、結審まで、事件が始まってから21年の歳月を要したのです。坂東國男は、クアラルンプール事件で釈放されたまま逃走し、国際指名手配中で、今では生死は不明とのことです。
同じ目的で集められたメンバーですが、仲間内の出身大学間の優位競争の〈力学〉が働いていたことも確かなことだった様です。階級闘争をした者たちの内でも、有名大学、今でいう偏差値の高い難関大学の在校生、退学者が、発言権があって、幹部として幅を効かせていたわけです。
70年安保の前後の時期、私は社会人として働き、この事件が起こった年の5月に、長男が生まれました。自分の生まれ育った国の中に見られる様々な矛盾や不公平を、暴力を辞さないで変えようとする暴力革命者たちがいました。彼らの青年期に、剥き出しにしていた牙や爪を隠して、その後、政治の世界に進出し、「民主」を掲げて政治家になって、今でもテレビのニュースに顔を見せている残党を見るにつけ、過去の未精算の部分をぼかしながら、政治活動を導いているのには、〈怖い思い〉がしてしまうのは、私だけではなさそうです。
暴力に訴えて活動し、しかも仲間割れした者たちが、時間の経過と共に、果たして一つになることができるのかが、一番危惧することなのです。そんな背景の人たちが、この国の発言者であっていいのかを疑います。小さく、平凡な日常の事ごとを、忠実にしていかないで、急激な変化を遂げようとするなら、決して成功しません。小事忠実の積み上げだけが、社会を、少しずつ変えて行くに違いありません。
(〈日本経済新聞〉による噴煙を上げる浅間山、山荘です)
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