快挙

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 太平洋戦争、日中戦争が終わった日、私は生後7ヶ月でした。山奥の神社参拝客の旅館の離れを、宿舎に借り上げていて、そこで生まれました。村長さんの奥さんの手で、母の胎から取り出されたそうです。世は食糧難の時代でしたが、30代の半ばの父は、軍需工場の責任者で、村の人たちからも差し入れがあって、食料に窮することなく、わが家は生活できていた様です。

 戦後は、戦時中に山の中の石英の搬出に使っていた策動で、父は、払い下げられた県有林の材木を伐採し、京浜地帯に向けて卸す木材業をして、糊口をしのいでいました。男の子4人の将来を考え、教育のために、東京に越すことに、父は決めたのです。

 新宿駅の南口に家を見つけたのですが、東京きっての繁華街が近いので、これから育って行く男の子たちが生活するには相応しくないとのことで、東京都下に家を買って住み始めたのです。ご承知の様に、高度成長期前の日本は、まだ貧しく、敗戦の痛手で一億自信喪失の時代でした。

 そんな時に、肺炎で死にかけた病欠児童は、強くなりたい、喧嘩に強くなりたい願望の私でした。そんな頃、この胸を踊らせる様な出来事がありました。干物と味噌と漬物と麦飯を食べてきた日本人が、ボクシングで世界チャンピョンになったのです。

 1952年5月19日、旧後楽園球場に、特設リングを設けて、白井義男が、世界フライ級チャンピオンのダド・マリノに勝ったのです。日本人として初めて世界のタイトルを手にしたわけです。それは一億日本人に、夢と勇気を与えた衝撃的な勝利でした。虚弱小坊の私も、拳を握りしめて白井義男を応援したのです。28歳、遅咲きのチャンピオンでした。
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 後日、白井義男は、『生まれたのは旧三河島六丁目です。第一峡田小学校に入って、五年生の時に第六峡田小学校というのが出来て、そこに移り、第一荒川高等小学校に進みました。小学校五年までは本当に弱虫でした。』と、いじめられっ子だったと言っています。

 さらに、『同じクラスに強いのがいましてね。いつも何かを買って渡さないといじめられる。だんだんお金がなくなって、仕方ないから先生に訴えたら、その先生が「男なら闘ってみろ!」という感じで、けしかけるわけですよ。もう一人弱虫がいたのですが、二人もいて一人に対抗できないのか、という意味だったのでしょうね。つまり、けんかの勧めです。昔は剛毅な先生がいたものです。ある日の放課後。その「決闘」は学校近くの野原で行われました。相手は二人一緒でも構わないといった態度だったのですが、男らしくというので、まず僕が挑戦しました。「闘えるだけ闘おう!」と捨て身の挑戦でした。無我夢中でぶつかって左四つになり、やあっと声を発したら、相手が足元に倒れていました。結局、その相手とは仲良くなりましたが、その時に、闘いに対する自信が生まれました。そして、運動嫌いの僕が相撲、野球、剣道とスポーツを始めるようになったのです。』と続けています。
 
 白井義男は、ボクサーを目指して銀座のジムで練習していました。そこに、GHQに勤務する生物・生理学者でボクシング指導者のカーン博士来ていて、白井の素質を見いだします。このカーン氏の指導を受けると、さらに力を増したのです。フライ級、バンタム級の二つの日本タイトルを獲得、そして、世界チャンピオンとなりました。四回防衛しましたが、今度はベレスに敗れ、1955年(昭和30年)に引退しています。

 《快挙》という言葉が、小学校二年生の私にも、何となく理解できたのです。負け犬の様な生気をなくしてしまった日本と日本人に、喝を入れ、自信を与えたという意味で、白井義男の快挙は、絶大な意味があったのでしょう。

 学校が好きなのに、微熱が出ては休んで、隣町の国立病院に通院し、粉薬や水薬をもらい、それを来る日も来る日も、食後に飲んでは、一日中、床に伏せていなければならない病欠児童の私に、《強さ》、《強くなれること》を、白井義男は示してくれたのです。この人は、虚弱児に希望を与え、《特技がケンカ》の少年にしてくれたのです。もうしませんが。

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