薩摩隼人

 

 

古今東西、「教育論」が多くあります。私が中高6年間に受けた教育は、「大正デモクラシー」の思想的な背景から始められた教育で、父が心酔していた方が、建学した学校でした。この方は、吉田松蔭の感化を、個人的に受けた方だったようです。

二十代の松蔭は、「松下村塾」で、桂小五郎(木戸孝允)、久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、前原一誠などの青年たちを教育したのです。その教育は、師が弟子に一方的に教えるではなく、お互いに意見を交換したり、文学だけでなく登山や水泳なども行なうという「生きた学問」を行なったのだそうです。

松蔭の孫弟子のような実感は、私にはありませんが、青年たちを「進取の精神」を持つ人に作り上げたことは、素晴らしいことでした。日本海に臨んだ、山口県の萩市に、史跡が残されています。また、薩摩藩では、「郷中教育(ごじゅう)」がなされ、幕末の志士たちを生み出したと言われています。

それは、薩摩藩の伝統的な教育法で、子どもたちを、年齢別に4つのグループに分け、それぞれのグループからリーダーを選びます。リーダーが生活の一切を監督し、責任を負う形をとったものです。「小稚児(こちご/6~10才)」、「長稚児(おせちご/11~1才)」、「二才(にせ/15~25才)」、「長老(おせんし/妻帯した先輩)」という年齢で分けられていました。先輩が後輩を指導しながら学問や武術を学んでいたようです。そこには、相手への思いやりがまず必要ですし、相手の能力を把握しそれに適した伝え方を工夫することも必要でした。自発性、協調性、思考力が涵養されたのでしょう。

その教育の要点は、

◯用事で咄(グループ)外の集まりに出ても、用が済めば早く帰れ、長居するな、

◯何事も、グループ内でよく相談の上処理することが肝要であれ、

◯仲間に無作法など申しかけず、古風を守れ、

◯グループの誰であっても、他所に行って判らぬ点が出た場合には仲間とよく話し合い、落ち度の無いようにすべきであれ、

◯嘘を言わない事は士道の本意である、

その旨をよく守るべしだったそうです。

その教育を受けた西郷兄弟、大久保利通、大山巌、桐野利秋などを輩出したのです。そんな日本の近代化を担う人材、要人を、薩摩から日本に送り出したのです。しかも下級武士の子たちが、薫陶を受け、新日本の誕生に貢献したことになります。

この大久保利通は、「初代内務卿(事実上の首相)」でした。維新後の「明治政府」で、辣腕を振るって、様々な改革を導きます。富国強兵・殖産興業・実行廃藩置県・版籍奉還・学制・地租改正・徴兵令などを主導したのです。「近代日本」の基礎作りをした優れた人でした。西郷隆盛に勝るとも劣らない逸材でしたが、明治10年に、東京の紀尾井坂にて、5人の士族によって暗殺されてしまいます。

ご維新後、「武士」の世ではなくなったことを、大久保利通が強調したため、士族(旧武士階級)から恨みを買っていたようです。47才でした。こう言った「英傑(<維新三傑/西郷隆盛、木戸孝允、大久保利通>」の一人を生み出すために、「郷中教育」があったのです。薩摩の男子を「薩摩隼人(さつまはやと)」と言うそうです。

(桜島の噴煙です)

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